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ディスレクシアを知ったときの驚き・親の立場から

末盛千枝子
日本国際児童図書評議会副会長

 

 末盛でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

今の河村先生のお話がわかりやすく、非常に整理されておりましたので、私はその後で、ちょっと困ったなぁと思っているところなのですが、たまたま先生のお話に出てきた「薔薇の名前」のところで、私が興味を持っていることと関わりがありますので、それに付け加えたいと思います。

 それは、「薔薇の名前」に出てきた修道士たちが手で書き写す写本というのは、聖書だけではなく、ギリシャの古典も、その人たちの作業を通して全部、現代に伝わっているという、これはすごく重要で、素晴らしいことだと私は思っています。

 ちなみに私が最近知って興奮したことがあります。もしかしたらディスレクシアと関係ないかもしれませんが、紀元前300年にエジプトのアレクサンドリアで、クレオパトラは既に図書館を持っていた。何故かというと、アリストテレスがアレキサンダー大王と出会ったという奇跡のような偶然があったために、図書館が世の中に存在することになったと。 もちろんそのときの本はパピルスに書かれたもので、巻子本(かんすぼん)というものだったらしいのですけれども、図書館の歴史1つとってみても、本当におもしろいということを、最近、本にかかわる者として知りましたので、少しご紹介させていただきました。

 今、ご紹介にもあったようにJBBY、国際児童図書評議会IBBYという組織の日本支部なのですが、世界中の子どもと本にかかわる人たちの支援をしております。子どもと本をつなぐ人に働きかけております。少数言語の人たちの本を作ることなども手伝っています。

 それはIBBYの仕事の中でとても大きな位置をしめしていますが、世界中の子どもたちに、どういう子どもであっても「読む権利」、「読書人になる権利」を保障しようとしています。これはとても素晴らしいことだと思っています。

 私の経験ですが、独身時代から絵本などに興味を持っていました。そして最初に私の中で重要な本に出会ったのは、「からすたろう」です。これは日本人のやしまたろうさんが1955年にアメリカで、自分の出身地の鹿児島での経験を絵本にし、出版されました。それ以来、アメリカ中のお母さん達がこの本に勇気づけられたというものです。チビというあだ名のこの本の少年は、今考えてみればきっとディスレクシアだっただろうと思います。この本を知ったとき、私はまだ結婚前だったのですが、本当に感動しました。

 やしまたろうさんと知り合えたこともありました。鹿児島の田舎で毎朝、2時間も山道を歩いて学校に通う少年が、学校には来るけれど、黒板の先生の文字がさっぱり読めない。とてもつまらないというか、教室の中で置き去りにされるんです。でも6年生のときの担任の先生が、勉強はできなくても、野山のことは誰よりも詳しいことに気がつき、その子のことをよくわかってくれるのです。ある日、卒業式の日だったか学芸会だったか、「チビがからすのマネをします」と言って紹介します。その子が素晴らしく、あらゆるからすの鳴き方、村にうれしいことのあったときのからすの鳴き方、悲しいときの鳴き方など、それは全部その子が遠い山道を通って朝早く家を出て、帰りも、家に着く頃には真っ暗になるくらい遠いのですが、一人で学校に通う途中で身につけたものだった、ということを先生が話してくれ、それを聞いていた、おとなも子どもも感激して涙を流すというお話でした。

 1979年に、「からすたろう」は、やっと日本で偕成社から出版され、そのときにお手伝いいたしました。印象的だったのは、日本の鹿児島の田舎の話なのに、アメリカで1955年に出版されて以来、何十年もアメリカ人たちに大切にされてきた、すばらしい本だったということです。

 もう1つ、ご紹介したい本があります。自閉症の少年の本ですけれども、その本に出会ったことで、私は強い印象を受けて、日本でもこの本が出るといいと思いました。

 スティーブン・ウイルシャー(Stephen Wiltshire)という、ディスレクシアではないですが、自閉症の天才画家といわれている人です。その人は、とても不思議な人で、写真をみると、この本の表紙の写真はともかくとして、フォトジェニックな好青年ですが、自閉症なわけです。でも建物の絵を描くことに大変な才能があります。時々テレビでも紹介されているので、ご覧になっているかもしれません。人間の脳の本当に不思議なことを感じました。彼は、頭の中に映像として建物のことがいつでも残っているのです。コンピューターのメモリ装置のようになっていて、描こうと思えばいつでも取り出して絵を描くことができるのです。私たちが絵を描くときには、大体のアウトラインや構成を考えてから描くと思いますが、彼は、機械的にプリントアウトするように、じっと下のほうから描きます。何ができるんだろうと思って見ていると、立派に、ロンドンやモスクワの建物を描き上げることができるというすばらしい才能の持ち主です。その人のことは、精神科医のオリバー・サックス先生も非常に興味を持って、調べたり、話したりしています。そういう出会いが、私自身には出版とJBBYとの関わりとしてありました。

 息子の話になります。私には二人、息子がいます。長男が、ディスレクシアだと思います。それほど重度ではないと思います。  忘れられないことは、幼稚園、学校が大好きな子供でした。小学校に入って、学校から帰ってきて、私の隣に座って、「ママ、お勉強しよう」と言って、教科書を出し、ノートを出し、一緒に勉強しようとするのですが、覚えられないんですね。前に出てきた言葉を。そして、アイウエオは読めても、文章として読むことはできない。

 自分自身は、7人兄弟の長女でしたので、弟や妹が文字・言葉を覚えるときの圧倒的なスピードというのか、子どもの吸収力を印象深く持っていましたので、息子のその様子を見たときに、「一体これはどうなっているんだろう?」と思いました。本当に無邪気な顔で、「ママ、お勉強しよう」と言うんですね。そういうことの繰り返しでした。

子どもに何かを教えるということについて、私も良い母親ではなかったですが、それでも、かなり一生懸命やったと思います。

 資料にありますが、先生とのやりとりのノートも、ほとんど何も書いていかない子どもだったのに、小田急線のフラワートレインという電車が気になっていたらしいです。あるとき、ノート8ページにも、それについての作文を書いていって、翌日、先生は、学級通信の号外を出してくださって、この詩だけを載せてくださいました。 それは、後日、その先生が本を出されたときに、先生の感激したこととして、息子のフラワートレインを載せてくださいました。

 不思議なことに、その子、その子で好きなことがまったく違うなと思いました。そうして見てきますと、長男は小さい頃から、結構スピード狂でした。夏、プールに行くと、滑り台があります。滑り台が2本あるんですが、一人では滑らずに、隣に誰かが来るのを待って、競争しようとします。相手が大人でも子供でも構わないのです。そういう不思議な子どもでした。

 でも彼は、歩き始めたのが遅くて、1年8ヶ月目でした。2歳下の弟は、1歳の頃には家の中を走り回っていました。それだけ人はみな、違うんだということを思ったのです。

 フラワートレインについて、たまたま作文を書きましたが、それは彼にとっても私たちにとっても大きな事でしたが、それ以外は学校のテストでも点数は低空飛行というのか、非常に難しいことでした。 息子が小学校3年生のときに、夫が突然死したものですから、子どもたちと手を取り合って生きてきました。

 ただ、その息子を見ていて、いろんなことは非常によく分かっているようなのに、それが学校の成績には全くといっていいほど反映されないというのは、一体何だろう? そして文字もいくら練習しても上手く書けないのは何だろうと思っていました。そういう時に、私が読んでいた『あけぼの』という雑誌に、アメリカの、ディスレクシアの子たちのための高校訪問記が載っていました。それを読んだ時の自分の興奮を今もよく覚えています。

 夜、「これだ!」と思ったんですね。すごく色んな事がよく分かっているのに、勉強になるとそれが定着しないということを、不思議に思っていましたが、ディスレクシアに出会って、「これだ!」と思いました。

 それに気がつくきっかけは幾つかあったと思います。息子は、学校は好きでも、授業にはついていけない、でも、彼がすごくおもしろいという社会科の授業を参観したときに、大人が聞いていても、それは本当におもしろい社会科の授業でした。完成度の高い授業を「おもしろい」と思う息子のことを私は非常に印象的というか、一体これは何だろうと思いました。そんな時に、初めてディスレクシアに出会ったのです。

 その雑誌の編集者に連絡し、いろいろなことを教えてもらいました。そのアメリカの高等学校の校長先生に電話をしました。そうしたら、その方が「なぜディスレクシアの学校を作ったかというと」と話してくれました。元々教育学者だが、最近になって元々自分がディスレクシアだったとわかったので、特別な学校を作ったと。「アメリカに来る機会はないのか?」と聞かれたので、「ここのところそんなにないのですが、ヨーロッパには行くことがある」と言いましたら、「ではイギリス人を紹介する」と言われました。

 日本にいる私のところに、イギリスでディスレクシアの子どもを育てているイギリス人夫婦で、ちょうどご主人の仕事の関係で東京にいる人を紹介しますということで、その人が突然私の所を訪ねてきてくれたんです。1988年のことでした。  久しぶりにノート等を出してみたのですが、ジャネットという、イギリスの大きな銀行の日本支社長の奥さんで、美しい人でした。  彼女が、ディスレクシアはどういうことで、自分の息子の場合はどういう状況で、どういう学校でどういうことをしているかを教えてくれました。

 1991年3月でしたが、イタリアのボローニャで毎年、子どもの本のブックフェアがあるのですが、その帰りだったと思います。子ども達は郷にあずけていたのですが、そのジャネットのすすめもあり、イギリスのバースであった、第1回の英国のディスレクシアの大会に何も分からずに参加しました。わからないと思いつつ、そういう子ども達を教えている先生や、自分が当事者だったり、親御さんの話を聞いて、ノートに分かることだけを書いてきたのですが、いくつか印象的なことがありました。

 多分、先生かもしれないけれども、自分もディスレクシアだと思うということで、「ノートを取ることが難しい」と。私自身もノートを取るのが難しかったので、私ももしかしてそうかもしれないと思っています。その会場で、大きな画用紙にサインペンでノートを取っている人がいました。「ノートを取るって、こういうことでもいいんだ」とそのとき思ったんです。そういう経験というのは、小さなことのようですが、物事の考え方を広くしてくれる、いろいろなことができると思いました。

 先ほどの、スピードが好きな私の息子ですが、私が、車のモーターレースのF1など聞いたこともないうちから、彼はF1にものすごく興味を持っていました。F1レーサーで昔の花形スターで、ナイジェル・マンセルというすてきな人がいまして、息子は彼のファンでした。それは息子が小学校5~6年の頃だったと思います。ナイジェル・マンセルなんて、眉毛の太い立派なおじさんでした。そのイギリス人のジャネットのご主人が、ナイジェル・マンセルから手紙をもらってあげると言ってくれました。息子に、「まずこちらからファンレターを書きなさい」と。「この前のブラジルのレースのときは大変そうでしたが、そのときは大丈夫でしたか・・・」などと、私には分からないようなことですが、彼が日本語で書き、私が英語に訳して友達に渡しました。

しばらくしたら、本当にナイジェル・マンセルからちゃんと手紙が来ました。息子にあてて、あのブラジルの大会はハードだったけど、それをちゃんと見ていてくれて私は本当にうれしい、という手紙がきました。彼にとって一生の宝物だと思い、家で今でもその手紙を額に入れて飾ってあります。

 イギリスでのディスレクシア協会の大会ですが、3日間ぐらいだったでしょうか。分科会もいれて、64人が話をしました。その中でとてもおもしろい話もありました。エジプトの話に戻るかもしれませんが、紀元60年に、「子どもたちにものを教えすぎる」と既に言われていたそうです。人類というのは同じ事を繰り返しているのかなとおかしく思いました。

 息子については、彼の良さを見るようにしていました。バースで発表した人の中にも、難しいのは、子どもが2人いて、どちらかがディスレクシアでもう一人の子が普通だった場合、もう1人の子どもがどうしてもフラストレーションをおこすので難しいんだと言う人がいました。まったくうちでもそうでした。人一倍ゆっくりな子どもと、人一倍早い子ども。でも、人一倍ゆっくりな子のほうが物事を的確に見ている感じはありました。

 結局長男は高校に入り留年することになりました。2回目の留年は認められないので、さぁ、どうするかと。息子が「学校はもういい」と言いました。私はその時、彼が小学校時代から、もちろん学校は好きでしたが、「からすたろう」ではないですが、さっぱり分からない、今日私の話を聞いていてそう思っている人がいたら申し訳ないのですが、わからない話を座って聞いているほど苦しいことはないです。息子はそういう思いでずっと過ごしてきたのかと、思ったりはしましたが、彼は学校は大好きで、それは私にとって、うれしいことではありました。でも高校を中退しました。ただ私の母や妹は、中退してもまだ受け入れてくれる学校はあると、一生懸命調べてきてくれました。私は本人ともよく話をしましたが、もう学校はいい、自分で少し働くということで。中退して、今で言うフリーターのようなことをしていました。

 そういうときに、親戚が集まる機会があったとき、親戚のおばさんが、私に向かってか、息子に向かってか、「大学何年生?」と聞いたんです。一瞬困りましたが、これは、言いつくろってはいけないと思って、彼は高校を途中で辞めて、今、自分でやりたいことを探していると言いました。その人達は、割とエリート指向な親戚ばかりだったので、一瞬びっくりしたような顔をしていましたが、「千枝子さんらしいわね」と、どういう意味かわかりませんが、そういうふうに言われました。

 その後も、色んなことはあるのですが、そういう息子がいなければ気づかなかったことも、たくさんあると思いました。もちろん、息子がそうでなければ、ディスレクシアのことを知ることもなかった。また、その頃はディスレクシアについて、学校で話をしても、誰も知らない、先生方も知らない、という状況でした。

 たまたま1~2か月前、フラワートレインという彼の書いたものを学級通信に載せてくださった先生に会って、そのときにディスレクシアの話になったときに、「あなた、ものすごく早く、それに気づいていたよね」と言ってくれて、「先生方もそう思っていたんだ」と思いました。

 今、すばらしいのは、コンピュータがあることです。息子は、実は、その後、スポーツをしているときの事故で車いすになっているのですが、それでも、コンピュータを使って、これって、学校で習った英語ではない、というような生きた英語で、外国とやりとりしながら、自分の世界を広げています。そういう息子を、本当にすばらしいと思います。今、ちょうど、車いすの息子と関わって生きている自分自身が、面白い道のりを過ごしてきていると思います。お互いに、ですけれども。

 車椅子になったときですね、これはディスレクシアとは関係ないのですけれども、これも友人の友人で、サッカーのマンチェスター・ユナイテッド、あの有名なマンUというチームがあります。マンUの選手と監督以下全員が、XLサイズの大きなジャージーにサインをしてくれて、息子が車椅子になったことのお見舞いとして、なんとか励まそうと息子に贈ってくれました。そういう不思議なことがありました。  さっき、河村先生は、社会のありようについてのお話をなさいました。 私の経験でお話したいのは、1970年ぐらいの話ですが、ロンドンの地下鉄で見た光景が忘れられません。白い杖を持った素敵な娘さんと、中年の男の人が、ホームで電車を待っていました。電車がきたら、その男性は「あなたの降りるのはいくつ目ですからね」と言っていたのです。親子だと思っていたのですが、そういえば娘さんは、いいとこのお嬢さん風ですが、男の人はそうではなく、粗末な服装でした。そして、その娘さんが電車に乗り込むと、すっと別の紳士が現れて、「どこどこまで行くんですね」と、その人に付き添って座らせ、幾つめかの駅で、その紳士が娘さんに、「私はここで降りますが、あなたの降りるのは、あと幾つ目ですよ」と言ってくれる。そしたら反対側に座ってそれまで、新聞を読んでいたような人が、今度は、「あなたは、どこどこの駅まで行くのですね。私と同じ駅ですから、一緒に降りましょう」と言いました。私は本当にびっくりしました。今もイギリスがそうであるかどうか分かりませんが、それは本当にすばらしい社会のありようだと思いました。社会がその人その人の、ありようを考えていけるところだといいと思っています。  私自身は、DAISYについてあまり知らなくてその話にはならなくて申し訳なかったのですが、少し私の経験をお話しました。

 

司会●
 ありがとうございました。
まだ5分ほど持ち時間があります。ここで末盛さんにご質問があればお受けします。 挙手をしていただければと思います。

末盛●
 もしご質問なければ、ご紹介したいことがありますが。
先ほど紹介したスティーブン・ウイルシャーの本ですが、ロンドンの本屋で見つけたのですが、どこにあったかというと、建築書の売り場でした。そのことはすごく素敵なことだと思いました。

司会●
 質問をお受けします。お名前をおっしゃってください。

会場●
 私は弱視者です。普段の生活では、目が見えないということはあまりわかりませんが、ディスレクシアは、社会的な状況は弱視者と似ている部分があるのかなと思います。 自分が困っていることの一例で、ディスレクシアではどうかをお伺いしたいと思います。 例えば、私は20年ほど前に盲学校を卒業して韓国から日本にきましたが、目が見えないということで、銀行などでは、ちょっと書いてくれませんか? と言うと、疑われて、書いていただくことが難しいのです。ディスレクシアをあまり理解してくれない銀行員の方に書いて頂ける方法があればお聞きしたいです。 本日、河村先生の話をはじめ、はじめてことがいろいろありまして、社会学では、「当事者」という言葉を使いますが、当事者の話は感動的で、ありがたいと思いました。ありがとうございました。

末盛●
 息子の場合、見えないわけではないのと、年齢、経験をすることによって、昔の彼が書いていた文字とはまったく違う、堂々とした字をかくようになったと、最近思っています。 ただ、銀行、郵便局にいったとき、自分で書くことはできても、その場所が車いす用に低くできていないような時は、随分と不自由はあります。 私がたまたま一緒に行ったときには、車いすがカウンターに近寄れないように、というわけではないのですが、造花の飾りがカウンターの前にあったので、どかしてもらったことがありました。 そういうことが往々にして起こると思います。 多分、あなた様の場合は、おっしゃらなければ弱視だということがわかりにくいですよね。ですから、今は名前などでも難しい規則がありますが、やはりご自分から、「目が悪いので」とおっしゃったら…。それぐらいしか私には思いつきません。どなたか。

司会●
 これについて何か、こういうふうにしてみては? という案がありましたら、おっしゃっていただければと思いますが、多分、やはり当事者の方が声を出すとか、私達はこういうセミナーなどを通じて、こういう障害があることを理解し啓発していくことが社会を変えていくのではないかと思います。 それでよろしいでしょうか。 末盛さん、どうもありがとうございました。