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講演2

「米国における『教科書・教材のアクセシブルな標準規格(NIMAS)』の成果と課題」

 スウ・スウェンソン(アメリカ連邦政府教育省特別支援教育・リハビリテーションサービス局副次官)

全国指導教材アクセシビリティー標準規格 (NIMAS)

資料01

マイリンさん、そしてお母さん、素晴らしい発表をどうもありがとうございました。今、お話しくださった内容というのは、アメリカでもやはり同じような問題を抱えています。

重要な課題

資料02

きょうお話しするのは、教科書、教材のアクセシブルな標準規格というものです。
まず、さかのぼって、なぜそれが始められたかというところからお話を始めます。ここで鍵となった問題は何かといいますと、アクセシブルな教材に対する適切、かつタイムリーなアクセスということが問題でした。われわれアメリカにあります特別な教育法、 すなわち「個別障害者教育法(IDEA)」のもとで、公的機関は今おっしゃったような問題を確実に提供することが責任となっています。ですからアクセスブルな教材は必要不可欠と考えます。

NIMASの必要性

資料03

 標準規格を必要とするという背景には4つの主たる考え方がありました。第一に、特別なフォーマットにした教材に対するタイムリーなアクセスが子どもたちには必要だということです。第二に、子どもたちは安定した品質のアクセシブルのフォーマットの教材が必要です。第三に、出版社側の声では、かなりさまざまな複数のファイルタイプを提供してきたためにかなり長い製作時間が必要であり、また費用もかさみました。ですから、さまざまなファイルタイプを特別なフォーマットに変換するために、ばらばらなシステムが当時はあったわけです。

そこで2002年にナショナルファイルフォーマット(NFF)の技術委員会を設立いたしました。そして2003年、この技術委員会が全米の指導教材アクセシビリティ標準規格(NIMAS)を提示しました。2004年、これはJIS規格として発表されました。そして、2004年、新しい個別障害者教育法(IDEA)もとで、NIMAS(教材のアクセシブルな標準規格)、これを義務づけすることになりました。そして2006年に本格的な運用が開始されました。

 ここに主要な定義を表示しました。NIMASは全国指導教材アクセシビリティー標準規格の略語です。NIMACは、限定の教材アクセスセンターの略です。AIMはアクセシブルな指導教材という意味です。これは印刷された教材との対比として使われる表現です。つまり、教育に携わるために必要な教科書ということを意味しています。特別なフォーマットに含まれるのは点字だとかオーディオ、デジタルテキスト、そして大活字です。今申し上げているのは、法律上のすべての定義です。さらに法律では、視覚障害者、また印刷物を読むことに関する障害を持つ人たちに関する定義も書かれています。

NIMAS開発の歴史

資料04

NIMASを使用する対象となる生徒たちというのは、特別教育を受けるすべての生徒というわけではありません。その中の一部の人たちがNIMASの使用資格を持つ生徒たちということになります。ここに書いている赤いところ、これが特別教育を受ける全対象生徒です。そして、ここで青く示している小さな丸、この大きな赤い円の中の小さな丸、これがNIMASの使用対象となる生徒たちです。

おもな定義

資料05

おもな定義

資料06

 NIMASに関しまして、どういう人に利用資格があるかというと、視覚障害者、そして印刷物を読むことに対する障害を持つ人は、対象となります。また、ここで視覚障害といった場合、この法律では視力0.1以下となります。さらに印刷物を読むことに対する障害というのは、普通の形での印刷媒体を読むことができない障害ということを意味しています。

NIMASを利用する資格がある生徒

資料07

 その中に含まれるのは、物理的、身体的な制約があることによって読めない、また、通常の印刷媒体を使うことが難ししということも含まれます。例えば、物理的に本を持ってページをめくることができないというのもこの中に入ります。さらに、物を読むことに対する障害がある、例えばディスレクシアなどもその中に入ります。器質的な機能不全、障害があることによって、普通の形で印刷されたものを読めないということも入ります。

NIMAS利用資格: 視覚障害および印刷物を読むことに障害がある人々

資料08

 そして、利用資格があるかどうかの判断をどのような形でするかというのは、それぞれのグループの人たちごとに異なってきます。つまり、所轄官庁によって、あなたは利用資格がありますよということが決められます。例えば、視覚障害であるとか、また、身体的な制約がかかる人の場合、その決定判断を行うのは医師であるとか、あるいは眼科の医師、そして登録された正看護師、病院の専門スタッフ、さらには公共福祉当局の担当者ということになります。一方、器質的な障害、ディスレクシアのような形で障害を持っている場合、その判断をするのは医学博士、ドクターだけです。つまり、ここに差があって、視覚障害であったほうが利用資格をより容易に判断されやすいということです。ですから、私たちとしては、やはり専門家である医師たちとより協力をし、密に連携を取ることによって、医師たちの場合にもディスレクシアというものがどういうものか、もっとよく分かってもらう必要がここではあると思います。

“資格のある権威者”の違い

資料09

 一つ、米国の教育制度について分かっていただきたいことがあります。今ぐちゃぐちゃな状態です。約2万にもわたる地方の教育当局というのがあります。これらは、選出された独立した各地域における教育委員会のようなものです。また、ここでは州法によって、それぞれの委員会において、カリュキュラムであるとか、また、教科書を自由に選択します。一方、州政府もカリキュラムであるとか教科書を選ぶことがあります。ですから、50州ありますので50の州の教育機関があり、加えて周辺の沿革地域、そして自由協定国などがこれに加わります。これも個別障害者教育法のもとで、どういう言葉がどう定義されているかという、先ほどの続きです。

関連用語の定義

資料10

 先ほど申し上げました地方の教育機関、そして州の教育機関のすべてが、ここに言われているコーディネーションを行う機関の中に入ります。つまりNIMACと協力をしている州の協力機関、ならびに地方の教育機関、これらはすべてコーディネーションを行っている教育機関という定義をしています。民間ユーザーといいますのは、これはNIMACが定義しています。NIMACのデータベース、そしてNIMASのファイルでアクセスを持つことが認められているのが認可ユーザーです。ここが大事です。認可ユーザーは著作権を守らなければなりません。アクセシブルな媒体製作者というのは、ソースファイルを特別なフォーマットへ変換する営利、または非営利団体のことを指します。そして認可された組織といいますのは、障害を持つ人々に対する特別なサービスを提供することを目的としている非営利団体、または政府当局のことを指します。

関連用語の定義

資料11

アメリカの教育制度

資料12

NIMASシステム

資料13

 NAMASの仕組みをここに示しています。ここから始まります。地方教育機関ならびに州教育機関が教科書を購入すると決めた場合、その内容に関してはNIMACに通知することが義務づけられています。それによって、出版社はその教科書をNIMASの標準規格にそってNIMACに委託します。そして、ここではカタログの目録の更新が行われ、セキュリティーを担保し、そしてデータのほうが提供できるようになっていきます。さらにこれが認可されたユーザー、団体のもとに渡ります。この認可されたユーザー、そして団体、団体のほうは非営利団体も含め、障害者にサービスを提供する組織のことを指します。そこを通して各生徒に対して、特別なフォーマットで変換がなされます。つまり、その生徒に適したフォーマットで、その当該の生徒に提供されることになります。さらに、州または地方教育機関のほうへ行き、この機関を通して、実際には特別なフォーマットの図書が生徒に与えられます。ですから、前もって、こうしたあらゆる下準備をしておいて、生徒が実際にそれを使う段階においては、すべてが整っているという仕組みを作っています。これはあくまでも理論上です。

 特別なフォーマットを受け取る権利があることを、やはりもう少しきちんと情報を普及し、そしてそれがこの子どもたちの手に渡るようにするためには、まだ私たちやらなければいけないことがあります。ここに書いていますのは、連邦規則集の中から抜粋したものです。ここで読み上げることはいたしませんが、一番上のところに連邦規則集の番号が書かれていますので、関心のある方はこの番号を頼りに調べていただければ詳細が出てきます。この連邦規則集においては、当該の分野における規則として州が責任を持つのはどのような領域か、また、各地域、地方が責任を持つのはどのような内容かそれぞれを詳しく述べています。学校側としましては、変換することの可能性がある、変換できる教科書を購入しなければならないということも述べられています。

連邦規則集(CFR)34§300.172 教材へのアクセス

資料14

連邦規則集(CFR)34§300.172 教材へのアクセス

資料15

連邦規則集(CFR)34§300.172 教材へのアクセス

資料16

連邦規則集(CFR)34§300.172 教材へのアクセス

資料17

 NIMASやNIMACの利用資格がなくても特別なフォーマットが必要だという生徒もまたたくさんいます。また、場合によっては、学校の先生が何か新しいものをトライして、これでもうまくいかないか、試行錯誤することもあります。アクセシブルなフォーマットを必要とする子どもたちは、それをタイムリーに手に入れなければいけないと法律で規定されています。NIMACを通してNIMASの利用資格がない子どもたちもこの中には含まれます。地方教育機関がこの責任を担っています。

利用資格のない子供達

資料18

 例えば、教室で印刷物を読むことに対する障害を持つ子どもたちがいた場合ですが、まず、私たちは出版社に問い合わせて、アクセスブルなイーテキストバージョンがあるかどうかを確認します。そして、支援技術の専門家に確認することによって、読むためのソフトウエアと提供されるフォーマットに互換性があるか確認します。そして、NIMASによる特別なフォーマットの教科書を手に入れる利用資格のある生徒たちの場合、これから読めるような手順を踏みます。少し複雑ですが、皆さんに理解をしてもらうことが重要です。しかし、これは教科書に対する、新しい考え方です。まずはやり方を皆さんに指導し、分かってもらうという段階にあります。これがNIMACのデータベースです。

教室で:電子テキスト版教科書の利用

資料19

教室で: 電子テキスト版教科書の利用

資料20

 2011年1月調査が終わりました。これは、2010年11月時点までのデータをベースに行った調査です。NIMAS、NIMACに対する調査を行った結果として、以下のような勧告、そして調査結果が明らかになりました。調査の結果、州、または地方当局は、いまだにさまざま異なる戦略を使っていることが分かりました。NIMASの利用に関するデータシステムも、まだ完ぺきではないことが分かりました。そして、ほとんどの技術支援は、地方教育当局に焦点を絞っています。そして、これは、パフォーマンスではなく、コンプライアンスがどうなっているかということをベースにしています。

2010年アクセシブルな教材(AIM)に関する調査:結果抜粋

資料21

 アメリカにおける特別教育の一番大きな問題です。将来的には、すべての人たちが最善を尽くすようなシステムを作りたいと思っています。ほかの障害を持つ子どもたち、例えば、知的障害を持つ子どもたちにも、例えばNIMASの資料を使ってもらうように、支援を拡大するための援助の幅というのが非常に限られているというのも、この調査で明らかになりました。あるいは、英語を第二外国語として使う子どもたちに対しても同じでした。

2010年アクセシブルな教材(AIM)に関する調査:SEAおよびLEAへの提言

資料22

調査結果として、州ならびに地方教育機関は、以下のような活動をするべしということがいわれました。例えば段階を踏んだ、きちんと調節のされたシステムを作ることが必要です。障害がどのような分類の障害であったとしても、きちんとサービスを提供しなければなりません。視覚障害がある子どもとディスレクシアの子どもが同じ権利を担保されなければなりません。そして、タイムリーであるかどうかをきちんと検証できるようなデータシステム、そうした仕組みを作り上げなければなりません。学校の先生、また、学校の校長に対して使い方の運用指針を書面で提供しなければなりません。生徒と、それからもちろん、家族も含めて、全関係者のニーズへの対応も必要です。当然、生徒は家族に大きく依存しているからです。

 技術支援へのアクセスを高めるための協力も必要です。NIMACで、国レベルでアクセシブルな教材をより多く使えるようにするために、それぞれが協力することも大切です。教育機関が出版社と契約を結ぶ時には、必ず、その使われる教材がNIMACにおいて、NIMASのソースファイルとして付託、規格される契約を結ぶことが必要です。50州に、2万の教育機関があります。今申し上げましたような勧告を、全体としてきちんと実践するのはそれほど容易なことではありません。一方において、アクセシブルな教材(AIMセンター)は、今から申し上げることをやるべしという勧告が出ました。サービスの提供の仕方が集中管理をされている場合と、分散型で管理されている場合、そして、この2つのハイブリッド型、混合型であった場合、そのサービスがどのように違うか、それぞれを検証比較するためのモデルづくりが必要だと言われました。

2010年アクセシブルな教材(AIM)に関する調査:SEAおよびLEAへの提言

資料23

 また、NIMACのインフラ整備をするために、州、教育機関への支援が必要です。コーディネーターへの支援も必要です。NIMACと州機関との間の協力を促進する役割も担わなければなりません。親に対する情報センター、私はこれも非常に重要だと思います。親に対して、子どもたちにどういうものが提供できるかという情報を与えれば、当然、親たちはそれをぜひ必要だと考えるようになるでしょう。先ほどの続きで、このセンターに対する勧告としては、より多くの指針やサービスを提供することが必要、そして、地域レベル、国レベルで会議を開く、そしてデータセンターへの支援も必要だということが提案されています。

 アクセシブルな教材を使うことによって、例えば、それぞれの生徒の成績であるとかパフォーマンスにどう変化が生まれたか、それをきちんと証明するためのいろいろな変数であるとか尺度、評価方法も必要です。マイリンから、私はとても大事なことを学びました。つまり、その評価をするにあたって、学校の成績だけが評価対象ではないということです。例えば自尊心もその一つでしょう。また、自分で物事を判断する力などです。

2010年アクセシブルな教材(AIM)に関する調査:アクセシブル指導教材センターへの提言

資料24

2010年アクセシブルな教材(AIM)に関する調査:アクセシブル指導教材センターへの提言

資料25

 そして、ここに書かれているのが、私の局に対する勧告、提案です。いつも、私たちは資金を出して、そして、その人たちに対して、私たちがどうすべきかを教えてもらうわけです。まず、大事な点として、私たちはそれぞれの教育当局に、モニターをしますが、その時には、必ずNIMAS、そしてアクセシブルな教材の実行がきちんと行われているかを確認しなければなりません。また、生徒に対してどのような成果があったかということを、アクセシブルな教材を使った結果として変化が生まれたかどうかを、きちんと測っていかなければいけません。アクセシブルな教材に対して、われわれは一般的に非常に多くの配慮が必要だということも言われました。また、連邦政府が支援する、そして作るあらゆる資材、資料、これはすべての利用者さんにとってアクセシブルなものであるべきだということも言われました。

2010年アクセシブルな教材(AIM)に関する調査:特殊教育プログラム局(OSEP)への提言

資料26

2010年アクセシブルな教材(AIM)に関する調査:特殊教育プログラム局(OSEP)への提言

資料27

 これは連邦政府からの予算で賄われなければなりません。アクセシブルな教材を提供することに関連しての社会的定義、公民権、これについての意識向上についても私たちは力を入れなければなりません。

参考ウェブサイト

資料28

 こちらに書いていますのが、いくつかのウェブのアドレスです。例えば、私のおります連邦政府教育省のサイト、そのほかいろいろのサイトのアドレスを出しています。今回は河村さんのほうからご招へいくださいました。あらためてお礼申し上げます。

 時には自分がどういうものを持っているか分からない時があります。ほかの人に言われて初めて気づくこともあります。今まで以上に、今回このテーマについて、私は、より多く目を向けていくことになるだろうと思います。ありがとうございました。


本日はご家族の方もいらっしゃったりしますので、アメリカの権利主張用語、アドボカシーについて、引き続きスー・スウェンソン氏にお話しいただきます。

お気づきのように、私はあまり技術に詳しい者ではありません。この仕事を始めたのは、障害を持つ息子がいるからです。息子は3人います。ビル、彼は30歳、チャーリーは28歳、エリックが23歳です。チャーリーは話すことも歩くこともできません。彼は普通の学校に入っていました。彼がその学校に入って周りの学校の子どもたちの成績がみんなよくなりました。ただ、彼のために権利主張をする、私は長い長い時間を割く必要がありました。その長い道のりについて、きょうは簡単にお話したいと思います。学校の先生も中にはいらっしゃるかもしれません。また、ディスレクシアの若い方がこの中にもいらっしゃるかもしれません。皆さんの周りの人たちも私と同じような経験をされているのではないかと思います。

 チャーリーが最初に診断を受けた時、私は彼の障害が消えてなくなればいいのにと願いました。なんとかして治したいと必死に願いました。次から次へといろんな治療を考えました。そして、しばらくたって、親の権利、主張をする親のアドボカシーとしての研修を受けました。そして、チャーリーが4つの時、もう彼の障害が消えてなくなるのものではないのだと、私は自覚しました。
エド・ボガードという、アメリカで偉大なアドボカシーの指導者がいました。エドは14歳の時にポリオになったのですが、その同じ年に私は生まれました。そして、このアドボカシーの研修を受けて家に帰った時、夫に話をしました。チャーリーを治すことをもうやめていいんだと、私は夫に言ったのです。世界を変えればいいんだ。これはまさに親として直面しなければならない現実です。私たちの愛する子ども、かわいい小さな子ども、その子があるべき形で社会の中に受け入れられないのです。だから、子どもは苦しみます。そして、社会の中には入ることができず外に置かれたままになります。本当にそれを見ると心が痛むわけです。場合によっては、ものすごく怒りにかられることもあります。

 子どもの障害が、目に見える障害とそうでない場合で少し違うこともあるでしょう。私の息子をみんなが見たら、彼に障害があるということをすぐに分かってもらえ、私はこれは良かったと思っています。彼がうまくいかない時でも、彼の姿を見てみんな納得するわけです。周りを見ていますと、例えば目に見えない障害を持っている子どもの親御さんの場合、問題は何かというと、何かあった時に子どもたちが常に責められるわけです。例えばほかの人と同じようにちゃんと読めなかったら、ああ、怠け者なんだと思われてしまう。学校の先生は、一生懸命やっていない、努力が足りないと責める。そうした時に起こる、親と子どもの緊張関係も難しいものになってしまいます。障害を持つ子どもが親に立ち向かうというのは大変なことです。特に、自分がどうしてほかの人たちと違うのかがよく分からない時は、もっと大変です。

 チャーリーをなんとか治すのではなくて、世界を変えればいいんだと悟った時に、私はやはり、さまざまな配慮も必要だということを学びました。彼は歩くことができませんから車いすを使います。例えば言語療法を彼は必要だったわけです。言語療法はツールじゃありません。療法だけです。

 一方、知的障害を持つ人の場合にどういう配慮をするか、これもまた大変です。チャーリーはちょっと変わっていてオペラが大好きなんです。私はオペラが好きではないのです。ただ、チャーリーはオペラを見るのが大好きです。私が思うに、それは字幕があって、絵が、画像が出てきて音楽が流れる。それが全部同時に出るからじゃないかと思います。つまり、オペラという芸術に対して彼は配慮を受けているわけです。彼は、オペラとセサミストリートが大好きなんです。

 こうしていろいろな配慮が彼に対して提供されるように、いろいろと力を尽くす中で、次に障害を持たない人と同じように彼が機能できればいいなというふうに思うわけです。ただ、どうして彼にとってそれが必要でしょうか。障害というのは人間の体験の中でもごく自然の一部です。社会の中で、私たちの住んでいる社会は障害のない者を中心にした社会です。その中にはいろいろな悪も生まれています。

 それでは、私の息子はなぜ障害を持たないように機能すべきなのか、あるいはなぜ障害なしでなければいけないのか。そこで気づいたのです。今のままで彼は完ぺきなんだと。障害があっても彼を私は愛しているのではなく、障害を持つ彼を私は子どもとして愛しているわけです。これは親が経験するにあたって非常に長い道のりではありました。そこで次に私は、権利ということを考えるようになりました。私の子どもの権利はなんだろうか。例えば、ほかの子どもと同じように学校へ行く権利はあるだろうか。残念なのは、今もう彼は学校に行っていないということです。もし、アクセスブルな教材へのアクセスを息子が持っていたら、もっといろいろ勉強できていたのではないかと今思います。親になれば自分の子どもの権利を戦い取ろうとします。自分の息子に、子どもにこの権利がある。ならばほかの子どもたちにもみな同じ権利があるべきだと考えるようになります。ただ、このような考え方は、アメリカでなかなか容易なものではありません。

 1970年代、障害を持つ人たちに対するアドボカシー団体として、アメリカには7つできていました。今は700に増えています。それぞれにおいてのアドボカシーのルールができています。すべての何々症候群というものには、なんとかアドボカシーグループというのが出ているわけです。例えば、アスペルガーもそうです。そして、一つ一つのなんとか症候群ごとに団体が作られています。もちろん、一つ一つのグループのニーズを理解することは大切です。しかし、権利について私たちが行動を取ることができるのは、そのすべての団体が一緒に協力をして初めて実現することです。つまり、相手の権利が確保されていなければ、自分の権利だって確保できません。

 そこから次に私は政治に関わるようになりました。いろいろな団体がある中で、その団体間の地域を越えた連携はどうすればいいかと考えるようになりました。例えば、自分が必要とする配慮に対して、それをもらう配慮してもらう権利が私にあるだろうか。例えば、治癒される権利はないとしても医療を受ける権利はあるのではないか。しかし、それさえもアメリカでは大きな問題でした。それは誰がその費用を負担するかという問題だけではなく、アクセスの問題もありました。例えば医師にかかって、なんらかの指導、指示が出たとします。それは読めますかという問題です。もし読めなかったらどうしますか? その医師から出た指示が読めないから、健康に害が出るということになるのでしょうか。

 例えば、感染症を相手にうつさないために指示が出たとします。ただ、その指示がアクセスブルなフォーマットであなたに与えられなかった。だからその感染を人にうつさないための方法をあなたは知らないのです。ということになるわけです。自分が必要なものにきちんとアクセスを確保してもらうということ。これはみんなの問題です。

 そこで、私は、自分が本当にやらなければいけないのは、権利だけの問題に限られていないということを認識しました。革命が必要だと思いました。革命主義者には私は見えないと思いますけどね。ただ、私は社会革命のことを言っています。社会革命と文化革命こそがわれわれの社会を前に押し進める一つの手段です。

 私たちが使うことができるツール、革命的なものがもうあります。インターネットとその力を考えてみてください。例えば今、エジプトで起こっていることを見てください。そしてニュースでいかに早く伝わるか。インターネットの力を使って、私たちが世界中のあちこちでお互いに結びつき連携すれば、いかに多くのことをお互いから学ぶことができるでしょうか。私たちがどういう権利を持つべきか、いろんな考え方をお互いにどんどん出し合うことができるでしょう。そして、どういう配慮を私たちは受けられるか、受けるべきか、そうした考えについてもどんどん深めていくことができるでしょう。

 今年、私は全く目からうろこ的な一つのことを学びました。世界の社長、CEOの25%、アメリカフォーチューン誌のトップ500にランキングされている会社のCEOです。この25%がディスレクシア、または学習障害を持っている人たちだというのです。驚くべき数字です。少し違う見方で物事を考えるということを教えてくれる数字だと思います。そして、適応しながら学習し学んでいくというものがいかに大きなパワーをもたらすか。つまり、自分がちょっと社会からはずれていることによって、より大きなリーダーシップが発揮されるのかもしれません。障害が持つパワーがいかに強いかというのを、少し逆説的に示しているともいえます。親としてアドボカシーとして、そして障害を持つ者として、こういうところを十分に見ていくことが重要だと思います。

 私の友達でロバートという人は、とても大きな車いすに乗っています。そして、彼は、ポリオですけれども、そして大きな呼吸器を口に入れています。そして自分がどんどん脆弱(ぜいじゃく)になっていくということを本人は心配していました。そこで空手を勉強したのです。それは全部目でやるんだと彼は言うんです。そして、車いすは自分で操作するんです。そして車いすで人を押し倒していくわけです。

 ある時、彼と一緒にコンサートに行きました。野外の音楽のコンサートでした。彼が車いすに座っているのに、彼の目の前にずっと立ちっぱなしの人がいて、彼はコンサートのステージが見ることができなかったので、エドはちょっと穏やかに「すみません、ちょっとのいていただけますか」と頼んだのです。もう一度頼みました。「ちょっとどいてもらえませんか」と。ただ、何度も何度もその男は戻ってきて彼の前に立ちはだかるのです。これはダラスでの出来事です。だからカウボーイハットで、ブーツを履いて大きな男性だったのですが、そしてエドは車いすでそうっと後ろに近づいていきました。ひざの裏側にいすを持っていったのです。そしてバタンと相手を倒してしまいました。そしたら相手はどうするでしょうか。この車いすの障害者が僕を倒したんだと言えるでしょうか。これは、エドの主張です。僕が障害を持っているからといって無視するわけにはいかないんだよと言いたかったわけです。僕だって人間なんだから、みんなと同じようにコンサートを見る権利はあるんだという主張です。私は息子と公の場に行くと、いつも頭がアドボカシーをやっているような気持ちです。

 例えばアメリカ障害者法(ADA)を法案化し可決させる時にあたって、私たちはいろいろな小売店を訪ねていきました。そして、いろいろな配慮をしてほしいと言ったのですが、例えば、「うちの町には車いすの人がいないんだから、車いす用の入り口はいりませんよ」「スロープを設けることは必要ないんです。そんな人、うちのお店にはお客さんとして来ませんから」という人もいます。ところが、スロープを設けた車いすのお客さんが来るようになったのです。

 アクセシブルな教材に関しても同じことが起こると思います。ツールが出てくればみんな使うようになります。私は、息子のような人がいるということをみんなに知ってもらいたいと思います。彼は非常に体も大きくて話しすることはできません。ただ、ときどき音を出します。そうすると、人がじーっとこっちを見るわけです。そうすると、私自身がちょっとびくびくし、怖い気持ちになってしまいます。ただ、今は、相手がじーっとこちらを見たら、「はい、私たちはここに居るんですよ」という気持ちを持つようになりました。そして、じっとこちらを見る人の多くは、周りにやはり障害を持つ人がいるという人たちだということも最近分かるようになりました。あるいは、もっといろいろ知りたいと思っている人かもしれません。障害について知ろうという気持ちが、やっと最近少しずつ世界に芽生えはじめてきたのではないかと思います。

 私たちがどんどん高齢化する中で、障害を持つ人が多く出てきます。そして、医療も最終的にそうしたものを徹底して考えることが必要です。つまり、私たちにとって高齢化していく中での選択としては、死ぬのか、それとも障害を持ったまま生きるのか、二者選択だったりすることもあるわけです。ですから、もし相手が自分のような場合だったら、私は相手に対して何をしてあげれば同じ気持ちになれるか、それを考えることが必要だと分かってきました。例えば、あの人が自分の孫だったら、私はその人のために何をしてあげようかという考え方もあります。障害を持つ人たちの中では、素晴らしいことがいろいろあるわけで、私たちはみんなそれを学ばなければなりません。そして、時には非常にみんな幸せそうだったりします。私たちが気づかないような花を、彼らがその美しい花に気づいています。

 以上が私の物語です。息子とのことに関してはまだまだ長い道のりです。チャーリーが小さい時、大丈夫だと私は思うようになりました。ある時息子が家の中で大きな音を立てていました。そして弟が「うるさい」と言ったのです。それでも、彼は静かになりませんでした。そうすると弟がまた「うるさい」と言います。そして弟が最後、私のほうを見て言ったんです。「障害があってもひどい兄さんっているんだね」。これこそ、障害を持つ人が欲しいと思っている状態じゃないでしょうか。特別扱いではなくてほかの人と同じように処遇してほしいのです。素晴らしさをみんな分かってもらいたい。そして、人間として普通であることも分かってもらいたい。皆さんがやっていらっしゃること、私は本当に素晴らしいと思います。河村さんも含めて、障害を持つ世界中の人たちに対して大きな贈り物を皆さんは下さることになるわけです。そして、これから前に進むにあたって、皆さんはこれからも協力を続けていきたいと思います。