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未来の学習教材 読み書きの障害/ ディスレクシアがある人々のために
要求事項及び潜在的なニーズに関する調査報告

読み書きの障害/ディスレクシア

1994年に採択されたスウェーデンの全国的な教育カリキュラム(Lpo-94)では、「特別な支援に対するニーズがある生徒(pupils with need for special support)」について採り上げている。そして、学校教育法で、このような生徒のために指導プログラムを作成するよう明記している。この条項は後に、政府による“Leaving school proudly(堂々と卒業するために)”という調査で使われた言い方に従って、「特別な支援を必要としている生徒(pupils in need for special support)」と変更された。変更の理由は、個人が経験する困難に焦点をあてるよりも、学校側の活動形式により注目するためであった。

同時に、新しいカリキュラムが採用され、「読み書きの障害/ディスレクシア」がスウェーデン・ディスレクシア協会(FMLS)という障害者団体、スウェーデン・ディスレクシア財団(Swedish Dyslexia Foundation)、及びスウェーデン・ディスレクシア・アソシエーション(Swedish Dyslexia Association)によって紹介された。スウェーデン・ディスレクシア財団は、この分野における研究者達の組織であり、スウェーデン・ディスレクシア・アソシエーションは、この問題に取り組む様々な分野の専門家をとりまとめた組織団体である。このような動きは、“Initiatives for the future(未来へのイニシアチブ)"という国の行動計画の中で実施された。

10年の間、「未来へのイニシアチブ」という国の行動計画は、読み書きの障害に関わる非営利団体の活動のガイドラインとしての役割を果たしてきた。地方自治体や学校もまたその活動計画をこれに準じて立てていた。

特別な支援を必要としている生徒のうち、読み書きの障害がある者が最大のグループを構成している。この障害にはいくつもの原因が考えられている。「読み書きの障害/ディスレクシア」という言葉は、現在公式な政府関係省庁やその他の組織の文書でも使われており、国の教育カリキュラムの中で使われている、「特別な支援を必要としている生徒」という言葉と同じものとして解釈されなければならない。義務教育における基本的な技術である読み書きに関しては、支援を受ける権利の基本となるのは、その障害の原因ではなく、障害そのものなのである。その次の、支援の形式を明らかにする段階で始めて、障害の原因が問題となるのだ。教育を改善するには、問題をよく理解しなければならない。読み書きの障害の一般的なタイプの一つで、学際的な研究の基礎が十分に築かれているのが、ディスレクシアである。しかし、ディスレクシアは肥満と極めてよく似た、漠然とした診断といえる。ディスレクシアという言葉自体は、必要なガイダンスを提供するものではない。個々の生徒のニーズに合わせた指導には、その生徒固有の障害のより詳細な分析が必要である。(これについては、言語療法士、ボーディル・アンダション氏による付録の文章を参照のこと。)

テキストのデザインとプレゼンテーションに関する学習障害者のニーズは、以前に読みやすい図書センターやLL Foundation等によって定義された。視覚障害者のニーズについても同様に、TPB(スウェーデン国立録音点字図書館)を通じてガイドラインが定められている。また聴覚障害者の代表もおり、その他失語症のような言語障害がある人々も、保健医療システムやスウェーデン特殊教育学会(Sweden Institute for Special Needs Education)において専門的な対応を受けられる。しかし、言語へのアクセシビリティーに関して様々な違いがある移民者のグループの特別なニーズを考えるのはこれよりも難しい問題である。いずれにせよ、本書が対象とする読み書きの障害/ディスレクシアがある人々については、上記のグループのどれにも含まれない。

大部分の読み書きの障害/ディスレクシアがある人々は、ある程度は読むことができる。しかし、その読む能力が、要求されているレベルに合わないのだ。このような人々は、非常に読む速さが遅く、よく読み間違いをし、集中できにくい。しかし、視覚障害者と違って、印刷された図書に目を通し、絵や見出しの助けを借りながら内容を辿ることはできる。そして自分自身で読む活動をするのはしばしば難しく感じるが、図書自体を受け入れることはできる。これは知識の収集という点で評価できることである。多くのディスレクシアの人々は、識字力の不足を補うために、このような方法を編み出したと語っている。そして、ソーシャルスキル、つまり知識を得るために質問したり話し合ったりする能力を使って、障害があるにも関わらず、長い間うまくやってきたのである。

多くの人々が(もちろん全員ではないが)、音声によるサポートが役に立つと考えている。耳から聞くだけでもよいし、或いは、印刷された文章を目で追いながら聞くのでもよい。読みながら聞く方法は、教育現場で、ブック・アンド・テープ・メソッドとして使われてきた。これは読む訓練の一種で、生徒は非常にゆっくりとした速度で録音を聞き、印刷された文章を時間をかけて目で追うわけである。生徒はその後もう一度、今度は前より速い速度で録音を聞いて、文章を「読む」。そして次第に音声のサポートなしで文章を読めるようになる。

人によっては、2つのことを同時にできない。このような人々は、視覚的に文章を追うのにエネルギーを注ぎすぎて、同時に録音された音声に集中するのが難しい。しかし、録音を聞きながらページごと、また、章ごとに文章をたどることはできる。つまり、単語や文のレベルではなく、大まかにたどるということである。このようにすれば、生徒は本の構成を追うことができ、絵や写真の助けを借りたり、見出しを手がかりにしたりしながら、読まれている内容を理解することができる。しかし、同じ生徒がいつも同じやり方を使いたいと考えるわけではなく、場合に応じてやり方を変えることもあるだろう。

また、読み書きの障害がある人々は、配列や方向を覚えるのが苦手なことがよくある。この結果、百科事典や電話帳で単語や名前を見つけたり、長い文章の中からある特定の名前を探し出したりするのが難しいと感じることがある。文章をざっと読むことも難しい場合が多い。

綴り方の問題もよくあることで、他にも、文の構造がわかりにくいという問題もある。しかし、読み書きの障害がある人の全てが両方の問題を抱えているわけではない。綴り方の問題は、回答を書き記す際や、様々な書く課題に取り組む際に当然影響してくる。

ディスレクシアの人々にとって珍しくない問題に、専門家が「単語想起」と読んでいるものがある。この問題は人や事象の名前を直ぐに言うことができないことで、例えば、「スウェーデンの首相の名前は?」と言われたときに、回答者は首相の姿は思い出すし、名前がPで始まることも知っていて、記憶の中を探し出すが、Perかしら、いやいやGoranssonかも?そんな風な名前の大臣がいたはずだ・・・と混乱してしまうのだ。もし質問者が、Goran Perssonを含むいくつかの選択肢を与えれば、回答者はたいてい正しい回答をすることができ、また自分の回答が100%正しいと確信できるのである。このようなケースでは、回答者は自分が探している名前は知っているが、文字が混乱を引き起こしているのである。ディスレクシアの人々は、このような理由で、書き間違いをしてしまうことがよくある。

書き言葉に関する経験不足

これまで述べた読み書きの障害/ディスレクシアの症状は、主に機能的なレベルで起こっていることである。これらは、そして時には他の問題もそうであるが、更に知識収集の障害を引き起こす場合がある。大文字と小文字、ピリオドとカンマ、またその他の句読点の区別が付きにくいのは、機能的な原因によるかもしれないが、もしかしたらそれは書き言葉に関する経験が全般的に足りないためといえるかもしれない。

経験不足の読者は、経験を積んだ読者よりも、文法的に複雑な文章を読むのを難しいと感じる。複数の従節がつながっている文章や、挿入節がある文章は、経験不足の読者に大変な努力と集中力を強いる。それでも、このような状況でディスレクシアの人にとって問題となるのは、内容の知的な面での複雑さではなく、そこで使われている書き言葉の構造だということを理解するのが重要である。読むことを学ぶ唯一の方法は、いろいろな文章を読む(或いは聞く)ことで、書き言葉のリズムや構造についての経験を積むことなのである。

更に、経験不足の読者は一般に語彙が貧弱である。そのためあまり使われない言葉に遭遇したとき、問題が生じることがよくある。しかし、ここでもその原因と影響とを区別することが重要で、ディスレクシアの人々は、同義語や抽象的な概念の理解には特に問題はなく、単にその単語を前に見たことがないのが問題なだけなのである。語彙は主に多くの多種多様な文章を読む(或いは聞く)ことで広げられる。

事前の理解、つまり、単語が何を意味するのか前もって知っておくこともまた、主として以前に文章を読んだ経験から得られることである。行間を読むこと、複数の情報を見つけること、文章のいろいろな部分を統合して日常生活の似たような知識に結びつけること、文章の言語学的なニュアンスを理解すること、批判的に評価すること、課題に関係のある情報はどれか、結論を導き出すこと、仮説を立てること、特殊な知識を活用すること、予想に反する考え方を扱うこと・・・。これらは全てPISAの調査で測定されたパラメーターで、書き言葉を使いながら学ぶべき技術である。このため、周りの世界からの要求が増えるに連れて、文化的な貧困自体が個人にとっての障害をもたらす可能性もある。しかし、PISAの調査が示したように、上記の高い言語学的レベルと、単語の解読というディスレクシアの主要な問題との間にも関連性がある。もし生徒が単に文字を正しい順番で書くことにエネルギーと集中力をあまりに多く使わなければならないなら、その生徒はもっと読む活動を進める余力は残していないだろう。そして同じ課題に口答で取り組んだなら起こらなかったであろう問題が生じるのだ。

受動的な態度

同年輩の生徒と同程度の書き言葉の技術を、うまく身につけていない(ディスレクシアによるとは限らず)生徒が、次第に自信を失っていき、更にこれがますます大きな落胆につながり、書く活動への受動的な態度を助長してしまうことはよく知られている事実である。このような生徒は、読むことや知識を集めることにも興味を失い、「学ぶこと」全体から身をひいてしまう。要求されるだけの読む力がないので、やる気もなくなる。PISAの調査が示すように、生徒はスウェーデン語だけでなく、知識を得る教科全般で成績が悪くなってしまう。

最後に、「書き言葉に関する経験不足」の項と、「受動的な態度」の項で語られた多くの事柄は、移民と、スウェーデン語を第二言語とする生徒にも当てはまる。しかし、これらの人々と本書で扱っているグループとの相違点及び類似点を分析するにはまた別の調査が必要なので、ここでは扱わない。

出発点

もし私たちがこれまでのことから、特別な教材をどのようにデザインしたらいいかについて結論を出すなら、その前にいくつか考慮しなければならない点がある。

  • 文章自体がどのように読むことを複雑にしたり簡単にしたりするのかについての既存の知識を見直し、重要な点をピックアップする。
  • 知識、教材、福祉機器、指導環境などの用語を定義する。
  • 様々な障害者のために文献を改良する仕事をしてきた機関によって、これまで何が行われてきたか、リストを作る。
  • 現在の市場で何が利用できるか、そして現在の技術でどんなことが達成できるか、リストを作る。
  • 以上のことをまとめ、結論を出す。

書き言葉

書き言葉は全ての教育活動にとって極めて重要で、いくつかの点で話し言葉と異なっている。そこで文章をどのように見せるべきか、また読者を引きつけるにはどうやって視覚的に示したらいいかについて、研究がなされている。しかしこの研究は一般に何も障害がない代表的な読者を基本として行われており、経験豊かな読者が文章を受け入れる方法と、障害がある読者が同じ文章を自分のものにする方法とを比較する研究はあまり行われていない。

そこで、2000年に、スウェーデン・ディスレクシア協会(FMLS)は、スウェーデン相続基金財団からの資金を利用して、3年間にわたる「スプロ‐カロス」プロジェクトを始めた。このプロジェクトは、英語で“Accessing the Printed Word(印刷された言葉へのアクセス)”と呼ばれ、この分野に関する理解を深め、知識を広めるのが目的である。情報はインターネットのwww.fmls.nu/sprakalossを通じ伝えられ、この結果、ジャーナリストや教育出版社や著述家、広報やコミュニケーションの仕事をしている人々などの、文章を作成する者と、図書館司書や教師などの、文章を普及させる者の、これらの分野への関心が高まった。このプロジェクトはまた読み書きの障害/ディスレクシアに関する議論を発展させるのにも役立った。

文章と読む仕組み

「スプロ‐カロス」プロジェクトでは、「文章と読む仕組み」という総合的なタイトルの下に、様々な読者に関する1920年代からの調査研究がまとめられた。そして読み書きの障害は新しい現象ではないということと、更に、読みの技術が年を追うごとに低下しているのではなく、むしろ社会の要求が著しく増加したためにこの問題が目立ってきたのだということが指摘された。そして高い読み書きの能力に対する要求は、民主主義とアクセシビリティーに関わっているという所見も述べられた。

読み書きの技術に関する調査研究は数多く行われている「スプロ‐カロス」プロジェクトでは、シーデルグロード/ウェネールストゥルーム-ハートマンによる1920年代の徴集兵達のスウェーデン語に関する調査(写真参照)を含む、もっとも一般的な研究について解説している。読みの技術は年を追うごとに低下しているわけではなく、高度な読みの技術に対する要求が劇的に増加したのである。

上記の調査報告書では、話し言葉と書き言葉の記憶方法の違いについての記述もあり、読解とは何か、そしてこの分野における問題はどのように明らかになるか、言語の違いによる差異も含めて述べられている。ディスレクシアに関する学際的な研究も強調され、最終的には「読みやすい」という概念について論じられている。

大学講師のラーシュ・メリーン氏はこう述べている。「優れたテキストには興味を持てる。それは情報量が適当で、簡単なレベルから始まってだんだんと難しくなっていくテキストだ。」また、同じく大学講師のモニカ・リーエンベルグは、「どうして教科書を読むことは、もう胸が躍るような体験ではなくなってしまったのだろう?」と自問し、情報量が比較的多い現在の教科書についての研究に基づいて、2つの要素を教科書に取り入れた。それは、個人的に話しかける表現方法(例:「おそらく知っているだろうが、」)と、因果関係を表す接続詞(例:「この理由のためそれは・・・」、「これによって、そのことはおこった」)である。教科書にこのような要素が含まれていれば、生徒はもっと多くを学べるというわけである。リーエンベルグは、「教科書に、語りを取り入れ、因果関係をもっとはっきりさせた記述を取り入れることは、文章の内容を簡単にするということではない。それは、複雑な内容を分かりやすく、明確にするということである。」と述べている。

第二言語の習得と数学の能力

読み書きの障害がある人々の多くは、他の言語についても問題を抱えている。その問題は、スウェーデン語の場合と同じ原因によることもあるが、他に理由がある可能性もある。報告書では、この点についてと、これに対する対処方法が、主として日々の経済に関わる数学の問題と合わせて、特に採り上げられている。スプロ‐カロスプロジェクトでは更に数学に関する特異的な障害と、そのディスレクシアとの関連性についての研究も行っている。

印刷物 vs. コンピューター画面

「印刷物 vs. コンピューター画面」というタイトルの下では、ウェブサイトの国際的な標準規格の必要性について採り上げられている。スウェーデン・ハンディキャップ・インスティチュートの基準に基づいて開発されたFMLSのウェブサイト、www.fmls.nu の開発に関する記事に加え、様々な基準が紹介されている。その他、FMLSのウェブサイトの読みやすさについての評価報告書もある。

ウェブサイト、www.fmls.nu/sprakalossでは、読者が内容にアクセスしやすいようにするには、どのようにテキストを書いたり編集したりするべきかに関する記事を紹介している。

ウェブサイトでは、テキストが印刷された形からITの形式に変換されるとき、その役割がどう変わるかに関して、役に立つ広い知識を載せている。筆記の際の標準書式は壊されてしまい、一般に本で使われているA4のフォーマットやそれに関連した設定は、いつも画面に当てはまるわけではないので、もはや通用しない。内容の見出しは、アイコンに変えるべきだろうか?あるいはアイコンで補足すべきだろうか?これ以外にも多くの分野に関する研究がスプロ‐カロスのウェブサイトで紹介されている。その一つに、目次の単語や簡単な見出し(スプロ‐カロスのウェブサイトの左側の欄に当たる)が、近くにある単語や見出しにあまり似ていない場合、そしてその場所が常に変わらない場合、繰り返し利用する読者に対して、アイコンと同じ働きをするかどうかという議論がある。図式的に場所とデザインを決定することで、単語の全体的な見え方が決まれば、極めて簡単に言ってしまえば、その単語を読む必要は無いのである。

画面上で読むことは、紙で読むことよりも難しいと考えられている。そして読者は、「スクロール」する必要が出てくるとすぐにテキストを印刷し始めるのが一般的である。しかし、読みの障害がある人にとっても同じことが当てはまるのだろうか?読者が画面上でスクロールしなければならないために、つまり、読むこと以外の方法で読者自身が活動することになるために、かえって集中力の問題が解決できるのではないだろうか?この問題はまだ研究されていない。

近年、www.fmls.nuやその他いくつかのウェブサイトで、利用者にテキストを読み上げる機能が新しく開発された。読者・視聴者がどのように情報を提供してほしいと考えているかについてはまだ何の調査もされていないが、多くの読みの障害がある人々は、この新しい機能を好意的に受け止めている。この分野では、未来の教材制作に向けて価値があると証明できるような出来事が数多く起こっている。

レイアウトに関しては、一般の読者のためのガイドラインが多数書かれている。しかし、オーク・オールベルグによると、例えばノルウェーと違ってスウェーデンでは、読みのプロセス自体に関する集中的な研究は全く行われていない。だが、1993年にスウェーデン視覚障害者協会の命により実施されたオールベルグが参加したあるプロジェクトでは、特に何らかの視覚障害がある人々にとっては、文章が目立つかどうかが非常に重要であるとの調査結果が出た。被験者は、光沢のある紙は光沢のない紙よりも読みにくいと考えたが、これは例えば教材を制作するときに重要となるであろう。しかし、この特別な調査は、読み書きの障害/ディスレクシアがある人々を主な対象としたのではなかった。

従って、文字と背景の強いコントラストがディスレクシアの人々にとっても有効であるという絶対的な証拠はない。事実、その逆を提案する研究もあり、あまりにコントラストが強すぎると「くらくらして」、テキストをもっと読みにくくしてしまうと言っている。オールベルグは次のように書いている。「活字学の考え方では、よい図式的デザインと機能的なレイアウトが重要である。そしてそれらは主に伝統と基本的なルールに基づいて作られる。人間は長い間、印刷技術者のプロフェッショナルな技術のおかげで、よい活字を見たり、読んだり、賞賛したりすることができた。だから、この伝統を大きく変えられると考えるのはよくない。」

更に「最も優れた活字体」について、実際は何の証拠もないがあたかも動かぬ証拠があるかのようにある活字体の「重要性」を主張して売り込む意見が、かなりたくさん見られる。例えば、少し大きめの読みやすい活字などである。しかし、数人の科学機関のライターは、スプロ‐カロスの考えに同意し、主観的な見方の方が、客観的に定量化できるパラメーターよりも、おそらくはより重要であると信じている。もしある読者が特定の大きさの特定のフォントが一番読みやすいと考えるなら、そのフォントとサイズで書かれた文章がその読者には望ましいと言うことである。

弱点を補うこと

最後に、スプロ‐カロスでは、どうしたら、代償手段を使って読み書きの障害を避けられるかについて述べている。言語療法士のウッラ・フォーレル氏は、代償について、置き換え、同一化、補償、埋め合わせなど同義語をたくさんリストアップしてその概念を定義している。そして、「代償には、教育的な手段と技術的な手段の両方があり得る。」と述べている。教育的な代償としては、「教室での生徒の席を教師の近くにすることから、個人の学習技術、つまりどうやって学ぶか、またどうしたら得意な面を活用できるかに至るまであらゆることが考えられるであろう。」と語っている。クリストファー・ヤコブソン博士は、また対処方法の一つとして、自分自身の状態を受け入れる一方で、福祉機器を利用するという、内面の代償と外面の代償の相互作用を強調している。フォーレル氏とヤコブソン氏は、福祉機器を利用するためには、生徒は自分自身のニーズと状態について、内面への自覚が必要であるという点で意見が一致している。ヤコブソン氏は彼自身と他の人々の研究を引用し、訓練をすることと代償手段を使うことの間には何の対立も生じないと強調している。反対に、代償手段の利用によって自分自身のイメージ(自分はできる、というイメージ)や、やる気(これはおもしろい)が強化できるという。これがかえって読み書きに効果的に(好奇心を持って、注意深く)集中するための基礎となるわけである。そして生徒に、確実に進歩するために必要な訓練の場を与えるのだ。

リチャード・オルソン教授は、ディスレクシアの人々の識字力は、音韻を扱う技術と文章を読む正確性の両方に焦点を当て、個人の状況に合わせた集中的な指導をすることを通して、大きく改善できると記している。しかしそのような一対一の指導はコストがかかるので、実際は、指導が必要な人々のほとんどが利用できないでいる。

ヤコブソン氏はそこでコンピューターを使った指導が一対一の指導の代わりになるのではないかと考え、研究を進めた結果、その通りであることが分かった。ヤコブソン氏は、このような指導が、単語解読の力不足を解決し、音韻を扱う技術を高め、綴り方の能力や読解力を強化することを示す多くの研究結果を示した。