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未来の学習教材 読み書きの障害/ ディスレクシアがある人々のために
要求事項及び潜在的なニーズに関する調査報告

付録

ディスレクシアの分野に関する専門用語と法制度の解説及び読み書きの障害に対するアプローチ

ボディール・アンデルショーン
公認言語療法士

ディスレクシアは存在するか?

近年、ディスレクシアという用語をめぐって、突っ込んだ議論が行われている。議論では、ディスレクシアをどう定義するかに焦点が置かれており、その結果、ディスレクシアを診察し、診断を下すのに必要な専門知識を持っているのは誰かが問われている。ディスレクシアの診断を下す権利はスウェーデンの憲法では規制されていない。現在この分野において診察を担当するのは、数多くの様々な職業に携わる人々で、教育学者や心理学者、言語療法士や医師などが、それぞれ独自の専門知識や用語を使っており、またそれぞれに専門的な関連組織がある。今では、ますます多くの読み書きの専門家が、チームによる診断を勧めており、効果的な対策をとれるような総合的な診断のため、広範囲に渡る多種多様なアプローチが求められている。

しかし、このような状況の下、ディスレクシアという用語の利用については、意見が分かれている。ある診察者はこの言葉を多区の場面で使用するが、中にはもっと制限して使っている者もいる。この違いは、ディスレクシアがいろいろな人々にとって少しずつ違った意味を持つことによる。専門分野が違えば(或いは同じ専門分野内でも)、尺度が違っており、それぞれの人が違った方法で、違った材料を使って診断テストを行っているのである。読み書きの障害がある子どもの親が、ディスレクシアの診断書を求めることは珍しいことではない。なぜなら親達は、診断書があれば子どもが支援を受けやすくなると信じているからである。実際そのようなケースはときどき見られ、診察者によっては、ディスレクシアという言葉を他に比べてよく使う傾向があるのは、このためであるといえる。

ディスレクシアという言葉をもっと制限して使っている診察者もいるが、それは、様々な理由による。すなわち、ディスレクシアを非常に珍しい現象だと考えているか、或いは、明らかに読み書きの障害がある人でさえも、支援を受けるためには、ときに診断書が必要であるという事実が気にくわないからのどちらかである。後者にとっては、一般に受け入れられている、正確なディスレクシアの定義が何もないことを考えると、このような診断書を求めるやり方が正当でないと思われるのであろう。このような診察者は、特別な用語よりもむしろ各人の障害によって支援のあり方を決定すべきであると信じている。

今でもまだディスレクシア(スウェーデン語で、特異的な読み書きの障害を意味する用語)の存在について疑問視する人々もおり、このような人々は読み書きの発達は主に「成熟度」の問題だと反論している。これらの人々は概して、読み書きの障害がある人々に対する正式な診断テストに反対している。

なぜなら、そのようなテストで「レッテルを貼る」ことは、読み書きの障害がある人に悪影響を与え、自己実現ができなくしてしまうと信じているからだ。スウェーデンにおいてこの考えを最も強く主張しているのは、ボ・サンドブラッドで、自身のウェブサイトで次のように記している。

「読み書きの学習が困難な子どもは、しばしばディスレクシアであると言われる。ディスレクシアは、その子どもに神経学的な損傷がある状態を説明した生物学的な用語である。私が考えるに、重要なのは、その子どもに問題があるかどうかではなく、どうしたらその子どもを助けられるかと言うことである。子どもの診断に無駄な時間やお金を費やすのではなく、その代わりにむしろ学校が子どもの言語を発達させるため積極的な努力を始めなければならないのだ。ディスレクシアという診断を書いた医師の診断書は、子どもの読み書き能力の発達には少しも役立たない。」

「読める」とは何を意味するか?

ディスレクシアの定義は長いことスウェーデンにおける読み書きに関する議論の中心であったが、今も尚、一般的に受け入れられている定義は無い。この言葉は定義するのが難しく、それは一つには、読み書きができると言うことが正確にはどんなことを意味するのかを説明するのが難しいことにもよる。

一体読むと言うことは実際には何を意味するのであろうか?読むことに慣れていない人が、おそらくは指で一つずつ単語を辿りつつ、つっかえながら一生懸命読むのも、一種の読むことといえるであろう。しかし、それは、授業の課題図書の背表紙を素早くざっと読んで、次の試験のために読む必要があるかどうかを判断できる大学生の読書からはほど遠い。未熟な読者は、このような読みの技術を使えるようになるまでに長い道のりをたどらなくてはならない。読むことには単語の解読と内容の理解が含まれ、更に情報の波の中を進むことができると言うことをも意味するのである。現在まで、読みの研究を進めてきたディスレクシアの研究者の大部分は、単語の解読に関する特殊な問題に焦点を絞ってきた。そして広く使われているディスレクシアの定義のほとんどが、この問題を採り上げている。

同じ理由が、書く能力についても当てはめられる。私たちは書くことの問題を綴り方に限ることもできるし、或いは書くために「自分自身の考えをまとめる」能力の問題を含むこともできる。ディスレクシアのこの分野に関する研究はこれまで主に綴り方の問題が中心であった。これに比べて、より高いレベルの書くプロセスについて検討した研究は、非常に少なかった。

更に、診断テストで最も深刻な機能障害があると診断された人が、日常生活でも最も重い障害を負っているわけではない。読み書きの障害があることの重大性は、各個人に要求される読み書きの内容により変わるからである。私信や基本的なeメールのメッセージを極めて容易に書くことができる人でも、例えば正式な手紙を書く課題に直面すれば、非常に不安になるものである。このようなケースでは、技術と要求される事柄の間にギャップがあるわけで、小さなギャップに思えるかもしれないが、しかし、例えば仕事で正式な文書を作成する能力が求められる場合など、問題を引き起こす可能性がある。

私は、診断テストでは非常に結果が悪いが、どんな状況でも驚くほどうまく生活している人達に、個人的に会ったことがある。このような人達は、自分の長所を伸ばし、読み書きの問題を様々な方法で補う努力をしてきたのである。一方、反対に正しく綴ることがいつも難しいので非常に落ち込んでいる人達もいる。これは例えば退職を考えている大学の教員で、このような人達は、自分の障害が「発見される」のではないかと日々おそれている。

私たちの読み書きの能力はまた、動機や自分自身のイメージ、注意深さ、ストレス、文章の難しさなどにも関連している。

ディスレクシアの典型的な定義

ディスレクシアの典型的な定義では、主に書かれた記号を音声に結びつけることの問題に焦点が置かれており、単語の解読に問題があることが、ディスレクシアの基本的な症状であると考えられている。単語の解読に関わる問題の主な原因は、話し言葉の音声構造を理解し、分析することが難しい所にあると考えられ、これは一般に「音声認知が弱い」という風に言われる。

イェーテボリィ大学の教授と、その同僚でノルウェー人のTorleiv Hoien(1999年)は、ディスレクシアについて、よく知られており、広く普及している定義を定めた。その最も重要な部分は、以下の通りである。

「ディスレクシアは、書き言葉の解読に関する持続的な障害で、音韻学的なシステムの欠陥が原因で起こる。」

別のよく引用される定義は、下記の、1994年に国際ディスレクシア協会(IDA)研究委員会とアメリカ合衆国の国立衛生研究所によって採択されたものである。

「ディスレクシアは、はっきりと認識できる学習障害の一つで、たいていの場合、音韻学的能力が不十分で、生まれつき個々の単語の解読が困難であることが特徴の、特異的言語障害である。このような障害がある人にとって個々の単語の解読が困難であると言うことは、その人の年齢やその他の認知能力及び学習能力から考えると予測できないことが多い。この障害は、一般的な発達障害や感覚障害によるものではない。ディスレクシアは、読みの問題に加え、書くことや綴り方の上達に目立った問題があることが多く、様々な言語形式に関して多種多様な困難が見られることよって明らかになる。」

どちらの定義も、ディスレクシアを、単語解読の困難が主な症状である、生まれつきの言語障害だと説明している。この考え方は現在広く普及しているが、しかし異論がないわけではなく、更に突っ込んだ研究が進行中である。読み書きは多くの違った視点からアプローチできるので、ディスレクシアは複雑なテーマなのである。

研究者の中には、ディスレクシアの本質を言語の問題と考えず、より広い、違った定義を選択する者もいる。その議論は、何を主要な問題とするか、そして何を二次的な影響と見るべきかに関連している。現代の研究では、単語想起や自動制御(「流ちょうさ」)などの問題に注目し、この分野をディスレクシアの定義に盛り込もうとしている。ディスレクシアという言葉が使われる分野は様々なので、研究の比較を行うことは難しい。

更に最近の研究では、言語による「綴り方の違いそのもの」が原因で、読み手の認知機能に対する要求が変わってくるようだということが示されている。イギリスの研究者、イアン・スマイス(2002年)は、ウェールズ語、中国語、ハンガリー語、ポルトガル語などの異なる言語における読み書き障害に関する数年間の調査研究に引き続き、最近このテーマで博士論文を書いたが、そこではディスレクシアを次のように定義している。

「ディスレクシアは、読み書き及び綴り方の習得が困難であることで、音韻学的、視覚的及び聴覚的な処理に見られる欠陥が組合わさった原因によると思われる。単語想起や処理速度の問題も伴うことがある。
どのような人にディスレクシアの症状が現れるかは、個人の認知方法の違いだけでなく、使われている言語によっても左右される。」

定義は様々な目的に使われ、また様々なレベルで存在する。法的、科学的、医学的及び教育学的な定義を区別することは重要である。本書に引用されている定義は、いずれも科学的な定義と考えてよいであろう。

ディスレクシアに関するコンセンサス

ディスレクシアの中心的な問題については、ある程度の見解の相違はあるが、読みの研究の世界ではコンセンサスが得られている。発達の遅れや環境要因によるのではなく、純粋な機能障害による特徴的な読み書きの障害があるという点で、意見は一致している。あるタイプの読み書き障害は生物学的な理由による。読みの障害がある人々が文字を読むとき、障害のない読者とは脳の活動が異なっている(Pugh et al、2001)。また、遺伝学的な要素もあるとされている(ウルソン & ガイアン、2001)。単語解読に見られる困難は、ディスレクシアという言葉が何よりもまず意味する、中心的な特徴といえる。単語解読の問題の原因は、音韻学的な認知能力の障害と考えられている(Hoien & ルンドヴェルグ、1999年;スノーリング、2000年)。更に音韻学的な認知能力は、特にアルファベットを使う言語について、読み書きの健全な発達に「欠くことができない」と言う仮説もあるが、多くの研究がこれを裏付けており、反論するのは難しい(例:ルンドヴェルグ、フロスト & ヨーイェンシェン、1988年)。

読みの練習方法に対する総合的な評価が、最近アメリカ合衆国で実施された。これにより、音韻学的な認知や単語解読に問題がある読みが苦手な人々には、特別なやり方によるトレーニングが必要であることが分かった。手段に関係なく読み書きを覚え、できるようになる他の子ども達と違い、このような問題を抱える子ども達には、どんな方法でもよいというわけではないのだ。

以上のように、書かれた言葉の処理に見られる問題は、明らかに機能的な欠陥によると言うことができ、この事実は決して否定されてはならない。しかし、様々な機能的な要素が読み書きの際にお互いどのように影響し合っているのかは、複雑な問題である。例えば、単語解読の障害は、多少なりとも読解の妨げとなるため、単語解読と聞き取りによる理解の関連性よりも、単語解読と読解の関連性のほうが強いといえる。純粋に技術的な意味で、個々の単語の解読が困難なために、文章の理解に問題がある者もあるかもしれないし、記憶の作用に欠点があるため解読されたことを処理できないで、文章が理解できない者もいるであろう。また、一般的な言語理解力の不足が原因で、話し言葉についても問題がある場合もある。

ディスレクシアの中心的な問題に関するコンセンサスはあっても、一方で、一般的に受け入れられ、使われる「ディスレクシア」の定義は何もないのが現状である。診察者により少しずつ違った方法で、ディスレクシアかどうかの境界線を引いているので、ディスレクシアの出現率は、2%から10%まで幅がある。その上、ディスレクシアという用語が「国によって」どう使われているかにも違いがあり、出現率の国際的な比較は難しい。例えばロシアでは、ディスレクシアという用語は読みの障害にだけ使われており、綴り方や運筆を含む書きの障害は、その代わりにディスグラフィアと呼ばれている。イタリアでは、ディスグラフィアという用語は、運筆の障害との関連においてのみ使われ、綴り方の障害は、ディスオーサグラフィアといわれている(スマイス & エヴェラット、2000年)

国や言語が異なる研究結果から、一般論をまとめるのは難しい。文化や学校制度に加え、読みの教育が何歳から始まるかというような要素もまた考慮されなければならないからだ。従って、言語学的な背景を無視して単純に、「読み書きの障害は以下の原因による・・・」と断言してしまうことには賛成できない。「読みの問題は一般に7歳以前に起こる。」というような説を、アメリカの精神衛生に関するウェブサイトで見たことがあるが、この説は、スウェーデンにはあてはまらない。なぜなら、スウェーデンでは、公式な読みの練習は7歳以前には始められないからである。一体スウェーデンの誰が、6歳児の読みの障害について話すであろうか?誰もいない。社会が7歳以前の子どもに識字力を期待していないからだ。このことは、国際的な比較がどんなにやりにくいかを端的に示している。

誰がディスレクシアと判断するのか?

ディスレクシアという用語は、時に医学的な診断に使われたり(といっても、私たちはすぐに保健衛生部門の分類システムがいかに曖昧であるかを知ることになる)、また教育学的な評価結果を表すのに使われたりする。しかし、診断という言葉はもともとは医学の体系の中で使われていたので、多くの教育学者やその他の医学以外の分野の人々が、診断という言葉を避けて、評価とか分析記録という言葉で表現する方を好むのは、驚くことではない。

診断という用語を使う教育学者もいることはいるが、その場合も、その言葉によって別のこと、例えば自分は臨床心理学者であるということを示すために使っているといえる。様々な専門家が、異なるテスト教材を使うので、当然のことながら、それぞれの診断テストで出された質問に対する回答しか得られない。その結果、各専門家が主張する説を比較するのが難しくなるのである。

2003年初めに出版された、40を越す国々におけるディスレクシアの現状を描いた、「ディスレクシアに関する国際的なハンドブック」の編者の一人によれば、ことディスレクシアに関しては、世界は多種多様なモザイク模様を示している。ここで言う多様性とは、文化の違いや障害に関する考え方の違いだけでなく、専門家による教育が国によっていかに異なるかについても言えることである。スウェーデンでは読み書きの障害に関する研究は、言語治療機関や読み書きセンター、そして学校で実施されているが、イギリスではそのような生徒に関する研究は一般に教育心理学者(スウェーデンにはない職業である)によって学校で行われており、病院で行われることはずっと少ない。フランスとイタリアではこれに比べるともっと医学的な視点で扱われている。フランスでは、読み書きの障害が疑われる子どもは皆、言語療法士による診察を受けなければならない。

アメリカ合衆国では、「特異的学習障害(SpLD)」という用語がディスレクシアを意味して使われることがよくある。これは、実際に特殊教育を受ける権利に関連しているので、事実上法律専門用語といえる。アメリカ合衆国のIDEA(1997年施行の障害者教育法)によれば、SpLDは、話し言葉や書かれた言葉の理解と使用に必要な、一つ又はそれ以上の基本的な心理学的プロセスに見られる障害として定義され、それには「・・・ディスレクシアなどの状態も含まれる。」

スウェーデンでは、厚生省が、保健医療及び治療部門の監督機関で、保健医療システム全体の質、安全性、合法性のレベルを高く維持し続けることを保証する仕事をしている。しかし、ディスレクシアの診断を下す権利は、同委員会による規制を受けず、また診断を行うのに最もふさわしい専門家は誰かという議論に同委員会が加わる予定もない。同委員会は、診断により、必要な手段がとられるかどうかが左右されてはならないという立場を守っている。障害があってその改善のための手段を必要としているなら、誰でも必要なリハビリ、福祉機器、または通訳サービスなど、どんな形であれそれが受けられるようにすべきだというのが、保健医療及び医学的な治療に関するスウェーデンの法律によって定められている。2000年にウプサラ大学から出されたディスレクシアの診断に関する質問に対し、政府機関は次のように回答した。

「(前略)ディスレクシアは様々な不利な状況をもたらす可能性がある障害である。ディスレクシアは特定の疾病や脳の発達障害によって起こりうる。ディスレクシアかどうかを判断するには、ディスレクシアの深刻さと、それが疾病の兆候であるかどうかによって、学校システムや保健医療分野に携わる、幅広い専門知識を持った専門家の技術が必要である。

保健医療及び治療に必要な診断を下す権利は、スウェーデンの法律では規制されていない。一般に、このタイプの診断は、公認の医師や心理学者によって行われるが、実際は、このような疾病や障害に関する十分な知識を持った人なら誰でも診断を下すことができる。

更に、どの診断分類を使うか、そしてどの診断基準を使うかについては、厳格な定めはなく、診断を下す能力があれば、診断の分類方法を意識して選ぶ能力も十分あるものと考えられる。(後略)」 (スウェーデン語の原本より翻訳)

「十分な知識」という言い方は、当然、読み書きの分野における解釈に多くの余地を残す表現である。この文脈における「十分な知識」とは、正確にはどのようなことを意味するのであろうか?心理学者の知識か?言語療法士の知識か?教師の知識か?誰がそれを決めるのだろうか?2日間の研修を受けただけで十分な知識があると考える者もいれば、数年間この分野で経験を積み、学術的な研究を行ったにもかかわらず、問題の複雑さを主張し、診断を下すのに躊躇する者もいる。これが、厚生省は盲腸炎の診断を下す権利も規制していないという、常識だけに基づいているにちがいない表現の、裏の意味なのである。

この議論ではまた、ある特定の専門家の全てが同じ専門知識を持っているわけではないと言うことを指摘しておかなくてはならない。専門分野というのは確かに存在する。例えば、もっぱら読み書きの問題にだけ取り組んでいる言語療法士もいれば、嚥下の問題を抱える患者や子どものどもりの問題に日々を費やしている言語療法士もいる。読み書きのプロセスについて深い知識を持つ心理学者もいれば、青少年の暴力問題やカウンセリングの仕事をしている心理学者もいる。このことを考慮すると、職業ではなくむしろ専門知識を論じることの方が適切であろう。更に、ウプサラ大学への回答において、保健福祉委員会がディスレクシアの診断に関し、学際的な協力を明確に要求していることは特筆すべき点といえる。

ときどき、読み書きの障害がある人々が、視力矯正のためめがねをかけるよう言われることがある。しかし、スウェーデンではめがね製造・販売者は、8歳以下の子どもにだけしかめがね類を制作したり提供したりすることができない。読み書きの障害/ディスレクシアがある人々は、医者の指示を受けなければならないのである。これは厚生省によって規制されている。

国際的な診断システム

あらゆるタイプの疾病リストは、定期的に内容を更新する必要がある文書だと考えられなければならない。疾病の分類については、新しい知識がどんどん入ってきて、総合的な分類システムの改訂がそれに追いつかない。今日では、ICD-10とDSM-IVという2つの国際的な医学統計学的疾病分類が、患者の統計に使われている。

最新のICD-10のスウェーデン版では、Fという項目に、学習障害や発達障害に関する一連の診断名が記載されている。セクションF81は、「学習能力の特異的発達障害」に関連しており、サブセクションとしてF81.0の特異的読字障害とF81.1の特異的書字障害がある。説明によれば、F81.0は読み書き両方の問題をカバーしており、F81.1は綴り方や書くことの問題だけに適用されるとのことである。これらの状況は、「知能年齢の低さや視力の問題、或いは不十分な学校教育」によるものではないということだが、ここで言う「知能年齢の低さ」は、2つの意味に解釈できる。一つは、全般的な学習障害者には、この診断は決して適用できないと言うことと、もう一つは、知能テストと読み書きテストの差が診断基準として使われるということである。しかしどちらの意味で使われているかに関しては何もはっきりとした説明はない。もし、R48.0の読字障害及び失読症という診断名が削除されたら、このような障害がある人々は、F81.0とF81.1のどちらの診断も可能である。そうなると、どのように診断したらよいのであろうか?

ICD-10のRの章では、判断が難しい疾病について扱っている。章の前置きでは、「この章に分類されているのは、うまく定義されない状態や症状を伴う疾病で、ほぼ同じ確率で2つ以上の病名が予想されるケースである。(中略)最終的な診断のデータがない場合である」と記している。セクションR48は、「読字障害及びその他の表象機能の障害、他に分類されないもの」と呼ばれている。セクションR48.0の「読字障害及び失読症」は、通常先天的な障害の場合は使われない。先天的な場合は、Fに分類される。

スウェーデン厚生省のウェブサイトでは、ICD-10の用語は、「カルテやその他の医学書類で使われる診断名の表現を規制する」ものではないと記している。これは、用語の解釈に余地があることを意味しており、実際、多くの医学専門分野では、独自の解釈をしたり、独自の方法をとったりしている。

同委員会は、このような診断システムの積極的かつ論理的な開発を監査したり、承認したりすることも行っており、「スウェーデン音声言語医学診断分類 2000年版」を認可した。この特別版のセクションF81は、「特異的学習障害」で、サブセクションは、「F81.0の特異的読字障害/“ディスレクシア”(“”に注目してほしい)」と、「F81.1の特異的書字障害」である。この特別版のRの診断分類は、「後天的な言語障害の症状及び疾病の兆候」という見出しで、セクションR48.0は「ディスレクシア/失読症」とされている。この特別版では、ICD-10と異なり、R48.0のディスレクシアの状態は後天的であると述べている。これは奇妙に思えるが、失語症の研究では、失語症の読み書き障害をディスレクシアということは珍しくないのである。この例から、専門分野が違えばディスレクシアという言葉の意味がいかに大きく異なってしまうかが、はっきりと分かる。

一人の専門家として、この分野に携わる人は、「科学的な知識と試行錯誤の経験」に従うという責任をそれぞれ負っている。例えば言語療法士によって間違った治療をされたとか、不当な扱いを受けたと感じる人はだれでも、そのことを厚生省の調査委員会に報告することができる。これは患者の権利を保証することを目的としている。専門家はこのような報告を受けた場合は、自分の行動について弁護する覚悟をしなければならない。

スウェーデンでは、DSM-IVという、別の国際的な診断システムが、精神医学の分野で主に使われている。このスウェーデン版では、315.00読字障害、315.2書字障害というような診断名が使われている。DSM-IVでは、IQと「読みの能力」/「書くことで自己表現をする能力」との差を測ることを診断の前提としている。しかし、その差がどれだけ大きければ診断がつくかということについては記していない。実際には、2つの標準偏差が使われることが多い。ディスレクシアと診断されるにはどれだけの差があればいいのか、その程度によって、「ディスクレシアの人々」と認められる数が変わって来るであろう。

DSM-IVのガイドの中で、「315.00読字障害」の診断基準として最もよく使われている基準は、以下の通りである。(スウェーデン語から英語へ翻訳し直したもの)

「A. 知的レベルや教育レベルは同年齢の人と同じだが、読みの技術或いは読解に関する標準的な診断テストを個別に実施することによって測定された読みの能力が、明らかに同年齢の人に期待されるレベルよりも引くいこと。
B. Aに見られる障害のために、学校の勉強やその他の識字力が必要な活動が著しく困難であること。
C. 感覚障害を伴う場合、その障害から予想されるよりも更に深刻な読字障害が見られること。」

ガイドでは、読字障害がある人が朗読する際、読み間違いをしたり言葉を入れ替えて読んでしまったり、或いは抜かしてしまったりする特徴があり、朗読の場合も黙読の場合も、読むのが遅く、考え違いが起こるのが特徴だと述べている。

DSM-IVで言う「読みの技術」が、現実には一つ一つの単語の解読や読む速度などのように更に詳しい要素に分けることができ、また、分けるべきである事柄を、ひとまとめにした言葉として使われているというのは興味深い。更に注目すべき点は、DSM-IVでは、「読みの能力」は、「読みの技術」或いは読解力のどちらかの意味に使われていることだ。これは、一般的な能力は、単語解読の能力よりも、読解力の方に、より密接なつながりを持っているからで(ヴェルティーノ他 2000年)、このことは、言語能力だけに目を向けた場合、更により明白である。もし読解力が「読みの能力」を測る手段として使われれば、IQと読み書きテストの能力の差によるディスレクシアの診断基準を満たせる人は理論的に考えても更に少なくなるといえる!

アメリカにおける基本的なDSM-IVでは、読みの正確性や速度、及び読解力の評価は、読む力を示すために使うことができると述べている。

次にあげる診断基準は、「315.2書字障害」の診断に用いられる基準である。(これもスウェーデン語から英語に翻訳し直されたものである。)

「A. 知的レベルや教育レベルは同年齢の人と同じだが、標準的な診断テストを個別に実施することによって(或いは書く技術を評価する活動によって)測られる、書いて自己表現する能力が、明らかに同年齢の人に期待されるレベルより低いこと。
B. Aに見られる障害のため、学校の勉強やその他の書いて自己表現する能力(例:正しい文法で書いたり、文章を構成したりすること)が必要な活動が著しく困難であること。
C.  感覚障害を伴う場合、その障害から予想されるよりも更に深刻な書字障害が見られること。」

「読みの能力」という言葉に関して議論されたことと同じことが、この診断についても論じられるであろう。書くことにまつわる全ての様々な要素を、「書いて自己表現する能力」という言葉で一緒くたにまとめてしまっていいのかどうか、非常に疑わしい。綴り方はそれ自体複雑な技能で、綴りの間違いについては、その性質を分析しなければならない。綴り方は、文法的に理解できる文で自己表現をするとか、読者の視点に立って書くというような次元とは別の次元の問題である。DSM-IVはこれらのニュアンスを考慮していない。

このように、診断システムが国際的であるからといって、その利用の仕方が明確であるというわけではないのだ。結局のところ、任意に設定された基準に従って、それぞれの専門的な判断で診断が下されるわけである。また、他の言語に翻訳されると、言葉の意味は、常にある程度変化するものである。

WHOのICD-10による分類システムは、保健医療分野での利用を意図して作成された「健康状態(病気、けが、障害)」のリストである。WHOは2001年に、この分類システムのうち、生活機能と障害に関する部分を更新した。それは現在ICF(国際生活機能分類)と呼ばれており、191カ国で採用されている。ICFのスウェーデン語の翻訳は、最近完成し、厚生省は、2002年の秋に、ICFに関する会議を開催する予定である。ICFは人がどのように「機能する」かに焦点を絞っており、ディスレクシアについては採り上げていないが、以下にあげるように、読み書きの分野に適用できる、一連の機能のコードを定めている。(スウェーデン語からの直訳)

「b16801 書かれた言葉の受容
書かれたメッセージの意味を理解するためにこれを解釈する知的機能
b16811 書き言葉による表現
意味のあるメッセージを書くために必要な知的機能」

WHOは、ある一つの障害が、様々な疾病やけがが原因で起こる可能性を指摘している。従って、ICD-10とICFの間、つまり、健康状態と生活機能との間には関連があり、二つのシステムを並べて考える必要があるといえる。この考え方は、読み書きの世界にも当てはまるであろう。例えば綴り方の障害は、後天的或いは先天的な脳の損傷、学校教育が継続して行われていないこと、または母国語が異なることなど、単に医学的な状態に限らず、様々な原因による可能性がある。

知能テストと読み書きテストの差異を基準とする診断への批判

これまで見てきたように、知能テストと読み書きテストの差異を診断基準とするには、テストでこれら2つの能力の差を測ることができなければならない。国際的な基準では、読みの研究をしている研究者のうち、IQと例えば「読みの能力」の差を基にディスレクシアを定義することを支持する者は現在比較的少ない。教育学上かつ心理学上の理由から、認知の強いところと弱いところをはっきりさせるために、個人の能力プロフィールを確認することは当然役に立つが、これは、診断を確立するために、「平均的な」IQのレベルと「読みの能力」や「書いて自己表現する能力」のおおざっぱな評価とを関連づけることと混同されるべきではない。

このような診断基準に対する批判は主に、読み書きの障害があらゆる能力のレベルで見られると言う事実に基づいている(例:フレーシェール、その他 1994年。スタノヴィッシュ & シーゲル 1994年)。測定されたIQの数値差によって説明できるのは、識字力の差のわずか10から15%にすぎない(Hoien & ルンドヴェルグ 1999年)。前述のように、一般的な能力は単語解読よりも読解力と密接な関係があり、高いIQの人々でも基本的な単語解読に苦労している人もいれば、全般的な学習障害があるが、解読にかけては優れている(ただし、内容の吸収や、比喩的な意味合いが強い表現の理解にはしばしば問題があるが)人もいるのである。

フラワーズその他(2001年)の研究者達は更に、読み書きの障害がある子どもが、教育的な診断テストにどのように反応するかは、IQとは何の相関性もないと言うことを明らかにした。

能力格差による診断基準を使うことはまた、誤った倫理観へと通じる可能性がある。障害者の権利を専門とするアメリカ人弁護士で、国際ディスレクシア協会(IDA)理事会の副会長でもあるエマーソン・ディックマンは、自身のウェブサイトで、今日アメリカ合衆国の多くの地域で見られる、特殊教育を受ける権利が、能力と技能に差があることを基本条件とする教育システムに対し、批判的な考えを示している。このタイプの定義は全て、実際の場面で、生徒が支援を受けるためには「十分に失敗する」必要があることを意味している。特別な支援を受け続けるためには、根拠無く設定された境界線の、都合のよい側に居続けるのが一番安全な道だというわけである。

ライアンその他(2001年)による大きな注目を浴びた学習障害に関する記事でも、能力格差は、子どもが9歳か10歳になるまでは、正確に計ることはできないと指摘されている。もし子どもが読み書きが難しいと感じているなら、一般的な能力と識字力との間に十分に大きなギャップが見られるようになるまで待つ間特別な措置をとるのを先送りするようなことは、してはならないのは明らかである。学校は、読み書きの障害がある全ての生徒を、その原因に関わらず支援しなければならない。もしディスレクシアの診断書が必要とされるのなら、年少の子ども達が特殊教育を受ける機会を得るに当たって、かえって悪い影響を与えるであろう。

教育の世界

ディスレクシアの診断は、教育界よりもむしろ医学界で行われることであり、具体的な診断が、学校で下されることはない。しかし学校が、読み書き能力を発達させるのに支援が必要な生徒全てにそれが受けられるよう、保証しなければならないことは明らかである。そして支援を受けるに当たっては何の医学的な診断も必要とされてはならない。実際、この支援活動こそが教師の仕事の一番中心となるのである。しかし、だからといって学校が生徒の抱える問題や、生徒が得意とすることを調査するのをやめるべきだという意味ではない。

スウェーデンの学校教育法(セクション4の§1)では、「特別な支援が必要な生徒」は支援を受けられるようにしなければならない、と定めている。義務教育に関する規定(セクション5の§1)では、主任教師は、特別な支援手段を必要とする生徒のために指導プログラムを作成することを保証する義務がある、と述べている。そして、特別な理由がある場合、教師は生徒の成績をつける際、その生徒が達成しなければならなかった個人的な目標を考慮しなくてもよいとしている。ここでいう特別な理由とは、障害やそれに類似する事柄を表している(セクション7の§8)。しかし、これらの規定に関わらず、指導プログラムの作成方法は一様ではない。

学校教育法における「特別なニーズ」という規定は、私の意見では、生徒を支援する場合もあれば生徒の妨害をする場合もある。もし学校が生徒の特徴的な障害を発見し、それをきちんと把握して適切な手段をとるのなら、この規定は役に立つといえるであろう。そして幸いなことに、このようなケースは実際よく見られる。しかし、もし学校が生徒の障害を発見したり、機能障害を認めたりすることができず、その代わりに生徒が「十分発達する」のを待つことにするなら、この規定は生徒にとって妨げとなってしまう。

つまり、「特別な支援を必要とする」という規定は、広く解釈や可能性が分かれるものである。生徒が特別な指導を受けるには、ディスレクシアの診断書を作成してもらう必要があると考える学校職員に出会うことが、今でもときどきある。しかし実際は、学校でそのような診断書が必要とされることは全くないのだ。

学校では、特別なニーズがある生徒の教育を専門にしている教育学者が、読み書きの障害についての調査を実施するのが最も一般的である。テスト教材は様々であるが、たいてい、綴り方や読み、単語解読、単語理解、そして音韻学的認知の技術に関する診断テストが含まれている。このような評価が、例えば、特別なニーズがある生徒の教育を専門とする教育学者と、心理学者、学校医そして時には学校と連携している言語療法士などからなるチームによって実施される学校もある。また、学校が診断テストを実施するのではなく、保健医療サービス機関に生徒を紹介する場合もある。「教育学者はディスレクシアの診断をしてはならない」という説を理由に、この方法を採らなければならないと考えている教師もいるようである。しかし、最悪の場合、外部の機関による診断テストの結果を待つ間、読み書きの障害がある子ども達のための対策がとられないまま放っておかれてしまうという可能性がある。しかも保健医療サービス機関による診断テストを受けるために、何年も順番を待たなければならないこともよくあるのである。

コンピューターを使った指導の機会を提供することに関しては、多くの読み書きの障害がある児童が、社会福祉による支援システムの基準を満たしていないという問題がある。1984年に合意に達した国と地方議会との間の協定では、保健医療サービス機関は、教育分野における福祉機器の主な運用とそれにかかる諸経費の支払いの責任を負うと定めている。この協定は、ある特定のユーザーグループには適用されるが、そこには読み書きの障害がある人々のグループは含まれていない。そのため今日では、この協定が誰を対象とするのか、そしてどのような人達が、保健医療サービス及び医学的治療に関するスウェーデンの法律に従って、個人用の福祉機器を利用する権利を持つのかについて、地方議会の判断は様々である。典型的な例としては、コンピューターが基本的な学校設備として見なされるべきか、或いは個人用福祉機器の一つと見なされるべきかという判断があげられる。(学校設備と見なされる場合、地方議会は責任を負わないことになる。)要するに、地方により状況は様々に異なり、それが不公平の原因となるわけである。時には、学校が設備を購入し、別の数少ないケースでは、技術支援センターが学校の児童のためにコンピューターとプログラムを提供する。またあるケースでは、親が問題の解決のために結局全ての設備を買う場合もある。もし福祉機器を利用できるかどうかが、生徒の親が高収入かどうかで決まるとしたら、当然これは不公平なシステムである。

現在スウェーデン政府によって、福祉機器に関する調査が実施されており、2003年の9月に終了する予定である。この調査では、技術の著しい発達を考慮しつつ、教育分野における福祉機器の提供に関する分析が行われ、また経費の支払いシステムの再検討や、法制度及びその他の政策に対する提案の提出も行われている。

適切に改良されたコンピューターは読み書きの障害がある生徒にとって、強力な道具となる。しかし、この場合コンピューターは改良されなければ役に立たず、改良される前のコンピューターは、「無言」だといえる。優れた改良のためにはいくつもの違った分野の専門知識が必要である。もちろん、綴り方が苦手な人誰もがコンピューターを使う「権利」を主張するような混乱した状況を望む者は誰もいないであろう。

繰り返しになるが、重要なのは、ニーズがある個人が、適切な設備を利用できるということである。それには、各人の障害と、コンピュータープログラムがいかにそれを補い、軽くすることができるかについて詳しく説明することが、決定を下すための基準として必要である。そして、このような決定基準を用意する人は、コンピュータープログラムと読み書き障害の両方について詳しい知識を持っていなければならない。必然的に、実際にコンピューターが利用される現場となる学校が、このような基準を判断するテストに責任を負うべきだといえる。

短大及び大学教育におけるディスレクシア

スウェーデンの短大及び大学は、障害のある学生に対して比較的役に立つ支援を行っている。ここで使われる障害の定義は、1993年にスウェーデン主任教師学校教育会議において勧告された定義で、スウェーデン語からの翻訳は、以下の通りである。

「障害とは、永久的或いは長期間に渡る身体の機能障害を言う。診断書を伴う読み書きの障害/ディスレクシアは障害として扱われる。」

障害という言葉の定義は現在、高等教育分野の4つの地域ネットワークで、スウェーデンの障害者問題のコーディネーターによって検討されている。この討議の出発点は、作業部会によって作成された、「開かれた高等教育のために ― 知的及び精神神経学的機能障害がある学生に関する事情」という報告書である。この報告書では、下記の定義を提案している(スウェーデン語からの翻訳)。

「障害という言葉は、永久的な機能障害を意味する。これにはまた、診断書を伴う特異的読字及び書字障害/ディスレクシアや、その他の児童精神神経学的な障害、及び診断書を伴う知能の障害も含まれる。」

スウェーデンの一つの短大或いは大学で、障害のある学生のためのコーディネーターにコンタクトをしたことのある、障害者の学部学生と大学院生のうち、約半分は、「読み書きの障害/ディスレクシア」のグループに入っている。

1990年代には、スウェーデンの高等教育庁が、ディスレクシアの人を対象に特別に改訂された大学入学適性試験を試験的に実施し始めた。読み書きの障害があり、改訂版適性試験を受けたいと希望する人は皆、自分が「読み書きの障害/ディスレクシア」があるという証明書を作成しなければならない。そしてそのために作成される報告書は、決まった書式をとらなければならず、また、適性試験を受ける能力があるかどうかにだけ焦点を絞った特定の質問に答えなければならない。しかし、例えば綴り方の能力は、全く診断されない。適性試験を受ける場面では、綴り方はそれほど重要でないと考えられるからである。それよりも、読みが中心となる。

大学入学適性試験の前に、入学志望者は、試験指導者のリストに掲載されている人に、上記の診断の実施を求めることができる。このリストの管理は、国家高等教育局から委託され、スウェーデン・ディスレクシア財団が長い間担当している。

この方法は、幾分批判の対象となっている。なぜなら、リストに載っている人達が選ばれた基準が何もなく、また、試験指導者によって診断テストの実施料が大きく異なっているからである。更に問題を複雑にしているのが、この分野における多くの経験豊富な、公認の機関が、様々な理由から、リストに掲載されることを拒否したという事実である。例えリストに載っていなくても、このような人達による診断を認めないことは実状にそぐわない。

国家高等教育局による大学入学適性試験の試行期間は2001年までであったが、更に2002年の春まで延長された。そして2002年6月には、政府がこの特別改訂版適性試験を常用することを認める決定を下した。そして証明書発行者の能力を評価する専門家のグループを任命することと、そのような評価の基準を作成することを合わせて決定した。

更に、個々の人が、高等教育機関に出願する際に、特別な配慮を求めることができるようになった。すなわち、出願に関して、特別な障害が考慮されるというわけである。ただし出願者は、出願書に障害に関する証明書をつけて、自分の障害を立証しなければならない。また、読み書きの障害がある高等教育機関の学生で、各機関において改良されたコンピューターを利用したり、試験時間を延長したり、ノート筆記の支援などを必要とする者は、「読み書きの障害/ディスレクシア」があるという証明書を作成しなければならない。実際には、法制度の裏付けはないが、大学入学適性試験の試験指導者リストに載っている人達が、この件に関しても、希望者の診断を行っている。

労働市場におけるディスレクシア

スウェーデン労働管理局(AMV)の伝統的な手続きでは、読み書きの障害は、この分野の特別な訓練を受けた産業心理学者によって診断される。1992年以来、AMVは職業上の「ディスレクシア/特異的学習障害」がある求職者を、管理システムの中で独自の基準により識別している。この基準ができる前は、どれだけの数の求職者がこの障害を持っているのかを判断するのはずっと難しかった。というのは、そのような人々は、他の職業上の障害基準の影に隠れてしまっていたからである。この独自の基準は、文字で書かれた言葉に関して職業上の障害があるグループを対象とした特別な解決手段を生み出すために重要であった。労働省の統計によれば、2002年6月時点で2,740人がこの基準に当てはまり、これは、障害を持つ失業者として登録されている者のうち、約2.4%にあたる。

AMV内には、特に読み書きの障害/ディスレクシアがある失業者を担当するチームがあり、このような人達が労働市場に戻れるよう支援する特別なプログラムが対策としてとられている。ストックホルムのスタッドシェーイェン失語症リハビリテーションホームには、全国的な協力活動を検討するチームがあり、7人のメンバーが、手段の開発や職場との連携、研修その他の分野に取り組んでいる。

一般に、学校の児童よりも、職業に就いている人の方が、読み書きの障害に関する福祉機器を入手しやすいといえる。

一般的な解決方法では、社会保険事務所と雇用者が障害の判定やこれを補う設備のための費用を分担する。この分野における私の個人的な経験では、たいていの場合、必要とされるのは「ディスレクシアの診断」ではなく、むしろ労働者の個々の「労働環境における障害」がどのようなものであるかを、特定の福祉機器を使うことと研修とを組み合わせることによりいかに職業的な障害を克服することができるかとあわせて、適切に説明することである。

保健医療システム

他の国々と異なり、スウェーデンでは読み書きの診断が病院で主に言語療法士によって行われるのが一般的である。しかし、臨床心理学者や、もっと珍しいケースでは、医師によって行われる場合もある。スウェーデンでは公認言語療法士の資格を持つ者は、「国際的な診断システム」の項で説明されたICD-10の診断システムを使う権利がある。しかし、保健医療システムにおける最終的な責任は常に医師にある。

言語療法士は通常、綴り方や単語解読、語彙、読む速度や読解の技術に加え、その基礎となる補助的な機能もテストするが、これは、例えば綴り方の未熟さなど表面に現れる欠点を説明するのに役立てられる。例えば聴覚及び視覚的短期記憶や、単語想起、音韻学的認知に関するテストも、これに含まれることがある。量的測定が可能な標準化されたテスト教材と、質的評価基準の両方が通常使われる。

たいていの言語療法士は、読み書きの障害があるほとんどの児童には、就学前の言語発達が遅かったという経歴があることに気がついている。このため言語療法士は、話し言葉や言葉の理解に関する記録も綿密に作成する。

地域によっては、言語療法クリニックで診察を受けるため、2,3年も順番を待たなければならないことがある。学校の生徒が言語療法士による診察の予約をとり、そこでおそらくは今後の道を開くことになるであろう診断を受けるのを待つ間、いたずらに時間が過ぎるのを待つことは、特にその後読み書きの診断結果に適切に対応できるシステムが身近にない場合は、適当ではない。

別の出発点

国連などの機関では、様々なレベルの効力を持つ規範法律文書が使われている。その最も強力なものが、「国際協定」で、加盟国ではこれが法律となる。一方、「宣言」は法的と言うよりはむしろ政治的な保証を約束する表現である。そして、「勧告」は、加盟国に対する呼びかけのようなものである。

1994年スペインで開かれたUNESCO会議で、92の国家政府と25の国際機関によって採択されたサラマンカ宣言には、特別なニーズがある児童・青年の指導に関する原則、ガイドライン及び基準が盛り込まれている。そして、診断よりも、個人と指導に重点が置かれている。この宣言では、教育制度においては、生徒の様々な興味や能力そしてニーズを考慮しなければならないと述べている。

ガイドラインでも、個人的な違い(第21条)や、特別な支援を提供すること(第31条)、また教師を対象に適切な研修を行うこと(第42条)に関する記述が見られる。

読み書きの障害に関する議論の出発点としてサラマンカ宣言を使うことは、診断よりも、個人のニーズに焦点を当てることになる。そうなると、これらのニーズを満たすためには教育システムをどのようにを改善したらいいかという問題が生じてくる。これは、ディスレクシアの正確な定義を明確にすることから始めようとする方法とは、根本的に異なる出発点である。サラマンカ宣言は法律ではない。この文書に込められた意図を実現するには、まだ多くのことがやり残されている。

1993年、議会で、「国連障害を持つ人びとの機会均等に関する基準原則」が採択された。スウェーデンでは、基準原則は、障害者の労働政策問題に関する重要な基盤を構成している。サラマンカ宣言と同様基準原則も、視点を表したものであるが、法的な観点からすると、基準原則は法には相当しないといえる。

FMLSはどう語っているか?

下記は、2001年に採択された、FMLSの設立条項からの抜粋である。

「§1 目的1
スウェーデン・ディスレクシア協会(FMLS)は、読み書きの障害/ディスレクシアの分野の学習障害がある人々を積極的に支援し、これらの人々の利益を擁護しかつそれが守られているかどうかを監視することを目的とする。(ウェブサイトから引用)」

この目的の記述では、FMLSは「障害」を扱っているという事実(つまり、例えば発達状況や第二言語の素地などについては扱っていないこと)を強調している。専門用語のレベルは、WHOのICF分類システムで、使われているものと似ており、健康状態よりも生活機能の状態や障害に関連したものが使われている。障害者団体として、FMLSは「理由の如何を問わず、文字で書かれた言葉に関して問題を抱える全てのスウェーデン人 ― 児童、青年及び成人 ―」を代表している。同協会は、「FMLS ― 読み書きの障害に対処しやすくする」というスローガンからも明らかなように、読み書きが困難であると感じることで起こる悪い影響を軽減するために活動している。FMLSにとって、ディスレクシアの正確な定義を定めることは、たとえ同協会がその議論において明らかに積極的な役割を果たしているとしても、非常に二義的な問題なのである。

1990年、FMLSは厚生省により、国から助成金を受けられる障害者団体として認められ、スウェーデンの障害者運動の一部に完全に統合された。しかし、多くの人々が信じていることとは反対に、FMLSが障害者団体として認められたという事実は、ディスレクシアの定義について意見の一致を見たということを意味するものではなかった。同協会は、「障害」という言葉は、あまりに多くの状況において「診断」という言葉と同一視されすぎていると考えている。これでは誤解を定着させ、議論を誤った方向に導いてしまう。

結論

読み書きはおそらく、最も複雑な人間の行動である。私たちは各自の様々なレベルの能力を使って、読み書きの技術を身につける。そして全く読み書きができないのはごく少数の人だけである。読み書きの障害は機能的な欠陥が原因で起こりうるというのは明らかである。現在有力なディスレクシア論は、ディスレクシアの根本的な原因は音韻学的なシステムに見いだされ、これは全く生物学的な問題であると言う仮説に基づいている。

今日、社会における各ディスレクシア関連団体は、それぞれ独自の用語と規定を使用し、また読み書きの問題へのアプローチ方法をとっているので、非常にわかりにくい状況となっている。関連団体同士の間で、この点に関するコミュニケーションは全くとられていないようである。そのため私たちは、ディスレクシアとか読み書きの障害/ディスレクシアとか特異的読字障害/「ディスレクシア」、またはディスレクシア/特異的学習障害というように、いろいろな表現をあれこれと自由に使っており、定義と制約条件は様々である。苦しむのはいつも、条件付きの支援が必要な人達で、特に支援を受けるための証明書が必要なことがよくあるので、苦労することが多い。ある教師が自分に与えられた仕事について私に語ったことが、これを如実に表している。ある成人の学生が2通の証明書を持っていた。1通はディスレクシアと診断した医師によるもので、もう一通はディスレクシアではないという結論を下した心理学者によるものであった。そして最終的な判断を下すことが教師の仕事となったわけである。この仕事を命じた団体は、障害の詳細よりも診断を要求した。しかし、診断の基準が様々であることを考えると、これは適切ではない。

それではここで、学校、保健医療システム、高等教育及び労働市場の関係者誰もが、ディスレクシアという用語の使用を、もっぱら単語解読の問題やある程度の音韻学的欠陥、或いはその他数値による測定ができるケースだけに限るように同意することを考えてみよう。理論的には、これは完全に実現可能である。しかし、それならどうやってディスレクシアの診断をその改善のための手段と結びつけることができるのだろうか?これは、最も重要な問題である。読み書きの障害があるが、私たちの定義の「枠組みからはみ出してしまう」すべての人達は、どうなってしまうのだろうか?診断テストの結果がどのようなものかということと、実際その人がどんな障害を抱えているかとの間には、決まった結びつきはまったくないのである。したがって私たちは、読み書き能力の欠陥が音韻学的な原因によることの方が、他の理由に比べて深刻な障害であると主張することはほとんどできない。問題解決手段を用意するために、ディスレクシアの証明書(様々な注釈がある場合もあれば、ない場合もある)を要求する傾向が認められる現在、これらの問題が考慮されることは非常に重要である。

読み書きの問題の完全な理解のためには、場面に即して考えることが必要である。従って、正確でかつ議論の余地のないディスレクシアの定義を見つけることは、的はずれであると思われる。現実はあまりに複雑で、常に問題が投げかけられる。そこで、私達がディスレクシアの問題とともに生きることを学ばなければならないのはまちがいない。この問題を、複雑な人間の行動に関わる多くの他の事柄と同様に、状況に応じてとらえていく必要があるだろう。つまり、私達がすることはどんなことでも、境界線が曖昧に引かれるもので、ディスレクシアと認められる人の数も、私達がどの判断基準を選ぶかによって変わってくるのである。

しかし、いろいろな関連団体や関係各者に、より完璧な情報基盤を提供するために、読み書きの問題の背後にある様々な機能障害を表す何らかの普遍的な専門用語が必要なことは確かである。評価は確かに必要である。「ディスレクシアを見つける」のが主な目的ではなく、それぞれのケースで何が原因となり、また何が読字障害の特徴となっているのかを理解し、適切で、かつ個人のニーズに合わせて特別に考えられた手段を読み書きの障害がある「すべての人」に提供するために。

読み書きの障害がある人がディスレクシアと診断されたかどうかに関わらず、その診断結果と対策との間にはより強力な結びつきが求められる。学校制度では、読み書きの障害がある全ての人を、診断の有無によらず、支援しなければならず、「ディスレクシア」という言葉で診断を下されるかどうかが、その後の個人の発達を妨げる分かれ道となってしまってはならない。労働生活では、特に職場環境との関連において、外に現れた障害を考察しなければならないのは明らかである。そうすれば、障害の程度を判断でき、訓練や補助的な方法及び技術をアドバイスすることができる。

以上のことは全て、ディスレクシアの診断を行う人に専門技術及び知識を要求するものである。ディスレクシアの診断をする人は、適切な質問や診断テストをし、その結果の解釈をし、関連性を理解して確固とした対策を提案しなければならない。もしこのような診断の内容について、その質をより高くするよう求めるなら、診断を担当する部門の内部に、自浄システムを作ることさえも考えられる。

未来の教材

「未来の教材」は、読み書きの障害/ディスレクシアがある人々を対象とした様々な形式の読み書き用機器の開発と実験に焦点を当てたプロジェクトから得られた経験を、一つにまとめる初めての試みである。本書では、教材に対する要求事項と、根底にあるニーズのリストを採り上げており、更に、公認言語療法士ボディール・アンデルショーンによる「ディスレクシアの分野に関する専門用語と法制度の解説及び読み書きの障害に対するアプローチ」が付録としてつけられている。

Yong People in Focus(若者達のために)

“Young People in Focus(若者達のために)”は、児童・青年を対象にした福祉機器とその支給に関するプロジェクトである。“Young People in Focus” により、情報の普及、専門技術の発達、ニーズの分析及び製品と指導法の開発の支援が行われており、様々な分野において約60のプロジェクトが実施されている。

スウェーデン南部のハランドと北部のノールボーテンの各地方議会では、3年間の試験的なプログラムが実施されている。これはスウェーデン・ハンディキャップ・インスティチュートと5つの障害者団体による共同の活動である。

“Young People in Focus”は、スウェーデン相続基金財団の資金によって運営されており、2002年12月に終了する予定である。

スウェーデン・ハンディキャップ・インスティチュートは障害者を対象にした福祉機器とアクセシビリティーを扱う、国立の支援センターである。

同インスティチュートは、高品質の福祉機器の利用と、その効果的な支給、及びアクセシブルな環境づくりを保証することで、障害者の完全な社会参加と平等を実現するために活動している。

スウェーデン・ハンディキャップ・インスティチュートの活動

・福祉機器の試験と調達
・研究開発
・ニーズの分析及び知識の普及と方法の開発
・訓練及び能力開発
・万人のためのアクセシビリティーとデザインの追求
・国際的な協力
・情報活動

スウェーデン・ハンディキャップ・インスティチュートは社会省、スウェーデンコミューン議会連合及びスウェーデン地方自治体連合によって運営されている。