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活動報告2

シャフィク・ウル・ラフマン
マイルストーン障害者協会代表
ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業 第3期生

シャフィク:皆様、こんにちは。本日はお越し下さいまして本当にありがとうございます。まず、自己紹介からはじめます。

来日前の自分と日本で学んだこと

 私は、パキスタンで生まれました。国土面積は日本の2倍で、人口は一億5千万以上です。首都はイスラマバードで、私の生まれ育った街はラホールです。今日配布されている資料には、パキスタンの人口に占める障害者の割合は2.5%と書いてありますが、WHO(国際保健機構)の報告によると世界の障害者の比率は10%だと言われていますから、本当はもっと高い比率だと推測されます。
 私は生まれて6か月の時にポリオにかかり、9歳からリハセンターに通いました。そこで、今も共に活動している友人3人と出会ったのです。大学は、地元のパンジャブ大学を卒業しました。日本に来る前の私は、障害がない人の社会に溶け込みたいと頑張っている障害者だったと思いますが、現在は障害者のリーダーでありたいと考えています。
 さて、私はダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業で日本に招聘されましたが、その時の経験や学んだことについて、まずお話しします。私は2001年8月下旬から2002年7月上旬まで日本で研修を受けました。この研修は、決して座学ばかりではなく、人との出会いや話し合い、また多くの経験を通じて学習するものです。いろいろな実習や体験があり、HPの作り方や行政との交渉方法、車いすの使い方や車いすを使う人に関する諸問題についても研修しました。
 また、様々な場所を訪問する機会にも恵まれ、その中には複数の日本のILセンターもありました。クリシュナと同様に、これらのILセンターが実践している「自立生活運動」の「当事者による当事者のための、当事者が行う」というコンセプトは、私にとっても全く新しいものでした。実際に、重度障害者が自立生活をしている姿を目の当たりにして、本当に目から鱗が落ちたような気がしました。
例えば、この写真で私の隣にいる人は、重度の障害をもっていましたが、彼はILセンターを通じて社会サービスを利用し、介助者を使い地域で自立して生活していました。彼は、自分の人生の決定に責任を持って、自分のことは自分で決めていました。こうしたことは、国の違いにかかわらず、世界中の障害者に可能なことではないかと、私は思いました。
 自立生活運動の歴史は、1960年代のアメリカ、カリフォルニア州バークレーの重度の障害をもつ大学生たちがキャンパスで起こしたところまで遡ることができます。その後、1980年代には日本へその運動が入ってきて、日本の障害者運動が劇的に変わったと聞いています。
そのような背景から、自立生活運動は先進国でのみ可能な活動だと思われがちですが、決してそうではないということに私は気づきました。多分、世界中の障害者は共通した問題に直面していると思います。例えば、障害者に対する差別というものは万国共通です。車いすを使う人はいつも段差に悩んでいますが、これも万国共通のことです。

帰国後のこと

 そう気づいた時、私はこの運動をパキスタンでも起こすべきだと思い、帰国後の2002年12月、約5年前ですが、自分の街でILセンターを立ち上げました。これはパキスタンのみならず、南アジアにおいて初めてのILセンターでした。
 ただ、そのとき様々な問題に直面したのも確かです。周囲の理解もなく、人材はもとより資金や設備も充分ではありませんでした。また、ピアカウンセリングや介助者派遣のようなサービスもありませんでしたので、プログラムの中身も貧弱でした。
 でも、私たちが大変幸運だったのは、日本のILセンターからのサポートを得ることができたことです。まず、メインストリーム協会や大阪のILセンターの支援を受け、2003年の2月セミナーを開催しました。そのセミナーには多くの障害者が集まり、日本から来たリーダーたちにより大いにエンパワーされ、自立生活運動も皆に知られるようになりました。その後、日本の多くの友人の方々、団体からも支援を受けました。今や、パキスタンには11のILセンターができ、活動しています。

パキスタン北部地震における被災者支援活動

 次に、今年開始したばかりのプロジェクトの活動についてご報告いたします。
 ご存じのように、2005年10月8日にマグニチュード7.6の大地震がパキスタン北部のカシミール地方を襲い、多くの家が崩壊しました。カシミールは大変美しい地域として知られていました。ところが、一瞬にして家ばかりか村全体が崩壊したところも少なくありませんでした。
 被災地域の写真をご覧ください。地震が起きた次の日から、私たちはここに入り活動をはじめました。最初は何ができるだろうかと不安もありましたが、被災地に入った途端、そのような思いは吹き飛びました。多くの人が必死に救助を求めていたのです。救援物資を配給するだけでなく、自分たちの車で負傷した生存者を病院に搬送するといった活動も行いました。

地震により崩壊した村の写真

 そのような中、イスラマバードやラホールの病院で、地震で障害を負った人たちをたくさん見ましたが、不思議なことに地震以前からの障害者は全く見かけませんでした。私たちは、地震前からの障害者が搬送されていないのはどうしてか、障害者は被災しなかったのか、どうして救援されないのか、疑問に思いました。
 つまり、障害者は病院にいるのではなく、地震で崩壊した地域や自宅に取り残されていたのです。これは、障害者は救援に値しないので、最後まで取り残されたということです。私たちは憤りを感じ、障害当事者だからこそしなければならない活動として、地震発生以前からの障害者で被災した人たちの支援に焦点を絞った救援活動をはじめました。結果、その場に拠点を作る必要があり、被災地に移動ILセンターを立ち上げたのです。
 地震発生直後の緊急支援では、外国からも多くの支援が得られ、また国を挙げて皆が協力したので、少しずつ落ち着きを取り戻しました。
その時、障害をもつ私たちは、次に何が必要か、何ができるだろうかと考えました。そして、地震で障害を負った人たちの精神的サポートをしようと決めました。そのツールとして、自分たちは同じ障害者であり、同じ経験、あるいは状況を共有していることを伝える”ピアカウンセリング”の手法を使うことにしました。これは、日本のILセンターの研修で学んだことです。「障害をもつことになってライフスタイルは変わるかも知れないが、あなたの人生は続いていくものであり、今はその新しい人生にどう対応するかを考えればいい」ということを伝えていきました。このように新しい障害者に対して、自立生活の概念を普及し、エンパワーしていきました。

 その地震では、750人が脊髄損傷になったと言われていますが、実際はその数倍の人が脊髄を損傷したと思われます。私たちはイスラマバードの国立病院に6か月滞在し、脊髄を損傷した患者に、車いすやカテーテルの使い方、そして辱そう防止のための体位交換や水分を取ること、排泄の大切さなどを教えました。脊髄損傷に関する専門的知識を持った医者がおらず、車いすやカテーテルの使い方を教えることができる人材が不足していたので、私たちが自分たちの経験や知識を通してこうした患者に障害と共に生きる術を伝えていかなければならないと思いました。
 その後、APCD(アジア太平洋障害者センター)やDPI日本会議、そして国際機関からも援助を受けることができました。女性のピアカウンセラーが必要だと言うと、大阪のILセンターから女性で脊髄損傷のリーダーが来てくれたりもしました。
 そして、私たちの活動は認められるようになり、世界銀行パキスタン事務所から日本社会開発基金のプロジェクトを受託したのですが、これには前段階がありました。これに先立つ1年ほど前に、ダスキン研修の面接のためにパキスタンを訪れたリハ協の事務局と愛の輪の駒井さんを通して、世銀パキスタン事務所の方々と知り合うことができ、それ以降連絡を取り合っていました。それが今回のプロジェクト受託へと結びついていったのです。
この日本社会開発基金により、私たちは被災地4か所でILセンターを開所することができました。それらのILセンターを通じて、1,052台の車いす、3,625本の白杖、ろう者のための携帯電話が300基導入されました。そして、1,200人に対して介助者研修が行われ、また、600人に対し、ピアカウンセリングが行われました。こうした活動によって恩恵を受けた障害者の数は、現在のところに延べ6,877人に上ります。

 このように新しい障害者をエンパワーする一方で、彼らが故郷に帰り地域生活を送るために、住環境をどのように整えていくかという課題がありました。そこで重要なのが建築の問題です。復興時に、どれだけバリアフリーな建物、環境を整えるか、ユニバーサルデザインというものを一般化していくかということです。こうした局面に対しても、私たちは障害者としてアドバイスができると思い、現在政府に対して働きかけているところです。また、パキスタン全土がバリアフリーになるべきとの考えから、障害者に関する省庁を2010年に設立するようにとの働きかけも続けています。
今後もこのような活動を続けていくには、各方面からの支援や協力が必要です。現在実施しているプロジェクトに関して、私は自信を持っていますし、実際に効果もあらわれています。直接的な援助も活動の中で提供することができていますし、このような活動が広まりつつあります。 例えば、私たちが支援した病院では脊髄を損傷した人々が、受障してから3か月で車いすに乗って活動をするようになっています。このようなことは以前には考えられませんでした。この写真の人は脊髄損傷の人なのですが、現在は震源地に近く、生まれ故郷でもあるムザハラバードで活動しています。2週間前にはソウルで行われたイベントで、車いすで150kmを走破しました。
地震により脊髄損傷で車椅子生活になった人の現在は元気な様子の写真
 今日ご報告致しました活動は、まだ進捗中です。可能であれば、私は2年後にこの場でこのプロジェクトが成功裏に終了したということを皆さんに報告できたら嬉しく思います。

私の夢

最後に、私が抱いている今後の夢についてお話しします。まず、南アジア地域における自立生活運動の概念の普及です。そのために、ネパールのクリシュナさんなどと協力して研修会を開きたいと思っています。また、自立生活運動でアジア太平洋地域のネットワークを作り、どんどん障害者をエンパワーしていけたらと考えています。
今、私は「障害者が世界を変えることができる」と信じています。そのためにはネットワークを構築し、世界の障害者が共に活動していかなければなりません。そうすれば、私たち障害者は世界を変えることができます。私は、障害者が自分の生活に責任を持ち、そしてコミュニティ、地域社会に基づいた活動をすることで、社会に変化をもたらすことができると思っております。私たちの責任感は、国を変えることにもなるでしょう。実際に、私は日本でそうした状況を目の当たりにしました。障害者の運動によって、必ず社会は変わっていきます。  日本で研修を受ける前の6年前の私は、障害者のコミュニティのために何かをしたいということは考えていなく、その頃は大学で教鞭をとるなど、そのような仕事に就けたらと考えていました。でも私は今、社会を変えたいと思っています。その社会を変えるのは障害者のためだけではなくて、すべての人の、すべの大人と子どものために変えたいという気持ちになっています。このように私が変わったのは、ダスキン・アジア・太平洋障害者リーダー育成事業で日本に招聘していただいて、経験したことによります。本当に感謝しています。
ご清聴ありがとうございました。

中西:ありがとうございました。
クリシュナさんは2年、シャフィクさんに5年の間に多くのことを成し遂げましたが、その間にとても苦労していると思います。例えば、クリシュナさんは逮捕の危機にあいながらもデモに参加したのかなど様々なことを考えながらお話を聞いていました。