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第2分科会

「生きにくさ」と向き合う

日本障害者協議会 常務理事 藤井克徳

 

はじめに

本大会には5つの分科会が設けられていますが、第2分科会だけが大和言葉で表記されています。柔らかいイメージがありますが、同時に大和言葉の特徴として奥深い意味が含まれているように思います。なかなかのタイトルといっていいのではないでしょうか。

障害分野を越えたテーマ

憲法第25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明言しています。私は、この第25条については、「健康で生きる=安全に生きる」という要素と、「文化的に生きる=より良く生きる」という要素の二つの要素から成っていると考えています。この国にあっては、単に生命を維持するという点だけをみればそれほど心配はないように思いますが、「安全に生きる」となるとたちまち心配な面が少なくなく、ましてや「より良く生きる」については不安や障壁を感じている人が少なくないのではないでしょうか。それどころか、昨今では逆の方向に向いていると言っていいように思います。

このように、生存権の要素を二つの視点で捉え、わけても今の日本では「文化的に生きる」が問われているのだということを強調しておきたいと思います。

さて、なぜ今「生きにくさ」なのか、あるいは「生きにくさ」と立ち向かうのかということですが、このテーマは、障害のある人びとの社会参加の質と量に大きく影響するのです。障害を持たない市民が「生きにくさ」を感じるとき、あるいは感じ方が強まるとき、障害のある人びとへの「生きにくさ」がより集積的に強まることは間違いありません。逆に言えば、障害のある人びとが、本当に生きやすさを実感するとき、それは社会全体に生きやすさをもたらすことになるのです。

残念ながら、障害のある人びとの生活実態の今は、「生きにくさ」そのものであり、これが加速度的に増幅していると言っていいと思います。それは、所得の実態だけをみても明らかです。少なくない障害のある人びとは障害基礎年金の2級受給者で、これを主収入源としながら生活を営んでいます。まさに、年金が命綱になっているのです。実は、最低限度の生活を具体化している生活保護制度の給付額よりも低いのが、障害基礎年金制度(2級)であり、障害のある人びとの所得の実態です。

これに関連して、気がかりな動きがあります。それは、生活保護制度の給付額よりも厳しい条件で生きている障害者がいる中で、生活保護制度の給付水準を引き下げてもいいのではという論調で、既に母子加算制度(母子家庭が対象)や高齢者加算制度が撤廃され始めています。さらに、生活保護制度と最低賃金制度の比較が行われるようになり、最低賃金の基準額が生活保護制度のそれよりも低いとなると、生活保護制度の給付額を最低賃金制度に合わせようという論議がまことしやかに飛び交っています。基本的な政策が下方へ、下方へと音を立てて崩れているようなイメージです。

そもそも、生活保護制度こそが社会保障政策の機軸であり、これがズルズル引き下がるのではなく、他の制度が少なくとも生活保護制度の水準までは引き上げられなければならないのです。そういう点で、最低の条件下に置かれている障害のある人びとへのまともな政策対応は、障害関連の政策水準の引き上げにとどまらず、後退を続けている社会保障制度全体の反転につながっていくはずです。繰り返しになりますが、「障害者政策」の好転は、蔓延しつつある格差社会見直しの切り札的な意味を内包しているのです。

したがって、障害分野から「生きにくさ」に向き合うということは、障害分野を超えて社会のあり方を問うことにつながるのであり、非常に大きな今日的な意義があると言っていいのではないでしょうか。

分科会の4つの視点

第2分科会については、4つのポイントで考えていきたいと思います。1つ目は、「生きにくさ」の実態をできる限り出し合うことです。2つ目は、「生きにくさ」の本質を深めることです。3つ目は「生きにくさ」の表れ方を検証することです。4つ目に、これを打開、脱却していく方向性を探っていくことです。

まず1つ目の「生きにくさ」の実態は、しっかりとした尺度を携えるべきです。私は、自身が視覚に障害があることもあってか、いつの日からか腹時計にも似た障害者政策を問う「ものさし」を持つようになりました。それは、4つの視点から捉えるというものです。具体的には、①国際比較、とくに日本と同水準にある国々と比べること、②高齢者や子どもなど、同じ社会福祉分野の政策と比較すること、③変化の速度の妥当性を含めて、時間軸で政策の経緯をみていくこと、④障害当事者のニーズに照らしてみること、以上の4点です。わけても、最後の「当事者ニーズ」、これが最も重要になると思います。

障害のある人びとの生活実態や問題現象を、こうした「ものさし」に照らしてみるならば、とても見えやすくなるのではないでしょうか。

次に、二つ目の本質についてです。昨今、政府がやたらに用いる言葉に「安心」があります。政府の政策文書にあって、社会福祉に限らず「安心プラン」なるものが横行しています。腑に落ちないのは、それでは「安心」を脅かしているのは誰かということになり、今日の「不安」な状況を生んできたのは誰かということです。

社会の隅々での格差の急進は、人びとのあいだに一挙に「不安感」を増幅させています。こうした現象と深く関連しながらの競争原理主義・市場原理主義に基づく政策の展開、すなわち弱肉強食的な政策の強行も社会全体に歪みをもたらし、「安心」を希薄にしています。「安心」を振り撒く前に、今日の「不安」はどこから来ているのか、格差の拡がりの原因は何か、しっかりとした究明や総括が必要です。「生きにくさ」の本質は、こうしたこの間の政策の総括抜きには考えられません。正確な総括の中に、あるべき方向についての正解を見出すことができるのではないでしょうか。

三つ目は、「生きにくさ」の表れ方を見ることです。障害があるために、「生きにくさ」の表れ方は多様であり、障害のない人と比べて深刻な状況にあります。つい2週間ほど前のことですが、私がよく知っている精神障害の方にこんなことがありました。認知症を伴った彼は、土曜日の朝に自転車でアパートからどこかに向かおうとして、途中で迷ってしまいました。結局、炎天下の中を12時間以上も走り回り、脱水症状のまま路上に倒れ、警察に保護されたのです。道に迷うことは障害の有無に関わりなくよくあることですが、迷った後の対処の仕方が違うわけです。一般的には、人に尋ねる場合が多く、交番を利用することも多いと思います。障害によっては、こうした行為が難しく、命にも関わるような限界状況にまで行ってしまうのです。いったんは腎臓の摘出話にまで及びましたが、思いのほか体力の回復が早かったこともあって摘出という最悪の事態は避けることができました。

また、知的障害者を対象とした入所施設偏重政策や、精神障害者の社会的入院問題も、この「生きにくさの表れ方」と深く関連します。こうした問題現象の捉え方はさまざまあろうかと思いますが、捉え方の一つに「主張できない人たちに、主張できにくい人たちに起こる問題」というのがあるのではないでしょうか。まさに、障害と結びついた、「生きにくさの表れ方」の象徴的な現象と言えます。

いずれにしても、障害がなければ起こり得ない、起こったとしてもさほど問題にはならないことが、障害を有することによって表面化したり深刻な問題になることがしばしばあります。障害を有していたとしても「生きにくさの表れ方」をいかに減じることができるか、この点が障害者政策の基本であり、リハビリテーションにあっても探求すべき視点になるのではないでしょうか。

4つ目は、「生きにくさ」からいかに脱却を図るかということです。本分科会のタイトルは『「生きにくさ」と向き合う』ですが、「向き合う」以上は傍観して終わるのではなく、当然ながら少しでも解決に向かう努力が成されなければなりません。打開や脱却を図るためには、さらに二つの視点が必要になろうかと思います。

その第一は、徹底して政策のレベルで追求していくことです。逆に言えば、社会の良心やモラルなどといった、人びとの意識レベルの問題に委ねてはならないということです。もちろん、差別や偏見をなくしていくためには市民の意識や心というのは重要な意味を持ちますが、しかしこれを先行させてしまうと「いつでも、どこでも、だれでも」という普遍化という観点が衰弱してしまいます。政策を先行させることが基本であり、これに牽引されながら、あるいは政策ベースの上に、意識や心の問題が問われるべきです。欧米などの先駆的な政策にあっては、この政策先行という考え方を徹底的に優先させているとのことです。

さらに、この政策レベルを重視していく場合に留意しなければならないのが、その方向性です。この点についてはさまざまな視点と内容があげられますが、最も今日的で集約的なものとして、障害者権利条約があります。既に発効し、わが国にあっても早晩批准に向かう障害者権利条約であり、障害のある人びとの「生きにくさ」からの脱却にあっても、これを羅針盤として取り組んでいくべきではないでしょうか。

第2は、日常の実践の質を高めていくことです。地域には「生きにくさ」に打ちひしがれたり、困り果てている人たちがたくさんいるはずです。リハビリテーションの専門職と言われている人たちは、さまざまな社会資源に在職しながら支援に携わっている人たちは、こうした障害のある人たちにきちんと向き合うことです。遭遇した問題や矛盾から目を背けてはならないということです。残念ながら、政策的な対応は遅れをとる場合が少なくなく、それを待っているだけでは「生きにくさ」の固定化につながりかねません。政策的な好転を展望しながら、あるいは好転を図るためのソーシャルアクションなどと並行しながら、とりあえずは目前のニーズに実質的に応えるという取り組みが重要になります。

問題や課題の多い事態の打開や脱却を図るためには、以上のように政策改善の視点と実践的な視点との二つが合わさるようにしながら追求されなければならないということです。

総合リハビリテーションの「総合」を今一度

最後に、総合リハビリテーションにおける「総合」のあり方について考えてみたいと思います。結論から言えば、さまざまな視点から考えなければならないということです。第一は、障害のある人びとをめぐる関連分野や領域が強力に連携し、統合してアプローチが図られなければならないということです。とくに、医療や保健、教育、保育、生活、就労などの諸分野の「総合」が重要になります。第二は、障害の種別を超えるという意味での「総合」です。わけても、難病による障害とか高次脳機能障害、発達障害(自閉性障害)などいわゆる「谷間の障害」など、すべての障害を視野に入れなければなりません。第三は、障害当事者と専門職との共同、あるいは連携ということです。両者の関係の質が、そのままリハビリテーションの実践の質に連動していくように思います。

「生きにくさ」を軽減したり解消していくためには、この「総合」というキーワードが決定的な意味を持つことになるのではないでしょうか。政策的にも、実践的にも探求していかなければならないテーマです。このテーマを本格的に深めていく中に、リハビリテーションの概念もまた新たな段階に入っていくように思います。