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「理工学分野における高等教育の障害者入学支援プログラム:韓国でのとりくみ」

イ・サンムク(李尚黙)
ソウル大学 地球環境科学部教授

講演をするイ・サンムク氏の写真

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 皆様、本日はご招待いただきましてありがとうございます。日本において障害者支援技術や器具の開発に携わっていらっしゃる皆様、それからまた実際に理工系の教育に関心を抱いていらっしゃる皆様の前でお話しすることは本当に光栄です。
 さて私は地球物理を担当しております関係から、日本には何回かおじゃましております。ご承知のように日本はこの分野での科学が非常に進んでいる国として、おそらく今まで毎年3~4回は来日し、来るたびに新宿のワシントンホテルに泊まっています。
 ただ新宿のワシントンホテルは部屋が小さいという難点がありますので、今回のみ京王プラザに宿泊しております。ただ京王プラザもワシントンホテルも新宿に位置しておりますので、その意味ではまた新宿に戻ってくることができました。

 私は4年ちょっと前に事故に遭いまして、私の生活は劇的に変化しました。しかしこの変化は悪い方に変化したのではなく、よい方向に変化したのであると考えています。
 さて皆様ご承知かどうか、私の研究分野は地震と火山活動です。ただ韓国は火山帯の上に位置しておりませんので地震がありません。したがって私が研究している分野が韓国で本当に社会の役に立つのかということをいつも疑問視しながら研究活動をしていました。しかし事故でこのような状態になりました。結果として、現在は新しいことができるようになりました。すなわち理工系の学生に対して、教育することができる機会を得ることになり、その意味で私の研究活動、それからまた私の教育活動が初めて社会に有用なものになり、嬉しく思っています。
 私は教会にいくわけではありません。しかし事故が起こり、それからその後に何が起こったかということを考えてみますと、これはもともと神から与えられた使命、あるいは運命であったのではないかと考えるようになりました。

なぜ私がそのようなことを言うのかをご説明していきたいと思います。スライドをご覧ください。

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 おそらく皆さんも脊損、脊椎損傷についてはご承知のことと思いますけれども、私の場合はC4が完全に骨折しています。
今動かしましたが、これが私の体で動く唯一の部分です。つまりこの障害によりまして、首から下は動かすことができません。また、それとともに肺活量も非常に大きく低下しまして、健常の方々の3分の1の肺活量しかありません。
 そして私は事故に遭った後で、実際にこれから私の仕事はどうなるのかとしばらく考えた覚えがあります。「いや、これから新しい仕事を見つけることはない」と思いました。もう既に大学で教授として教えており、そして大学で教えるためには手が動かなくてもできるではないかと思ったわけです。
 つまり私の前の職業が例えば音楽家、ミュージシャン、バレリーナ、あるいはピアニストであれば、とてもそのままの仕事は続けられなかったと思います。大学教授であってラッキーだったと思います。大学教授でありますので、学生が反抗したら、君にはいい成績をあげないよということで、コントロール可能です。また、大学でよかったと思います。もっと小さい子たちを連れているのであれば、例えば中高生であると、悪いことをしたからといって叩いて教えるというわけにもいきません。

さてここで私が何をしたか何が起こったかということを短い履歴としてご紹介しております。一つひとつご紹介していきます。

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 このスライドにある最初の記述、2006年の7月でありますが、私は当時、国立ソウル大学の学生とカルテックの学生とともにカリフォルニアのデスバレーにおりました。この2つの大学の学生にカリフォルニアの地質学について教えておりました。そしてその最中に私が自分で運転していたバンがひっくり返り事故になりました。
 この事故以降については全く記憶がありません。ただ聞いたところによりますと、このカリフォルニアの砂漠で事故を起こした後、40分してヘリコプターが飛んできて私を一番近い病院にまで輸送してくれたということです。そしてその病院の屋根に私を下ろしたということでした。そしてしかもそのヘリコプターが到着する40分間の間、カルテックの学生たちがCPRで私を蘇生させ続けていてくれました。
 この事故の前ですが、砂漠地帯を6台のバンを連ねてキャラバンで走行していました。私は4台目のバンを運転していました。非常に泥だらけのダート状態の道で、前もあまりよく見えないという視覚の低い場所でした。
 私の運転するバンには7人搭乗していましたが、私のみが損傷したということで、あとの6名は脱出したと思っていました。
 私が搬送された病院があるのは、これは後で聞いたんですけれども、カントリーミュージックで有名なベーカーズフィールドという町です。その病院で3日間、昏睡状態にあった後に覚醒しました。
 私は目を覚ましましたけれども、しかしこの損傷が恒久的な損傷かどうかということがわかるには、数日かかりました。そして数日間、検査を行った後で、私の被った脊椎損傷は完全なものであるという判断になりました。
このベーカーズフィールドの病院で1ヶ月入院した後、次にカリフォルニアで最も優れた病院であるUSC(サザン・カリフォルニア大学)の大学病院に運ばれました。
 この大学病院は一晩で2万5,000ドルかかるという病院です。韓国の病院の15倍の料金です。
そしてまた私は、そこでも何もできないということで、次にランチョ・ロス・アミーゴスという、世界のリハビリテーションの分野では知らない人はいないという歴史のある有名なリハビリのセンターに行きました。
 このように4年前に被った損傷は非常に大きな医療コストをかけていろんな治療、リハビリを受けてきました。しかしその高いコストにもかかわらず、実際に私の損傷は1%も改善しませんでした。

 しかし、医療的には何も改善はしなかったんですが、しかし私の生活は大きく変わりました。つまりランチョでコンピュータの使い方を学んだわけです。そしてそのことが私の生活を大きく変えたと思います。
 そしてこのように3ヶ月間、アメリカにいた後、韓国に戻ってきました。そしてまた3ヶ月、韓国の病院に入院した後、6ヶ月で旧職に復帰しました。つまりソウル国立大学に復帰したわけです。韓国に戻って、また韓国の病院に3ヶ月入院したと申し上げましたが、これは医学的な理由で入院していたわけではありません。韓国に帰りましても自宅、それから大学の教室、オフィスともに私を受け入れるような状態になかったので、その当時は病院にしか行くことができなかった。病院にしかいる場所がなかったということでいたわけです。そして病院にいる間にオフィスも、自宅についても改造が済みました。

 実際に、最初の頃はメディアも別に私のことは注目していませんでした。私のことをメディアが注目するようになったのは20ヶ月後です。つまり損傷後、事故が起こった後、20ヶ月は普通の生活を送っていたということになります。
 しかしメディアが私のことを知りました。忘れもしない2008年の3月5日のことですが、韓国の新聞記者が私のことを知り、本当にショックを受けたということでした。なぜショックを受けたのかと言いますと、韓国ではこのような障害に遭いますと、その後はずっと病院にいて過ごすというのが普通だからです。もちろん韓国の医療制度によりまして入院しているのは3年前ということですが、3年も病院にいれば、その間に自分が前にやっていた仕事はもうできなくなってしまいます。たとえ大学教授であったとしても、3年間も空きを作ったままで私を待っていてくれるとは思えません。しかしそのような形で職に復帰することがないままというのは韓国では普通でしたので、その新聞記者は6ヶ月で私が職場に復帰したと聞いて本当に驚いたのです。
 そしてそのレポーターのインタビューを受けた次の日、すべての国のテレビや新聞、そしてその新聞でも大手の新聞は1面に私の記事が載りました。その記事の見出しは「6ヶ月でまたもや教壇に」ということで、6ヶ月で教壇に復帰したということこそ、この人物は本当にスーパーマンであるという記事が出ました。
 当時、私の友人は、メディアの興味なんか3週間くらいしか続かないよ、その後、君も忘れ去られてしまうので心配ないよと言っていました。しかしながら現在にいたりましてもまだまだ私の存在はメディアで強力であります。4年間たってもメディアの注目を集めています。そしてこのようにメディアの暴露があったからこそ、それが力となり、このように私ができると考えてもいなかったようなことを、そして考えてもいなかったような変化を起こすことができる原動力となったのだと思います。

 そして、2008年に韓国の大手の新聞が私にコラムの執筆を依頼してきました。このコラムに執筆する内容としては、韓国の全盲の学生が非常に難しい弁護士試験に受かったという記事です。つまりこの学生に対して韓国の司法省が支援技術を提供することによって、彼はこの難関を突破することができたというコラムについて執筆を依頼されました。
そしてこのコラムに執筆して2週間ちょっと後のことだったと思いますが、政府の、日本の経産省に当たる省の役人の方が訪ねてこられまして、自分自身、つまり教授、それから私がコラムに書いた学生のような人たちを支援するプログラムに参加してほしいという要請を受けました。
 日本でもそうだと思いますが、韓国でも通常、障害者を担当している省庁というのは厚労省や文科省でありまして、経産省のような組織ではありません。
 そしてこういうふうに担当者も違うということで、あなたがそういうところからプロジェクトを受けたというのは違うだろうと信じてくれなかった人もいました。しかし実際にこの経産省に相当する省の方が私のところにオファーを出しまして、これから10年間、毎年1,000万ドルを供出しますので何とか支援をお願いしますということだったわけです。そうかということで、それではビルを建てたらどうかということでアイデアを出したところ、大体2,000万ドルかかるということで、1時間のうちにその金額が1億2,000万ドルになりました。
 通常、研究者はいつも政府の支援あるいは補助金をもらおうとして一生懸命なわけです。今回は私の方から補助金を頼んだわけではありません。向こうの方から申し出があったわけです。私は終始、傲慢な態度でいました。
 そしてその後、1年半かけて法律を制定し、その法律が国会の審議を経て実際に施行されるということがありまして、そしてようやく6月にQOLTというプログラムが開始されることになりました。QOLTは、Quality of Life Technology、生活の質を向上させる技術のプログラムと呼ばれるものです。私自身、QOLTという名前は好みませんで、他の名前野方がいいと思っていたんですけれども、向こうの方がどうしてもと言うのでQOLTという名前になりました。

 申し上げましたように、私は地球物理の人間でありまして、リハビリテーションエンジニアでもありません。また障害者についての研究をしているわけでもありません。支援技術の開発をしているわけでもありません。つまり私はあくまでも支援技術のユーザーです。
 これだけの資金でありますが、もしこの資金が厚労省の方の予算であったとすると、おそらく私のオフィスの前には障害者の団体の方の反対デモでも、座り込みでも起こったのではないかと思います。しかし私は厚労省からの予算をとってしまったわけではありません。今回は新しい資金源を確保したということで、したがって私のやりたいことは何でもできるという状態です。

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 さて、私の研究分野をこのスライドに示しています。このように地球はプレートの上に地殻が存在するということで、その上に我々が住んでいるわけです。日本の方々はこれらのプレート活動については非常によくご存じです。このプレートの下にマントルがあり、マントルの動きとともにプレートが動きます。そしてそのプレート境界に火山活動や地震が起こってくるわけです。このような研究を私はしています。

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 これが世界における地震帯の分布です。日本は文字どおり地震帯の上にのっているということで、地図にもあらわれていないくらいです。ところが韓国はその地震帯の上におらず、したがって私にとって不幸なことに、韓国には地震がありません。
 つまり私が4年半前カリフォルニアに行ったのもそれが理由でした。つまり国立ソウル大学の学生に真の地学を見せたいと思ったわけです。本物を見せたい。韓国には地震もない、火山もない、プレートテクトニクス活動もないので、この学生は実物を見ることができなかった。だからこそ私は彼らをカリフォルニアの砂漠に連れていったのです。

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 これでご覧になれますように砂漠ですので植物も生えていない、すなわち教える場としては非常に絶好の立地です。ここでうちの学生とカルテックの学生とともにフィルムのトリップを行いました。

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 この写真には緑が見えますけれども、カリフォルニアは砂漠地帯です。このフィールドトリップには35名参加しまして、このように大きなバンに乗ってキャラバン隊を組んでフィルムトリップをしました。テントで眠り、真の地球物理を目の当たりにするという、本当に楽しい経験をしました。
 そしてこのフィールドトリップの9日目に、デスバレーに向けて非常に低速でバンを運転していましたところ、突然転倒し、そしてデスバレーに行くのではなくて私がデス状態になってしまったのです。
 しかし私が実際に死亡しなかったのは、その事故のときに私の周りに脊椎損傷についての知識を持っている人たちがいたからです。それからまた病院で看護も受け、また仕事に復帰するための正しい教育を受けることができました。すなわち支援技術の正しい使い方を学ぶことができたゆえに職場に復帰することができたのだと思っています。

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 その使い方を覚えた支援技術としては、本日は持参しておりませんが、インテグラマウス(Integramouse)というコンピュータを自由に操作することができるマウスと、それからもう一つが音声認識ソフトです。
現在のところは英語でしか扱えませんが、この2つのツールを使いこなすことによりまして、今まで私がやっていたことをすべて行うことができます。
 このアメリカでの3ヶ月の入院は100万ドルかかりました。その間私の受けた手術は1回だけです。そしてこのように3ヶ月病院にいて、1回外科手術も事故の直後に受けました。けれども私の状態は1%も変化しませんでした。この100万ドルは一体何に使われたんだろうと不思議に思うこともあります。しかし、米国の滞在中に真の贈り物をもらいました。それは私が使うことのできるコンピュータを紹介されたことで、これが縁で私の人生は終わったのではないということがわかったのです。

 さて、韓国には韓国人が誇るハングル語があります。14世紀の韓国の王が編み出した非常にすばらしい言語です。韓国の人たちはこのハングル語の読み書きを簡単にすることができますので、小学校に入る子どもは既に就学前からハングル語の読み書きができなければいけないということになっています。つまり入ってから学ぶということではなく、もう就学前に学んで読み書きができるという、このように簡単に読み書きができる言語がハングル語です。
 このようにハングル語はすばらしいのですが、残念ながら私の使っている言語の認識ソフトは英語でしか使えないので、韓国語では使えません。これは非常に恥ずべきことだと思います。

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 さてこのスライドに書かれている言葉は、ハングル語を発明したセジョン(世宗)王の言ったことです。すなわちこのように言われました。「学者であれば中国語を使えばいい。しかし普通の人たちには中国語は難しすぎる。したがってハングル語が必要である」。
 そこで私は韓国政府に対し、次のような提案をしました。今後はハングル語で使える音声認識ソフトを開発すべきだ。そしてこの開発プロジェクトをキング・セジョン・プロジェクトと呼ぶことを提案しました。というのも、普通の人は英語の読み書きではなくハングル語を使います。したがってハングル語で音声認識技術を開発すべきであり、そしてその開発プロジェクトはキング・セジュン・プロジェクトと呼ぶべきだと思ったのです。

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 その後、私はこの経験を韓国語で本に著しました。そして「ニューヨークタイムズ」のノバにも記事が載りました。

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 さて、次に悲しいお話をしなければいけません。4年前に砂漠でバンでひっくり返ったときに、私自身が唯一損傷を受けたのだと聞かされたというお話をしました。私は誰か学生がケガをしたのではないかと聞きましたけれども、誰もあなた以外にはケガをした人はいませんよと言われたわけです。後でわかったことですが、実は医師がこのことを秘密にするようにと言っていたのです。実際には現場で即死した学生がいましたが、私には知らされなかったのです。私がそれを知ったのは4ヶ月後のことでした。
 このことを知って、本当に大きな精神的な衝撃を受けました。事故を負っても、それからこのような損傷を受けても私は絶望的にならなかったのですが、このように私が責任を負っていた学生が現場で死亡したということを聞いて、本当に大きな衝撃を受け、今このときでも悲しく思っています。つまり私は負傷しましたが、職に復帰することができました。その意味では全く悲しいことはありません。しかしこの学生の死を知って、本当に現在でも悲しく思っています。本当に大きな衝撃を受けています。

 さて私が韓国の病院にいて、その学生の死を知った後の数日後のことだったんですが、国立ソウル大学から電話が入りました。その電話は、その大学に勤めるクンウー・リー(Kunwoo Lee)先生からでした。その先生は、クン・アン・ファンデーション(Kyung-Am Foundation) から研究に優れた業績を残したということで受賞し、そしてその受賞とともに賞金もいただいたということですが、その賞金の10万ドルをそのままそっくり寄付すると言ってきたわけです。私はこれは間違いかジョークではないかと思いました。
 その当時はまだメディアにも私の話は載っていませんでした。したがって何でこの先生が私の事故のことを知ったのか、不思議に思いました。というのも、私はこの教授とは何の面識もなかったからです。そして後でわかったことですが、実は他の教授の方から私の話を聞いた、そして心を痛め悲しい思いをしたので、このように寄付をすることを決めたということでした。
そしてこのように私が全く面識のなかった教授がこのように高額の寄付を申し出てくれたということから、私を知っている私の知人も突如として私の助けになろうと、いろいろと援助の手を差し伸べてくれることになりました。その結果、前職に復帰することがかなったというわけです。つまり私は、学生の死を知って本当に悲しい思いをしましたが、その後はこういう出来事がありました。
 最初の頃は大学側からこのことをニュースに載せたいという申し出もありましたが、私はやはり公に出たくないと言って当時は拒否しておりました。しかし拒否したものの、その後、やはり今回寄付していただいたクンウー・リー先生の厚意を考えると、やはり少し申し訳ない気持ちになりまして、1年半たったときでありますけれども、ニュースに出ることを承知しました。当時は大学新聞に載るということでインタビューを受けたんですが、そのニュースが広まって、今度は全国的な有名人にまでなったということです。
 そしてここまで有名になりますと、最初にリー先生にこの賞金を適用したクン・アン・ファンデーションの方から、今度は私に対して、またさらにファンデーションの方から10万ドルの寄付をいただきました。

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 そこでこのいただいた寄付をもとに「CARE」というセンターを立ち上げました。Center for assistive and rehabilitation engineeringの会です。ただ実際の資金も10万ドルということで、毎日会合を開いてブレーンストーミングするぐらいが活動内容でした。
 そして先ほどもご紹介しましたように、その後、新聞にコラムを書き、そしてその結果として経産省に当たる省の方から非常に多額の予算の申し出があったわけです。そして彼らは私に支援技術の開発のリーダーとなってくれと要請してきました。しかし私はこう言ったわけです。「自分はエンジニアではない。つまり私ができるのは、障害者がどのようなニーズを持っているかということを勧告として出すことができるだけでしょう」と。そしてそのためにソフトやハードの開発の提案をしたわけです。
 しかし私自身は理工科系の学者です。そして障害を持っていても職を続けることができます。したがって私自身が一つの例として、障害のある学生も理工科系の教育や研究を続けていくことができるということを示したいと思ったわけです。というのも、日本と同じように韓国もハイテク志向の国でありますので、実際に理工科系の能力がなければ何もできないという状態の国だからです。

 しかし理工科系といいますと実験や観察作業がつきものです。それをどうやってやるのかと思うかもしれませんが、コンピュータがあります。実際に実験しよう、観察しようと思ってもできないようなことが多くあります。それをコンピュータはやってのけます。例えば私の領域でマントルの動きについて実験ができるでしょうか。いやそうではありません。やはりサイバースペースを利用した、コンピュータを利用した研究・観察になります。
 さて、現在国立ソウル大学には60名の重度障害を持っている学生が学んでいます。その80%は人文、あるいは社会科学の分野です。つまり理工科系に進む上では、目に見えないバリアがあると思われます。そこで私は、政府に対して、私はこの状態を変えることができますと申し上げました。私がコラムに書いたある学生は、全盲であるにもかかわらず司法試験に合格しました。彼がなぜ合格できたのかというと、彼は自分の前にいく障害者の人が、実際に難しい教育や試験を受けて、政府の官僚となったという例を知っていたからです。それがゆえに、自分にも道が開かれていると感じ、このような困難を突破したわけです。
つまり、現状を変えるためには、ロールモデルとなる人物が必要です。つまり理工科系で活躍することができるということを実証するモデルが必要であって、そのモデルにしたがって現状を変えることができるというわけです。

そこで、ソフトとハードの開発と申し上げましたけれども、ヒューマンウエアの開発ということにして、今回もプロジェクトを行うことにしました。このプロジェクトは「ROPOS」という名前をつけました。「Realizing Our POotential in Science」、つまり「我々の理工科系におけるポテンシャルを実現するために」という名前をつけたのです。
そしてこの計画にしたがって拠出されている資金をそれぞれ分割し、ソフトの開発、ハードの開発、そして人材開発に分けることにしました。
 さて、この「ROPOS」には二つの目標を掲げています。第一の目標は、重度障害学生のお手本とすることのできるロールモデルとなる人を育てていくということが一つです。それからもう一つの目標は、障害のある学生もない学生も、支援技術、そして必要な知識を学び、将来、支援技術の開発者やリハビリテーションの支援ができるディベロッパーの育成をすることです。

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 この目的を達成するために国立ソウル大学で二つの学科を新たに創設しました。一つはコンピュータサイエンス科で、ここではサイバースペースで科学分野、理工科系のプログラムの開発をすることを目的としています。あくまでも理工科系のプログラムということで、そのために基礎知識として計算科学(computational science)を学んで、特に人の知識に貢献することを目的としたプログラム開発を狙っています。二番目は将来のリハビリテーションサイエンスや技術の開発者になるための人材づくりの科で、こちらは大学院のコースとなります。
 しかしながら現実として国立ソウル大学の入試は非常に難関でありまして、したがって私どもはこのプログラムを行っていくためには障害者の学生の一定したプールが必要なわけです。つまり理工科系に毎年入ってきてくれる非常に優秀な、高い教育を受けた学生が大学に入学してきてくれなければなりません。そのために非常によく知られたレベルの高い高校と提携することにしました。この高校の方で、中学の頃から障害を持つ非常に優秀な学生を受け入れて、そしてそこで3年間、みっちりと理工科系の教育、大学前の教育を行ってもらって、その人たちにうちの大学、あるいはその他の大学に入学してもらおうという計画です。

 それからまた産業界のサポーターもついています。このようにメディアへの公開がうまく行われた結果として、サムソンエレクトロニクス、ヒュンダイモーター、あるいはコリアンテレコムといったところも強力なサポーターです。
 それからまた我々の大学だけではなく、EWU、こちらは女子大ですが、コリアンナザレ大学、あるいはテグ大学といったような大学でも障害のある学生を受け入れてくれていますので、この協力の輪は非常に大きくなっています。

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 さてこれが私の最後のスライドです。私はこの事故によって私の生活がよい方に変わったとお話し申し上げました。ここにある写真に写っているのは、米国の野球選手で有名なルー・ゲーリックです。ご承知のようにルー・ゲーリック病は、彼の患った病気からとった名前です。
 ルー・ゲーリックは、不運にも有名なベイブ・ルースと同じチームにいました。
そして彼はこの病気にかかっているということがわかって引退することになりました。彼の引退の日、ヤンキースタジアムは大観衆で埋まり、そして彼の引退に当たっては全員立ち上がって大喝采を送りました。そして彼は引退演説でこのように述べました。「今日私は地球上で最も幸運な人間としてこのベースの上に立っている」。
 さて、彼はこのようなことを述べたということで、人々はこの言葉の意味を二つに解釈する人に分かれました。
 つまりルー・ゲーリックがこのようなことを言ったのは、彼がヤンキースタジアムを埋めた観衆がすべて立ち上がって彼のために拍手をしたので、感極まって誇りに思いこのようなことを言ったと解釈した人たちがまずいました。
 しかし、障害を持っている人たちは違う解釈をしました。
その人たちは彼の言葉をこのように解釈しました。つまり彼はこの病にかかって初めて、人生がいかにすばらしいか、そして自分がどれほど愛されていたかということを悟って、あのようなことを言ったのだと解釈したのです。
 さて、この二つの解釈がありますが、皆様はこのルー・ゲーリックの言葉をどのようにとらえますでしょうか。皆様のお好きな解釈で結構だと思います。ご清聴ありがとうございました。