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■  講演1 現場で学んだ教訓、課題、そして将来への期

認定NPO法人 難民を助ける会 加藤美千代


沼田/では、最初に、1番目の講演者である加藤美千代さんをご紹介したいと思います。

加藤さんは大学でビルマ語を学ばれ、また修士課程では農村開発について勉強され、その後、タイおよびミャンマーで地雷被害者の支援に関わられました。その後、2004年4月から「難民を助ける会」に入職され、ミャンマーおよびカンボジアで駐在の経験があります。特に2005年8月からのカンボジアでの駐在の折には、障害者の職業事業および車いす製造事業配付の活動をされました。なお、その後カンボジア事業を現地の団体に移管するためにも力を注がれました。

本日は、特にカンボジアでのご活躍についてお話をいただきたいと思います。

 

加藤/今、沼田さんからご紹介がありましたが、最初に少しだけ自己紹介をさせてください。

私は、大学の頃も大学院の頃も、障害という分野についてはまったく学ばなかったのでこの分野に関しては素人だと思っています。ただ、タイで活動を続けている時に地雷の被害者と会い、それから障害者の支援活動に興味をもち始めました。難民を助ける会に勤務してからもうすぐ4年たちます。その間、カンボジアでの障害者支援活動に関わりました。今日は主にカンボジアでの障害者の支援活動から、何を問題だと思ったのか、これからどうしていったらいいのか、また今後への期待を中心にお話しします。

難民を助ける会は、1978年に設立されました。現在、カンボジア、ラオス、ミャンマー、アフガニスタン、タジキスタンで障害者の支援活動を行っています。紛争後の復興支援として、より弱い立場にある方々を支援するという視点から支援活動が始まりました。

活動内容は、職業訓練、車いすの製造と配付、障害者の自助組織の能力強化、理学療法クリニックの運営など、幅広く行っています。その目標は、障害をもつ方々の、社会的、経済的、精神的自立です。簡単に写真をとおして車いすの製造配布事業と職業訓練校のことを説明します。

 

カンボジアでの支援活動

これはカンボジアのプノンペンで撮った写真です(写真1)。1台のバイクに4人の人が乗っています。誰もヘルメットをかぶっていません。こういったことから最近は交通事故が増え、交通事故で障害を負う方が増えてきました。

首都プノンペンから1時間ぐらい車で走ると、こういった農村の風景に出会うことができます。これは私が実際に駐在していたときに撮った写真です(写真2)。この家に住んでいる方に会うために行きました。これはカンボジアでよく見られる、典型的な高床式の家です。

(写真1)男性1人、小学生ぐらいの子ども3人が1台のバイクに乗っている風景。
(写真2)高床式の家が2軒並んでいる。家の下の日陰部分にイスがあり数人が腰をかけている。

この家には、車いすに乗った女性が住んでいます。彼女には小さい子どもが3人いて、ご主人がプノンペンに出稼ぎに行っているので、ひとりで3人の子どもを育てています。ただ、同じ敷地内の隣の家には、お父さんとお母さんが、その横にはお姉さん夫婦が住んでいるので、家族で助け合って暮らしています。

この車いすは、難民を助ける会のカンボジア事業で製造して配布したものです。彼女の家に行ったのも、この車いすを配ってから彼女の生活がどのように変わったのか、メンテナンスができているのか、困ったことはないか、そういったことを調べるためでした。彼女は3人の子どもを育てるために、庭先でお菓子をつくって売っています。

車いすで移動して、あとはいすに腰かけて、その場所でお菓子をつくります。この写真を見ると、彼女は両足のひざから下がありません(写真3)。13歳の時に地雷を踏んで足を失ったということでした。

田んぼがあり、その奥に仏塔が見えます(写真4)。彼女は13歳の時にこの仏塔にお参りに行こうとして、その近くに埋めてあった地雷を踏んでしまいました。カンボジアで地雷を踏む人はまだおり2006年には450人以上が被害に遭ったといわれています。この数は、カンボジアの障害者全体の3.7%を占め、障害者の中ではごく一部ですが、カンボジアは地雷の被害で知られています。こういった方々にお話を聞いていると、私たちに何ができるのかと考えます。

(写真3)庭先の調理場でイスに座ってお菓子を作る女性。横に2歳ぐらいの子どもが立っている。
(写真4)広い田んぼの風景。田んぼの他には何もないが、かなり先に仏塔が見える。

この写真は手前に座っている難民を助ける会のスタッフが、奥にいる機械をさわっているポリオの後遺症をもつ方にインタビューをしているところです(写真5)。こういったインタビューを繰り返していくと、いろいろな話を聞くことができます。たとえば、大人になったのに自分でお金を稼ぐことができず、一人で動くこともできないと家族の邪魔になっているのではないかという心配。また、学校に通えなかったから字が読めない。今は親が支えてくれるけれども親が亡くなったらどのように生活していけばいいのか。自分は人一倍努力して能力も身につけたのに、障害があるという理由でばかにされている。自分に自信がもてない。こういった話をよく聞きます。

カンボジアの職業訓練の授業では、障害をもつ方のためにまずカンボジアの文字の読み書きと算数の勉強をしてもらっています。算数ができないと、自分でビジネスを始めてもおつりが数えられなくてだまされてしまうことがあるので、足し算、引き算から教えています。その後に職業技術訓練をします。

この写真はミシンでバッグの縫い方を勉強しているところです(写真6)。算数ができてカンボジア語の読み書きができて職業技術が身についても、それでもビジネスが成功するとは限りません。というのは、先ほどあったように、自分に自信がもてなかったり、他の人と話をするのが苦手な方も多くいるからです。自分に自信がもてない方のためには、たとえば生徒会を組織して、生徒たちが自分たちで自分の悩みを話し合ったり、あるテーマについて意見を交換し合ったり、学んだことをみんなの前で発表するといった活動もしています。あとはスポーツやレクリエーション活動なども行っています。

(写真5)メモを取るスタッフとインタビューに応える青年。
(写真6)ミシンで鞄を縫う少女。

職業訓練校に来ている、ある障害者の訓練生が話してくれました。彼はディスカッションの後でみんなの前で発表して、拍手をもらって感動したそうです。というのは、今まで学校にも 行ったことがなくて、他の人から拍手をもらうことなど一回もなかったのです。初めて認められてうれしかったと話してくれました。

職業訓練校を卒業した後は、このように自分の家の庭先で商売を始める方が多くいます(写真7)。技術をほめてくれるお客さんがいる。自分は障害があるけれども、役立たずではないと思うようになった卒業生もいます。          

この写真では車いすに乗った男性が豚にエサを与えています(写真8)。車いすを使えるようになってから豚の飼育が自分でできるようになった、トイレにも一人で行けるようになった、家族の重荷でなくなったような気がすると話してくれました。

(写真7)庭先でテレビを修理する男性。
(写真8)車いすに座っている男性がブタ小屋の柵の横からエサをあげている風景。

事業の「自立」を目指して

こういった職業訓練校や車いす工房をカンボジアでやってきて1992年から始めて13年が経過しました。始める時に難民を助ける会はこの事業は、誰のための、誰によるものがいいのか考えました。検討を重ねた結果、2006年10月までにカンボジアの人々に運営を手渡し、現地化させることになりました。

そのためには、2006年10月までに人材育成のトレーニング、組織のマネジメントの強化が必要でした。理事会とはどのようなものでどういった働きをするものか、人事については人の評価システムなどを伝えました。カンボジアで資金をどのようにして獲得していくかという資金確保の強化もしました。

2006年10月に日本のNGOから現地のNGOに登録を変えて、最後の駐在員であった私も帰国しました。

こういった取り組みはカンボジアだけではなく、ラオスやミャンマーでも行っています。ラオスの場合では、ラオスで活動する企業からスポンサーを募って資金を獲得するなどの努力をしています。ミャンマーの場合も同じで、市街地にお店をつくって、そこから収入を得ています。国の情勢から現地NGOにするのはちょっと無理な状況ですが、駐在員をおかないようにしていくなど、日本の関わりを減らしていっているところです。

事業の自立を目指した時に一番大切なことは、まずは優秀でやる気のある中心人物の確保です。この「優秀」というのは人によって評価が分かれるところですが、現地で資金を獲得していくためには、まず最低限の英語が話せたり、対外関係がうまくできるといった評価の仕方があると思います。そういった中心人物を確保することが大切で、一番難しいところだと思います。あとは、現地でどのように持続的に資金を確保していくかということです。

また、日本人駐在員は仲介者として現地の事業で役割を果たしています。しかし日本人が去ってカンボジアスタッフ同士でいさかいや問題があった時に、誰が仲介していくか、そういったことに耐え得る組織と意思の決定システムを構築しておくことも大切だと思います。

障害者支援の難しさ

海外で障害者の支援活動を行ってきて難しいと感じることがたくさんあります。一つは、効果があらわれるまでに長い時間がかることです。ドナーや支援者は1年単位で効果を求めることがあります。しかし、心のケアや自立支援は、1年ではできないことです。日本のNGOもそんなに資金力のあるところが多いわけではないので、長年関わっていくことができない場合もあります。日本のNGOで障害者支援の活動に関わる組織が少ないのは、こういったところも影響していると思います。

それから、受入国政府の優先順位が障害者支援活動に対して低いということです。どうしても経済開発が優先され、障害者は非生産的な存在だという考え方がまだ大きいので、障害者の支援活動、社会福祉に予算がつきません。立派な計画をたくさんつくっても、実際に予算がなくて実施できないのです。そうしているうちに計画が古くなってしまい、また新しい計画をつくることがよくあります。

あとは、先ほど述べましたが、事業の自立が難しい分野であることです。たとえば車いすの工房でも1台の車いすの値段が60ドル、70ドルかかります。平均収入が1日1~2ドル以下の方が大半を占めるカンボジアで、国の支援も海外からの支援もなければ、どうしたらその車いすを手に入れることができるでしょうか。

また、多くの国では、日本の障害者年金のように生活保障がない状況で、権利運動をしましょうと言っても、日々の生活に追われてそこまで手が回らないのです。

教訓と今後の課題

事業を実施する側としていえるのは、事業を開始する前から事業の自立に向けて計画をして、努力を続けていくことが大切だと思っています。現地の人に渡していくことを視野に入れた活動をしていくのです。特に少しでも現地で資金を獲得できるような斬新的なプログラムを考えていくことが大切で今後の課題だと思います。

支援をするドナーに期待することとして、障害者支援活動を海外でする時に大きなお金は実は必要ありません。日本のODAなどでは1年で何千万円というお金がつくこともありますが、それは使いきれなくて困ることがあります。1年間で5,000万円もらうよりも500万円を10年間継続していただくほうが、よほど効果のある事業ができると思います。

事業を実施する側としては、活動している国の政府に働きかけを強めたり、開発分野に関わる組織と連携をしていかねばならないと考えています。

最近非常に必要だと思うのは、ビジネスの分野との連携です。また、地雷関係でいえば国際地雷廃絶キャンペーンなどと連携をしていくと活動に広がりができていくと思います。「地雷被害者支援」というとお金が集まりやすく、「障害者支援」ではお金が集まりにくいという現実があります。地雷被害者支援にお金を出す側は、全員が地雷被害者でなくてもいいと言っていますので、それを利用して資金を獲得していく方法もあると思っています。

事業をしていると持続可能な事業に集中しがちで、障害者の方々の持続可能な生活という視点を忘れてしまいがちです。それはドナーも事業を実施する人々も同じだと思います。事業のための事業をするのではなくて、持続可能な生活を可能にするための持続可能な事業をしていくという視点を常にもっていることが大切で、私たちの教訓でもあります。

パワーポイントにある「日本、または自分がやりたいと思ったことをやらないこと」、という表現はちょっと語弊があるかもしれませんが、自分勝手なことをしないで、相手の話を忍耐強く耳を傾けていくことが大切だと思います。

この会場に学生の方々もたくさん来ていると思われます。どんなにいい事業があっても、最後に成功するかどうかは、そこに関わる担当者、駐在員次第だと思います。自分の経験からも言えますが、カンボジアで現地化する時には自分で行ったほうが現地の人に教えるよりも早く進みます。そこをいかに我慢して陰の存在となれるかが大切です。どんなプロジェクトも自分次第でいいものにもなれば、悪いものにもなるということを、これから海外で活動しようと思っている学生の方々には覚えておいていただきたいと思います。

ご清聴どうもありがとうございました。

 

沼田/どうもありがとうございました。活動をしていたら障害者に出会ったので障害者支援を始めたという、素朴なところから始まり、これは誰のための活動なのか、これで幸せになるのは誰なのか、そしてこれからどうしたらいいのかと考えていかれたということでした。そして「今後の教訓と期待」の部分では、現地で活動する私たちほとんど全員が遭遇する問題についてお話をいただきました。ありがとうございました。