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発表会 「精神障害の正しい理解と偏見の是正」

平成16年度厚生労働科学研究 障害保健福祉総合研究成果発表会

<基調講演>こころの病気が治るということ

佐藤 光源
東北福祉大学大学院 総合福祉学研究科 教授

浅野 それでは第2部の趣旨を含めて、佐藤光源教授から基調講演をお願いしたいと思います。佐藤光源先生のプロフィールについては、皆様方のお手元のパンフレットに詳しく記してございますので簡単にご紹介させていただきますが、1967年に岡山大学大学院を修了されて、ブリティッシュ・コロンビア大学に留学され、そのあと岡山大学に長くお勤めになりましたが、1986年に東北大学医学部の精神医学教室の教授としてお越しになりました。そして2001年に東北大学の退官と同時に、こちらの東北福祉大学大学院の教授としてお越しいただいております。たくさんの役職を歴任されておられますが、一番特記するべきことは佐藤先生が理事長をしておられたときに、日本精神神経学会が中心になりまして精神分裂病という呼称を統合失調症に変えた、そのときの責任者をやっておられた、そういうことがあって偏見の是正ということに大変強い意欲をもっておられる先生です。その他著書については、パンフレットをご参照ください。それでは、佐藤先生、よろしくお願いいたします。

佐藤 ただ今、ご紹介いただきました福祉大学の佐藤でございます。浅野先生にはご丁寧なご紹介をありがとうございました。この第2部では、先ほどご紹介ございましたように、心の科学ではなくて、人として精神障害の方々の生活を考えてみようというのが、その趣旨でございます。まず、私どもが心をどういうふうにとらえているか、あるいは1部でも問題になりましたけれども、心の病気というのは一体何なのかというあたりから少しお話をしてみたいと思います。このスライドは、先ほど松岡先生も出されましたけれども、2001年にWHOが、世界中で障害を抱えて苦しんでいる期間の長い病気について、15才から45才の間の方々を対象に調べたものであります。そうしますと、障害で苦しんでいる期間の長い病気のベストテンの中でこの4つが心の病気であり、13番目に痴呆性疾患がございます。この調査結果が出たのを機にWHOは、世界各国に心の健康というのは非常に大切だということで、世界的な運動を展開していこうということになりました。日本でも私たちは一昨年の2002年に横浜で世界精神医学会を開催しましたが、これほど心の問題が取り上げられた時代はなかったのではないかと思っております。

1.こころとこころの病気

 先ほど萩野学長からお話がありましたように、心とは何か、それにはいろいろなお考えがございます。しかし私は、これが「私」なんだという、私の体験世界だというふうに捉えています。それは生まれたとき以来、本当にもう一度繰り返したいと思っても繰り返すことができない奇跡的な生活の歴史であり、その中で刻み込まれた「私」なのだろうと思うのです。これが「私」、他の誰でもない「私」の世界。ですから、そうした心の本質というものは、薬や心理療法で変わるものではありません。修正はできるでしょうけれども、急に変えることは難しい。時間をかけながら自然に変わっていくのを待っているとやがて変わっていく、それが私の世界、心の世界だろうと思うんです。では、こころの病気にはどういうものがあるかといいますと、そういう精神的なことで日常生活に支障をきたしているかどうかが大切な基準になります。ですから極言すると、社会でうまく生活できている、社会参加ができているというようなときには病気とはよばないことになります。

2.こころの病気に2群がある

 精神的な理由で社会生活がうまくいかなくなるという場合、つまりこころの病気には2通りあると私は考えています。1群のこころの病気は、このスライドのように、脳に原因があって、それが心を介して症状となって表れる病気です。これにも2通りありまして、1つはアルツハイマー型痴呆のように脳に目に見えるような原因があるものです。もう1つは統合失調症や気分障害のように、脳の形にははっきりした変化がなく、脳の機能システムに不均衡があって、それが原因と思われるものがある。いずれも脳に起因するこころの病気で、精神疾患と呼んでいます。

 もう1群のこころの病気は、人と環境との相互作用で表れます。それには、児童、思春期、青年期から老年期に至るさまざまなライフステージにおいて、「私」とそれを取り巻く生活環境との相互作用として起こってくる。これは、たとえば適応障害や神経症といったものです。第1群の精神疾患、例えば統合失調症をもつ患者さんは、この第2群のこころの病気にも直面することになります。つまり、こころの病気を重ねてもつことも少なくありません。

 精神疾患そのものは、今では薬でずいぶん良くなるようになりました。しかし、病気をもった人、あるいは回復中の人として、その人と環境との間にさまざまな悩み事ができてくるのです。それには薬だけではだめで、心理社会的な介入が必要になります。たとえば、「あの人は統合失調症だったんだって」というようなことで、社会の側が壁をつくって社会参加を阻む。この偏見が新たなこころの病気を生むことになるのです。それを薬で治すことはできない。ですから、こころの病気を正しく理解して、誤解による偏見をなくさなくてはならない。

3. こころの病気の多軸診断

 心の病気というのは、中耳炎とか、あるいは胃炎とか、胃潰瘍とは違います。例えば中耳炎であれば、炎症が取れればもう治ったと言っていい。もちろん、こころの病気にも診断名がつきます。統合失調症とかうつ状態とかですね。しかし、こころの病気の場合には、病気だけを見ていたのでは病気を理解できませんし、治すこともできません。診断された病名だけでなく、その人の人格や知能といったコンスタントな精神機能はどうだろうか、こころの病気を起こしたり、影響したりする身体の病気はないか、あるいはその人が住んでいる生活環境に問題はないのか、そうしたことも十分に考えなくてはなりません。そして、こころの病気の治療のゴールは、その人の生活環境あるいは地域社会の中で日常生活を送れるようになることです。ですから、複雑といえばかなり複雑ですが、こころの病気を理解し、治療するには、人間全体を見なくてはなりません。

 このスライドが、先ほど萩野先生がおっしゃったアメリカ精神医学会の多軸診断法です。こころの病気、人格傾向と知能、身体の病気、環境、そして全般的な社会生活機能という5つの軸で評価して、それぞれについてケア プランを立てることになります。

 こころの病気が治ったかどうかの判断には、病気の症状が取れたかどうかということよりも、社会生活機能が回復したかどうかという視点が大切です。ある種の精神疾患の急性期の場合には---ほとんどが一過性なのですが---、重症のときは自殺を図るかもしれませんし、他人を傷つけるかもしれない。しかし、今日の薬物療法をすれば、そうした状態はよく治り、混乱した「私」の世界も通り過ぎてまとまりをみせ、社会生活機能を営めるようになるのです。こうして回復した人が、その人の生活環境の中で再び日常生活を営んでいくことになる。それが精神科でいう「治る」ということなのです。

 このように、精神科の医療は精神保健福祉と重なっており、つながっているのです。その人の精神疾患が改善され、社会生活機能が回復し、いかにして地域で質の高い、豊かな人生を営んでいくかが問われることになりますが、それには、精神医療と精神保健福祉との連携が必要です。

4.こころの病気が「治る」ということ

 こころの病気が「治る」というのはどういうことだろうかというのが今日のテーマですが、それは社会生活機能が「回復」することだと、私は考えています。従って、中耳炎のように炎症がとれて治ったというようには、簡単にはいきません。もちろん、脳に起因する精神疾患がある場合にその治療を優先するのは当然のことです。しかし、そちらを重視するあまり第2群のこころの病気の併発を見過ごしてはなりません。たとえば、数年に及ぶ長期入院のために廃用性に生活技能が失われたり、現実を吟味する力がなくなったりしては困ります。受け入れる家庭を失ったりしても困ります。それには、先ほどから言いますように、こころの病気を正しく理解して適切な治療を受け、社会生活機能を回復して社会に参加しなくてはなりません。その際、社会の側から回復者の社会参加を阻む因子を取り除かなくてはなりません。それには、とくに、誤解による偏見をなくする必要があります。

5.スティグマと偏見・差別の是正

 スティグマや偏見は長い歴史の上に築かれたものですが、その多くは誤解によるものなんです。だから、この誤解を直さないといけない。

 今日の、午前中の1部でお話があったように、精神医学や脳科学は最近、随分と進歩しました。心の舞台装置である脳は、その形も機能も鮮明に目で見えるようになりました。私が精神科医になったのは今から40年余り前のことですが、当時はもう脳の中は本当にブラックボックスであって、生きている人の脳のことなんかほとんど分かっていなかった。ところが、この四半世紀に、解剖して見ているように、生きた人の脳がMRIやPETで鮮明に見えるようになってきた。形の異常はすぐに分かりますから、脳腫瘍や脳出血なんか簡単に診断できるようになりましたし、1部での川島先生のお話のように、喜んだり悲しんだりしたときに脳のどこが働いているのかということまで分かるようになってきた。さらに、脳の神経伝達系も明らかにされ、どこにどのように薬が効くのかということも分かってきた。たとえばドーパミンD2受容体を何パーセント占拠すると症状が改善するのか、あるいは何パーセントを越えて占拠すると副作用がでるのかといったことまで分かってきた。このように、精神疾患や脳の働きについて多くのことが解明されてきました。

 第1群の病気、たとえば統合失調症や気分障害のように、脳に起因して心を介して現れる病気の仕組みも随分明らかになってきました。これは1部でお話があった通りですね。それから、その症状を改善するのに副作用の少ない新薬ができた。統合失調症を治す新世代の抗精神病薬やSSRIやSNRIといった新規抗うつ薬が処方できるようになってきた。これは大きな進歩であります。不治の病とされて隔離収容主義で処遇されていた昔に比べると見違えるような現状にあり、今では地域にいながら通院して治療していくということが可能になった。これはやはり、病気の仕組みが分かり、その適切な理解が進み、そして新しい薬が活用され、副作用がとれて心理社会的な介入がうまくいきだした。それには、やはり精神医学の進歩が大きく貢献したことは疑いがありません。不治の病が回復可能な病になったのです。入院中心の医療から地域生活中心のケアに大きく軸足を移した厚生労働省の改革ビジョンが可能になったのも、こうした精神医学の進歩があったからがと思います。

 うつ病や統合失調症のときには前頭葉の血流が低下しているとか、あるいは覚醒剤を常用して精神病が起こるようになりますと、このスライドのようにドーパミントランスポーターが減少するとか、さまざまな病気の理解も進んできました。そうして、先ほど浅野先生が触れましたが、精神分裂病への理解も変わり、病名も変わりました。こうした精神医学の進歩を一般市民の皆様に紹介して、こころの病気の正しい理解を深めていただき、回復者の社会参加を阻害するスティグマと偏見・差別をとっていただきたいと思います。

6.精神分裂病から統合失調症への病名の変更

 今、統合失調症という診断名になった精神疾患のイメージは大きく変わりました。昔は、といっても四半世紀ぐらい前もそうでしたが、精神分裂病という病気には「精神が分裂してしまう病」という、その用語自体のもつ人格否定的な響きがありました。それに加えて、医学的な定義にも問題がありました。精神分裂病という病気は原因が不明で、青年期に発病して進行し、やがて人格が荒廃してしまう予後の悪い病気だという、患者さんやご家族にとっては夢も希望もない定義だったのです。ところが、1部の松岡先生のお話のように、精神医学が進歩して長期予後が明らかになりました。そして、さまざまな経過や予後をたどる、単一の異常遺伝子では説明できないといったことから多因子疾患だとおっしゃいましたが、確かにそのとおりで、この病気は1つの症状群だということがはっきりしたのです。特有の症状群が表れる病気で、そうした精神病エピソードを生じやすい脳の発症脆弱性と心理社会的なストレスとの相互作用で起こる病気だということも分かりました。とくに回復可能な病気だということが分かった、これが大きかったですね。だから、昔の精神分裂病というのは、治療法がない、回復しない、人格がだめになる予後の悪い病気というコンセプトだった。それが今では、治療が可能、治療法が確立された、回復可能で、地域生活が可能になったというコンセプトになった。この変化を端的に表すためもあって、日本精神神経学会は精神分裂病から統合失調症へ病名を変えたのです。

 では“回復”あるいは障害が“軽度”という言葉は何かといいますと、回復というのは病前の社会生活ができて、家族がもはや病気と思っていない、こう判断される状態が回復です。それから軽度というのは、症状は少しある、眠れないとか、落ち込むとか、不安だとか。しかしながら、その人の人格は保たれているし、生活能力も保たれている。診断されてから20年以上経過したときの調査では、こういう回復、軽度と判定された人が過半数を占めていたのです。それは、この病気が、決して予後不良なものではないことを示しています。もちろん19パーセント未満は非常に重症な方もいました。それは、ここ25年に開発された新しい薬で、あるいは最新の心理社会的ケアで、適切に早期に治療されていなかった結果なのかもしれません。

 40年余り前の、あの暗い拘束が問題になった精神病院から、今では私でも疲れたら行って休もうかというくらいの治療環境の精神科病院ができています。このスライドは石巻市のこだまホスピタルですけれども、こういうふうです。そして、くり返しになりますが、WHOが2001年に全世界に向けてヘルスレポートを出しました。それには、「早期に適切な薬物療法、あるいは最新の心理社会的なケアを受ければ、約半数は完全かつ長期的な回復を期待できる」、そう謳っているのです。これほどに統合失調症の治療は進歩したのですが、残念ながら、回復した人や生活障害を残した人がその人を取り巻いている生活環境との相互作用の中で直面している困難への理解はなかなか深まらない。彼らを受け入れる側の、社会の偏見が社会参加を妨げ、再発や症状の回復を阻害している。それを私たちは第2の病と我々は呼んでいますが、それが問題なのです。

 回復した人がやっと病気を克服して社会へ出ようとする、そのときに、「あの人は精神病だったんだって」という、1度診断されたら完全に回復しているのに生涯病人のように見なされる。世の中の意識は、まだまだ精神疾患は不治の病にとどまっている。「あの人はおかしい人だったんだって」「親戚から、絶縁された」とか、復職を断られたりする。これを何とかしないとどうしようもない。

 精神分裂病から統合失調症に診断名を変えたのは、一昨年の8月のことでした。本大学大学院生の調査によると、この新病名は去年の3月、つまり変更して半年後に全国ですでに診断書の病名に8割近く記載されているが分かりました。いかに多くの人が、精神分裂病という病名に抵抗を感じていたかを物語っています。

 では、この病名になってから何が変わったか。これは宮城県の精神科医会の方々に去年アンケート調査を行った結果です。まず、患者さんに病名を伝えることができるようになった。そして、家族にも新しい病名を使っている。以前は、診断しても精神分裂病とは伝えられないでいた。それが今では、どのような病気なのか、どうやって治療するのか、治るとはどういうことかといった説明ができるようになったということです。つまり、患者さんやご家族との間で“分かり合った治療”ができるようになったということでした。そして、新しい病名に変更したことが、医療や精神保健福祉に有効だと判断している精神科医が大半を占めていました。

 ところが、一般市民の間にある精神疾患へのスティグマは、やはりまだ根強くみられています。これは日本精神衛生会が行った調査で、一般住民を対象に精神障害をどのようにとらえているのか調査しています。今日のような講演会の聴衆に、精神障害者への差別があるかと尋ねていますが、過半数があると答えている。少しはあると答えた人を含めると大多数がやはり精神障害者への差別はあるとしています。どのような差別があるかという調査では、復職できない、兄弟の結婚に影響がある。作業所の開設に反対された。他科での治療が困難だった。例えば、病歴にそういう統合失調症で入院歴があるというと、症状も何もないのに精神科の病棟に入院してもらって、外科へきて手術してもらうといわれた、アパート契約を破棄された、兄弟の就職に影響するといわれた、などの答えが返っている。別の患者家族の方の調査では、「親戚から適齢期の娘がいるので、しばらく縁を切っておいてほしい」というのもある。精神障害者は「何をするか分からず怖い」という印象は、日本精神衛生会の会員ですら5パーセントがもっている。もちろん、一般市民の43パーセントに比べると少ないですね。公務員も一般市民と同様です。このように、こころの病気が今では治せる時代になっているのに、回復して社会に出ようとする人を社会の側が拒むという深刻な状況があります。回復した人と環境の間に、偏見に関連した葛藤やフラストレーションを生じていることに光をあてるべきで、それはもはや統合失調症による悩みではないのです。人としての生きる上での悩みなのです。

 第2群のこころの病気を回復するには、やはり時を待つのが本当に大切なことでありますし、薬をのみながら時を待つことも大切です。

 また、いずれにしても、こころの病気を適切に理解して十分なケアをするためには、遺伝か環境なのかとか、あるいは脳か心か、医療か福祉か、薬物療法なのか心理社会的なケアなのかという、「か」の対立の構造をやめないといけないですね。精神疾患は脳の疾患なので、そこだけ治せばいいなんて精神科医はいないと思います。とくに回復期や安定期には心理社会的なケアがより大切になることも分かっています。ですから、医療と福祉は手を組む必要がある。福祉のケアが医療サービスを拒んだり、否定したりするようなことも、もちろん、あってはならないことです。それぞれの職域が自分だけが天下のように思い違いをしては困る、ということです。

 心の病気が治るということは、病気を治して社会生活機能を回復することでありますから、こころの病気を正しく理解して、早期に適切な治療を行うことと、誤解による世間の偏見を打破し、回復した障害者の自立を支援していかなくてはならない。そのことが一番大切だ、というのが私の言いたかったことであります。ご静聴ありがとうございました。

浅野 どうもありがとうございました。心の病が治るということは一体どういうことかというお話を特に統合失調症を中心にお話していただきました。精神分裂病から統合失調症に呼称が変わることで、医療者の態度が随分変わりつつあるようですが、まだまだ社会の側の受け入れは進んでいないということで、これから課題が残されているというご指摘をいただきました。せっかくの機会ですのでよろしいでしょうか。会場の皆さんの中で、ご質問がございましたら、手を挙げていただければお受けいたします。マイクをどなたか回していただけますか。

質問者 僕がちょっと知りたいのは、大学病院に入院していたときに、佐藤教授にも教授回診で何回か診てもらった当事者なんですが、完全寛解(かんかい)というのがはっきり分からないんですよ。完全寛解というのは、自分の認識では最低でも10年ぐらい薬を飲みながら仕事を続けられる人。僕は今8年ぐらい大学病院に入院していないんですけど、薬はずっと飲んでいるんですね。だから、そこが10年なのか、5年なのかとか、15年なのかとか、完全寛解でも薬を飲みながら仕事をしている人でも、それも完全寛解といえるし、薬を飲まないでもいいところまで治って働いている人も、それが一番いい完全寛解だと思うんですけれども。僕の認識ではそういう感じの完全寛解なんですけれども、佐藤教授のほうから、その完全寛解のことについてご説明いただきたいと思うんですけど、よろしくお願いします。

佐藤 はい。実はそれを言いたくて、今日お話をしたようなことなのです。寛解という言葉は、医学用語なんですね。いつ再発するか分からない状態というのは、まだ完全に治ったといえない。折り合っているだけだというのが寛解という意味なのです。ですけれども、そういう考えにずっと固執していると、問題がでてくる。例えば20代で病気になって、3カ月ぐらい入院して治ったとします。しかし、薬をやめたらいつ再発するかもしれないからというので、寛解であって治癒ではないという考えに固執していると、その人は完全に回復して数年になるのにやはり病人とみなされますし、再発しやすさは一生消えないとするとその人は生涯、病人ということになる。ですから、私は寛解、不完全寛解といった医学用語は医者に任せておいて、生活機能が回復したら治ったとみなし、自尊心をもって社会参加していく生活モデルの方が実践的だろうと思っています。少し薬を飲んでいれば再発はかなり防げる。薬を飲んでいるのは回復した人が再発を防ぐためなのであって、回復したことに変わりはない。生活機能がリカバーすれば、回復した、治ったと思っていい。それがこころの病気が「治る」ということだと今日お話したかったわけです。いいでしょうか。

司会 先ほど、前のほうで手を挙げておられた方。マイクを前にお願いします。

質問者 貴重な講演を大変感銘深く聴きました。私が今から申し上げる質問は、ともすると、私に対する誤解を生みかねないと思うので、最初にお断りさせていただきたいのですけれども、私は今ご講演されたお考えには、ほとんど全面的に賛成な者でございます。ですから、まず統合失調症とかというのは、いま言った意味で、寛解といいますか、多少の薬を使いながら生活機能が回復しうる病気というか、心の調子の悪さなんだという認識を広めていくべきだと。私にも統合失調症の友達がおりまして付き合っております。ですから、私自身、その偏見と闘いたいのですけれども、よく言われるというか、ここのところの偏見を正さないことには根絶できないんだというところがありますので、そこのところをあえてどのように説明したらいいかということのサジェスチョンをいただきたいというところをちょっとお聞きしたいんです。結局、どうして世の中の人たちが、そういう昔分裂病といわれ、いま統合失調症といわれている人たちに、怖さといいますか、近づきがたさというか、一種の距離を置きたがるというところがあるというか、何か凶暴なんじゃないかとか、要するに例えば小学校に乱入していって十何人殺したとか、そういう新聞報道とかありますよね。そういうのが精神鑑定とかすぐ言われて、要するにそういうところのイメージと統合失調症みたいなのが安易に誤解された形で、テレビとか新聞とかでも適切な解説がつけられないままに誤解を増長するような形でマスコミに報道されているという側面もあるんじゃないかと思うんです。ですから、そこのところに関して、私たちのような市民が統合失調症というのは、そうはいっても怖い病気なんじゃないのというふうに、あなた怖くないのかと言われたときに、どういうふうに反論したらいいのかということを教えていただきたいのですけれども。

佐藤 1つは、なぜこういう偏見、スティグマが生まれたのかということ。これはたくさん要因がありますが、ここでは3つだけ言いたいと思います。1つは、精神分裂病という呼び方が悪い、呼称の問題があります。それから不治の病という昔の医学モデルの考え方というか、医学概念の問題があった。それから2番目は、昔は治療法がなかった。だけど、今は薬もあるし、心理社会的な介入もある。そういう治療手段、治療が昔はなかったというのが2つ目。3つ目は、そのために社会防衛的な意味で長期にわたって隔離収容するしかなかった。これは治療法がなかったことの裏返しですけれども、そうした処遇がスティグマを生んだ。しかし、今は治療で治り、地域にいて生活することが可能になってきた。そこのところの医学の進歩というのを皆さんに知っていただくこと、正しく理解し偏見を是正することがその解決法の1つ。もう1つは、例えばいま現実にある偏見をどうしたら解決できるのかということ。これはこのあとのシンポジウムで、西尾先生の話に出てきますので、そこで議論していただけたらと思います。

浅野 ありがとうございました。実はまだ手が挙がっているのですが、ちょっと予定の時刻を回っておりますので、このあと、シンポジウムでもまたご質疑をお受けいたしますので、ひとまずここは閉じさせていただきます。先生、どうもありがとうございました。

佐藤 どうもありがとうございました。