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障害者放送協議会 放送・通信バリアフリーセミナー
障害者と放送・通信

第2部 
講演4 障害者の描写に関する米国の現状

ケニー・フリース
ゴダード大学大学院クリエイティブ・ライティング教授
(監訳:寺島 彰)

「われわれは(多数を占める)健常者の成長と、障害に関して人生で学んだ教訓の間で失われた影の精神であった。」

1988 年、聴覚障害者の学校であるワシントンDC のGallaudet 大学でのこと。理事会で多数を示す非聴覚障害者が、学長候補者の有資格聴覚障害者教員2 名の選任を拒否した。その際、もう一人の学長候補者であり非障害者、学生自治会会長でもあったGreg Hilbok がこう問いかけた:「学長に必要な資格は誰が決めたのですか?」また歴史家Paul K. Longmore も同様の疑問を投げかけている:「障害者とは誰なのかを定義する権限、また障害者のニーズは何かを判断する権限は、誰にあるべきなのか。」

有史以来障害者はじろじろ見られてきた。そして今、米国で障害文化が芽吹こうとしているときに、従来にない形式の文学において、時には悲惨なまでに滑稽に、そして時には挑発的なまでに鋭く、障害を持つ作家たちが世の中に対して、自分たちも「じろじろ見返すよ」と警告を発している。それにより自らの生き方を肯定している。

歴史を通じて障害を抱えて生きる人たちは、凝視と健常者のニーズにより定義される存在であった。障害を抱えて生きる人は施設に隔離され、実験の対象とされるのが茶飯事で、ひどいときには抹殺されることさえあった。私たち障害者は、障害者の言い分を聞きたくない人々により沈黙を強いられてきた。障害者はまた自らの恐怖、すなわち、われわれの話しをしたところで、「(障害者は)生きている価値がない。死んだほうが幸せになれるよ。」と言われる恐怖から口を閉ざしてきた。

1989 年私は、自らの経験を語るための言葉を捜し始めた。私の障害は「先天性下肢奇形」(一つの表現としては、両脚の骨がない)という一般的名称以外に、医学的名称を有しない先天性身体障害である。1989年夏、そのための言語を捜し、イメージを発掘し、これまで本で読んだこともない経験を表現する様式を形にすべく、第一歩を踏み出した。それにより障害者としての自分の経験が他人にも意味を持つようにしたかったのである。その夏のことで記憶に残っていることといえば、原稿が詩趣に富むとは思えず、すべての原稿を投げ捨ててしまいたいと思ったことである。お手本となるロールモデルも見つからず、障害者としての自分は何者なのかも判然とせず、Carol Gill が言うところの「影の精神」の一人であった。ページ上では、自分が経験した健常者の世界と、同じ世界で自らが障害者であったという経験を融合することがままならなかった。

私は怖くもあった。Anne Finger がほぼ同時期に、自らの著作Past Due に、障害、妊娠及び誕生の話として書いていた恐怖を、私も感じていた。その中でFinger はフェミニスト会議での自らの経験を取り上げ、幼少の頃、ポリオの合併症のゆえに病院で非人道的処遇を受けたことを会議で発言したときのことを語っている。Fingerがこうした体験を語ったところ、ある出席者がこう言ったというのである:「あなたがわが子であったら、そんな事態になる前にあなたを殺し、自分も自殺しただろう。」と。

Finger はこれへの反応として次のように語っている:「自分の心臓が止まりました。私は生きていてはいけない、と言われたわけですから。昔の恐怖がよみがえりました。自分のつらさを口にすると、人は、《ほら、障害者は生きるに値しないのよ。死んだほうが幸せなんだから》と言われた恐怖です」。

これがFinger の経験に対するある友人の反応だった。私を知らない人は別として、私の友人なら、私の言い分になんと反応しただろうか。また友人たちに私のこれまでの経験を話したとしても、障害を抱えて生きることは、単なる痛みのほかに、かくも多くの意味があることをどうすればわかってもらえるだろうか。

「古いモラル・医学モデルにより障害者とはこういう人達だという言い方が、何世代にもわたって支配的だった。かぎ爪、棒義足、眼帯などを登場人物に加えることにより、正義対悪を描くことは極めて簡単である。脚本家の入門書では実際に作家志望者への指針として、悪漢は片足や、片足切断者とするのがよい、と書かれている。医学モデルによる描写では、困難を克服し、障害が治癒するという人気のパターンが、従来のドラマの構造では抗しがたく使用されてきた。また医学モデルは米国の最も強力な神話、無一文の人物が自力でのし上がっていく格好の宣伝材料になる。われわれアメリカ人は登場人物が歴史や経済の力の枠外に存在することを好み、簡単に手を加えてハッピーエンドになるようにし、登場人物が障害者なら、足の不自由な陽気な奴が、意志の力だけであらゆる障害を乗り越えるという風に、変えてしまうのが好みである。」 (Vicky Lewis)

現代アジア系アメリカ人によるフィクション集Charlie Chan is Dead を編集した Jessica Hagedorn は、米国のポップカルチャーに深く根ざしているステレオタイプと言う下劣な遺産をリストアップしている。リストにあがっているのは、Fu Manchu, Stepin Fetchit, Sambo, Aunt Jemima, Amos’n Andy, Speedy Gonzalez, Tonto, Little Brown Brother である。アジア系アメリカ人にまつわるステレオタイプは、今や、「欲張りでずる賢い日本人ビジネスマン、究極のオタクで、勉強に取り付かれ、数学やコンピュータ科学に優れた典型的なアジア系アメリカ人学生」のような微妙な形へと進化している。

われわれ障害を抱えて生きる者は、自分たちもこれらと同様の描写をされているのを目の当たりにしてきた。Leonard Kriegel が自らのエッセー「The Wolf in the Pit of the Zoo」で指摘しているとおり、「障害のイメージは常に欧米の神話及び文学では重要であった。恐らくどこの文化においても、身体的ハンディは道徳上の罪に結びつけられている。(障害者に)スティグマを着せるのは恐らく先史以来の慣行であろう。Kriegel の目から見れば、「古典的世界では、肢体不自由者は他者(Hephaestus:ギリシャ神話の火の神)」によって定義され、人は自らの不謹慎(Oedipus)により定義される。古代人は、寝取られ男としての肢体不自由者とのバランスを取るため、「常人」が是とする枠組みを超える肢体不自由者を生み出した。

Hagedorn の発言と極めて似た言葉でKriegel は、「数世代にわたって黒人達は自分の生活が、Butterfly McQueen やStepin Fetchit に見られる滑稽なまでの媚びへつらいで描かれるのを目にしてきた。イメージというものは極めて広く行き渡ると、その結果はイメージが引き起こすモラル的判断のうねりに飲み込まれてしまう。」

欧米の文化では障害者の描写にも同じことが言える。(シェークスピアのリチャード三世、メルビルのエイハブ船長、メアリー・シェリーのドクターフランケンシュタインのモンスター、ジェームズ・ボンドシリーズの悪漢、「悪魔のような肢体ピーターパンのフック船長など)不自由者」は、「単に身体的不自由者ではなく、もっとも深遠な精神的意味において不自由者なのである。当人の自我は障害の内部に包含されている。」

英国の障害を持つ写真家で障害の理論家でもあるDavid Hevey は次のように指摘している。「こうした話が展開するにつれ、アンチヒーローの限られた、半人間的意識が、自己嫌悪という割れた鏡を通してその悲劇的姿を垣間見る。彼らは皆怒りを胸に生きており、自己喪失感の痛みに苛まれ、やがてその自己破壊的な怒りが世間を相手に爆発する。」

悪魔のような肢体不自由者は恐怖感を与える。悪魔のような肢体不自由者とは精神的に対極にある「慈悲対象肢体不自由者」(ディケンズのTiny Tim、メルビルのBlack Guineau)は、Kriegel に言わせれば、読み手の心に、その善良さの幻想を植え付けてしまう。かかる登場人物は、「罪悪感を軽減するがゆえに魅力がある。慈悲対象肢体不自由者はテレソン(慈善などの寄付集めの長時間テレビ番組)で毎度おなじみであるが、哀れみを誘う。」Kriegel はまた、悪魔のような肢体不自由者も慈悲対象肢体不自由者もともに、障害者の外部から障害者を規定するものだと指摘している。片方は文化の持つ恐怖とタブーを映し出し、他方は情緒性と憧れを反映している。

米国の南北戦争が始まったことと、欧米社会における工業化の進展により生み出された非障害者に合わせた機械と製造ラインのスピードアップへの要求が、障害を抱えて生きる人たちの増加につながった。実際、“障害を個人の悲劇として医学的に障害を捉える”という議論からの脱却を訴える理論を提唱した最初の社会科学者で、自らも障害者であるVictor Finkelstein は、「(しかるべき処遇に)値しない貧者」(健常だが、就労しない者)に相対する、「値する貧者」という階級に障害者が初めて区分されるようになったのは、工業化によるものだと説得力のある論を展開している。また、社会が収容所、病院、障害者のための学校を設立して、Heveyが言うところの「時は金なり基準」からはじき出された障害者を収容したため、こうした隔離は文字通りのものとなった。

Finkelstein 及びHevey は、障害者と社会の関係が相互依存という矛盾に陥ったのはこの段階であったと指摘する。すなわち、障害者は、ケアもしくは治療を仕事とする「障害専門ワーカー」または「障害専門家」に依存し、施設やその従業員は自分たちを頼りにしている人たちに著しく依存するという矛盾である。

しかし工業化以降、William Dean Howells などの現実主義の作家が登場しても、米国人は文学に触発されて障害者の現実の生活に目を向けることはなかった。また19 世紀が終わりを告げても、こうした新しい社会的関係が米国の小説で取り上げられることも、舞台で取り上げられることもなかった。

1930 年代及び1940 年代になってようやく、米国の作家の態度に変化が見られるようになった。しかしここでもKriegel が指摘するように、障害者の生活をつぶさに観察して描写するのではなく、Nathaniel West, Dalton Trumbo, Nelson Algren, Carson McCullers などの作家による作品では、障害者の描き方は依然としておどろおどろしかったが、「内部者によって生まれた社会に対する疑念を深める作家たちの外部者としての価値を、ますます反映するようになった」。換言すれば、障害を抱えて生きることの現実は描かれていないが、障害が、軽視され誤解されている社会的被除外者の代役または比ゆとして使われるようになった。

Kriegel は「The Wolf in the Pit of the Zoo」の最後で、「どう見ても主役ではない」ソール・ベローのThe Adventures of Augie March に登場するWilliam Einhorn に触れている。Kriegel は、Einhorn の中に、文学上別の範疇の障害者を見た。すなわち、「自分が依存している相手よりも強い」生存者としての肢体不自由者である。「Einhornは肢体不自由者にとどまらないだろう。彼の心は、その状態にとどまれない」とベローは書いている。「生存者としての肢体不自由者」のイメージは、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, FDR) である。障害を乗り越え、障害にも関わらず成功を収める障害者のイメージを誰よりも強く印象付けたと言って良い。こうしたFDR のイメージにより、障害の医学モデルがわれわれの心に強く刻まれた。このモデルでは障害は、損傷(impairment) とこの損傷に個人がどう対処するかにより定義される。これに対して、より新しい考え方では、障害とは、ある文化における生活において障害者の完全参加を許さない社会構造により定義される一つのカテゴリーとみなされる。

大半の人にとってFDR は、長年にわたり自らの障害の本当の姿を隠し通した故に、障害を克服できたとみなされている。しかし作家兼ニュース記者であり、自身も車椅子使用者であったJohn Hockenberry にとっては、「FDRは生涯、車椅子姿を写真に撮られることを許さず、記者団との間で松葉杖姿は全体に見せないという約束をしていた、自己嫌悪者の最たるものであった。」

Hockenberry はまた、次のようにも指摘している。「仮にFDR が車椅子のキャスター上げをしたり、ホワイトハウスのベッドから上手に移動することができたとしても、そうした情報はマヤ族の方言やインカの買い物リストと同様、肢体不自由者の世界には届かなかったであろう。」今日に至るまで、ワシントンDC のモール(訳注:市内の大きな公園)に立つFDR の記念碑の最初のデザインでは最初から車椅子姿の当人を見せないという決定がなされたことからも明らかなように、歴史の詳細は「ゴミとともに葬り去られ」、障害者にも健常者にも、情報は握りつぶされたのである。

こうした障害の医学モデルにより生じたダメージは相当なものである。個人の障害を克服する能力で障害が定義されるならば、克服できない人物は落伍者とみなされる。肉体の外部、損傷以外または、自身の外に存する力は(障壁が金銭的なものであれ、物理的なものであれ、差別によるものであれ)、多くの場合敵対的な社会であり、それと障害者がうまく渡り合っていくことが重要であると見るのではなく、差異を治療し完全に無くすることを究極の目的とするこうした障害観は、身体の損傷が克服できない場合、個人に問題を全面的に帰してしまうことになる。

歴史家Paul K. Longmore はFinkelstein に呼応して、こうした医学モデルは、また、「不当に高い製品やサービスの販売業者、健常者の真似をせよと障害者を訓練し、耳の聞こえる者の真似をせよと聴覚障害者をしごく治療家、障害者を施設に閉じ込めて膨大な利益を上げている介護ホーム産業」を含む利害関係者の経済的利益をもたらすものとなる、と指摘している。このモデルでは、障害を有する「治療不能」な階層の人達が作り出され、彼らは「隔離された経済社会システムに幽閉され、子供のような社会経済的依存状態に置かれる」。

しかも、それだけではない。障害者を定義するに当たって、当人が身体的に何をなし得るか、生産性がどの程度かで判断するならば、物理的コストは大きなものとなる。唯一妥当と思われる選択肢が、殺すか治療するかという障害を完全に無くすという選択肢ならば、社会が障害者の生活をいかに軽んじているか、うかがい知れようというものである。

障害経験は単に肉体の損傷のみに起因するものでないことは、障害の定義が社会ごとに大きく異なることからも明らかである。ある社会で障害とみなされること、例えば内反足や偏平足は、他の社会では障害とはみなされない。またわが国の文化で以前障害とみなされたものが、今日ではもはや障害とみなされない例もある。眼鏡が登場する以前の視力の弱い状態を考えてみよう。例えば、文字が登場する以前の農耕社会では、活字や交通信号を見るための視力の良さは必要性がなかったし、他で補うことができた。

1997 年、私は自分の母校であるBrandeis 大学での講義に出向く途中、自分が大学入学した当時にはなかったスロープがあるのに気づいた。そのスロープは私の卒業した1981 年にもなかった。然るに1997 年に出向いたとき、嬉しい驚きと言うべきか、スロープが設置されており、建物へのアクセスができ、階段を登れない者も非障害者になれたのである。

ところが建物の内部に入ったとたん、私が行こうとしている教室は長い階段の下にあることに気づいた。建物にエレベーターはない。指定された教室に行く道は他になく、階段の上から見えるドアのみが入り口である。外部のスロープはあたかも消失し、階段を使用できないものは再度障害者になるのである。

こうした観点から見ると、改革すべきは物理的な、そして態度面での障壁であって、われわれ(障害者)の損傷でも肉体でもないのである。これまで何人もの障害者に、より大きな困難点は障害自体なのか、行く手に立ちはだかる差別的障壁なのかと尋ねたことがある。答えは圧倒的に後者であった。

障害を有する人達の経験から見て、世の中を動き回るには無数の様々な、効果的な方法があることは間違いない。しかし古いモデルはなかなか消滅しない。この世界での生き方を概念化する方法があまた存在すること、更にはわれわれの内部に世界が存在する方法が多数存在すること概念として示す文学は、幸いにして現在の政治または社会の論調の示すところに屈してもいないし、屈すべきでもない。

Staring Back:The Disability Experience From the Inside Out (訳注:著書名)のために私が収集した作品には、障害の見方としての社会モデルを明らかに標榜する文学が含まれるが、そうした作品にも私たちの内面に入り込んでいるモラル・医学モデルの痕跡が見られる。日常生活において私たちはこうしたモデルに反対するのと同程度に、内面においてもこのように考えてしまう習慣に抗したい。

私が障害経験を書いた最初の詩は、最終的にAnesthesia(1990 年、The Avocado Pressから出版)になったが、この詩を書いて間もなく、内側から外に向けて障害経験を語る障害文化が必要との認識に至った。障害を有する人間として,痛みは生活のごく一部であることを示す作業が必要であった。また、FDR やマチス(Henri Matisse) などのアイコンと言うべき人物の障害、ヘレン・ケラーやフリダ・カーロ(Frida Kahlo) などの生き方、スティーブン・ホーキングの作品を再検討する必要があった。「治療」の意味するところを再定義し、隠れた障害を理解し、異文化にまたがるアイデンティティの定義を拡大する必要があった。更に、車椅子の現実と象徴性を再度検討する必要があった。話し、聞き、見、そして読むための別の方法に慣れる必要もあった。我々は、異なる別の世界をとかく想定しがちであるが、人間は誰でも一つの世界の一部をなしていることを認識せねばならなかった。

障害者に対する抑圧と差別と、従来から軽んじられてきたグループに対する抑圧と差別とを区別するのは、簡単な例を挙げれば、浴槽に滑り込むことやウィルス性疾患である。誰でも我々障害者の仲間になり得るということである。実際人生のどこかの時点で、遅かれ早かれ誰もが短期か長期かを問わず、障害者になるのである。こうした事実のために、障害を抱えた私たちは、恐怖の目で見られるということは、理不尽ではあるものの、非常に理解しやすいであろう。障害を有する私たちが受け入れないまでも理解できる点が一つあるとすれば、それは変化(への恐怖)である。究極のところ私たち障害者は、万人の運命である死の必然性を想起させる有りがたくない存在として、扱われることが多い。

「単に誇りを宣言するにとどまらず、ろう者及び障害者はろうや障害という経験の内部に由来する代替的諸価値を発見し考案してきた。大切と考えるものは、自足ではなく自己決定、独立ではなく相互依存、機能面からの区分ではなく人のつながり、身体的自立ではなく人のコミュニティである、と彼らは宣言している。」---Paul Longmore

私が障害を抱えて生きる自らの生活について執筆を始めたのは1989 年であったが、それ以降米国では色んなことがあった。1968年に建築物バリアー法(Architectural Barriers Act)に始まった流れは、1973年リハビリテーション法の504 条(P.L.94-162)を経て、米国障害者法(ADA) が議会を通過し、署名されて法律となるという形でピークに達した。この法律は当時としては1964 年公民権法以来の最も包括的に市民の権利を謳った法律と呼ばれた。歴史家Paul Longmore の指摘するとおり、ADAの通過を経て、「市民権、アクセスの平等、機会の平等、そしてインクルージョンへの探求」は今も続いているが、われわれは第二の段階へと移った。これをPaul Longmore は「集団的アイデンティティへの探求」と定義付け、そこでは、「障害文化を探索し創造することが任務である」と言っている。

多くの点で私の作業はまさにこの探求を反映したものである。1994年、ロサンゼルスのMark Taper Forum で、Other Voices のディレクターVicki Lewis が開催した歴史的イベント”A Contemporary Chataqua: Disability and Performance ( 現代のチャタクァ:障害とパフォーマンス) に招待され参加した。あの4 月の週末には、障害を有する傑出した芸術家が全米から集まり、演奏し、読み、教え、学習し、語り、知り合いになった。われわれには提供できる貴重なものがあるということは、教室が満員になり、演奏チケットが売り切れたことや、CNN や公共テレビのカメラクルーが集まったことのみではなく、参加者の多くが末永くお互いを高め合う関係を作り上げたことからも証明された。

ロサンゼルスを離れる時に私は、その週末に出会った文章が、最終的に、1997年にPlume社で私が編集に当たった障害を有する作家の選集Staring Back の中核部分になるとは思わなかった。また作品を書き続けることで、後の私の著作The History of My Shoes and the Evolution of Darwin’s Theory の中でダーウィンの進化論を検証することになろうとは思わなかったし、自分の作品がきっかけでこの日本に来ることになるとも予想もしなかった。ましてや、米国の連邦裁判所並びに最高裁が、ADAによる障害の定義を狭く解釈することにより、同法に盛り込まれた議会の意図を再定義し続けることになろうとは、思っていなかった。明らかに障害の医学モデルは、障害を除去または治療すべき損傷と見るものであり、障害者の生活の何たるかを甚だしく誤解したモデルであるが、こうしたモデルこそが法廷の考え方の根幹にある。(こうした法曹界の誤解に関しては、Ruth O’Brien のCrippled Justice を一読されたい。)

こうした状況下で、障害文化の役割は、われわれの当面の作業にとってきわめて重要である。障害者と非障害者双方に語りかけることのできる障害文化は恐らく、われわれ障害を持つものの生活をより中心に近い所に据えるようにするための、最も重要な一歩となろう。そこでは障害者の生活の豊かさがより正確に理解される。

然るに米国で障害文化が育っているにもかかわらず、米国のマスメディア(テレビ及び映画)となると、障害者の生活を本当に理解している姿はめったにお目にかからない。そこに登場するのは、いわゆる「今週の障害者」であって、登場人物(大抵は女性)が肉体を蝕む疾患と戦う姿が中心である。実話がテレビ番組にされる場合でも、選ばれる話は個人が病気と闘う姿が強調されており、障害とともに生きることの実像が描写されてはいない。

私は成長途上において有名なJerry Lewis の筋ジストロフィー・テレソン(慈善の寄付集めのための長時間テレビ番組)により、障害に対するイメージを早くから歪められてきた。この番組にはテーマソングLook at us we’re walking, look at us we’re talking, we who never walked or talked before (私たちを見て、歩けるのよ、私たちを見て、話もできるのよ、これまで歩いたことも話したこともなかったのに)に合わせて”Jerry’s Kids”と呼ばれる子供たちが次々登場する。悲しいことに、障害活動家が何度も抗議したにも関わらす、このテレビ番組は米国のテレビにおける障害についての最も強いイメージとなっている。

実際米国でテレビを見れば、障害者はすべて、病気に対する「治療」を求めて大規模組織に依存する子供か、あるいは孤立していて他の障害者を知らず、友人や家族のお荷物になることを恐れている成人ばかりだと思ってしまう。そこでは、障害は「治療されるべき」分離された身体的問題か、命を奪う致命的疾患として描かれている。

こうした状況の根幹にあるのは、強力な非営利団体が視聴者の心にしっかり植えつけてしまう慈善心である。著作The Creatures That Time Forgot の中でDavid Hevey は、慈善団体が広告を利用する理由として、非営利団体(米国では、こうした団体を非課税としている法律にちなんで「501C3」と呼んでいる)の政治活動を禁じた政府の規則をあげている。この故に慈善団体は政治的権利には関心がない。関心があるのは慈善である。また慈善活動をする中でこうした団体は、障害者を「助ける」と言う政府の役割を代行する。つまり、慈善団体が障害者の「声」になっているのである。しかし、団体に依存するメンバーを擁する組織が、どんな声になり得るというのか。

Hevey はまた、慈善団体は「隠れた前提と明示された前提に基づき自らのアイデンティティを構築した。障害に関する治療かケアかという医学的見解が発展を遂げるのを目にするにつれ、イメージに盛り込まれた目的や前提は比較的明らかである。障害者は自分たちが作ったのではない身体的忘却のかなたで、社会的死者の生活を送っている。広告イメージの中での障害者達は肢体不自由者であり、ハンディを負った人達であり、身体も役に立たず、就労もできない。その立場は、保護されるべき貧者である。」

Hevey は次のようにも指摘している:「広告のイメージの外にいる素晴らしい人は、自己の肉体を持った君達だ(あるいは広告は見る側にそう思い込ませようとしている)。君は「一般人」であり、君は公衆便所(障害者はアクセスできない)にも、公共交通機関(これもアクセスできない)にだって利用できる。君は彼らのもっているものを受け取らなくしても済むように自分の所有するものを差し出さねばならない。君は今ここにいて、地下鉄の駅で新聞を読んだり、テレビを見たりしている。でも、時間が置き去りにしたあの人達は、絶望のゴミの中に漂っている。」

「ニーズに基づく施設」、特別ニーズ学校、病院等などの障害者アパルトヘイト制度により、障害者が強制的に匿名にされ、隔離された」結果、障害者は、こうした広告の中ではやたら目立つものの、声と力を失ってしまった。言うまでもなくHevey は、慈善団体による「こうした障害イメージ作り」は、「哀れみと依存概念を生み出すことは認めつつも、哀れみも、与えるという行為には必要だ、と認めている」。

手短にヘレン・ケラーの例を見てみよう。米国で恐らく最もヘレン・ケラーのイメージを広く普及させた1962 年の映画「奇跡の人」(William Gibson の脚本。後に1979 年、更には2000 年にテレビ用にリメークされた)を想起すれば、こうした慈善的概念がいかに広範囲まで行き渡るかは明らかである。ケラーは実生活では政治的活動家、社会主義者でもあり、(1948 年の訪日からもわかるように)世界を広く旅した人物であったが、演劇及び映画では、師であるAnne Sullivan に比較して準主役の役割に甘んじている(その証拠にPatty Dukeが最優秀助演賞を獲得している)。「奇跡の人と銘打ったこのドラマは、若く「野生の」盲ろうのケラーが、非障害者の世界で役割を獲得して行くという内容である」。

例えばこれを、Anne Finger の短編小説「ヘレンとフリダ(Frida)」におけるヘレン・ケラーの描写と比較してみよう。この小説でFinger は、ケラーとメキシコの芸術家Frida Kahloとの出会いを想像している。Fingerの小説では、成長した女性としてのケラーの障害描写だけではなく、政治活動家、Wobblies ( 世界産業労働者組合) の組合員としての姿が全面的に記述されており、チャーリー・チャップリンやメアリー・ピックフォードなどの華やかな世界も登場する。自らが想像する映画について、Fingerは次のように書いている:
一点、はっきりさせておこう。この映画は健常者たちの言い分をわれわれがそのまま映画にしたような映画ではない。例えばこの映画は「偉大なる妄想」のような作品ではない。盲目のJane Wyman は、医者からもはや治療不可能と聞かされて、涙をこらえながら、安宝石で飾ったサングラスを指差しながら、「こんなものもう着けなくてよくなると思ったのに」などと言ったりしない。また、ロック・ハドソンを相手に、「私のためにあなたが哀れみを受けるようなことはしない。あなたをあまりにも愛しているから。あなたのお荷物になるかもしれないから。」などといって結婚できないとは言わない。そして最後のシーンまで姿を隠し、最後のシーンでは、死か治療か(受け入れられる状態はこの2 つしかない)の間をさまよっている時、ロック・ハドソンが彼女の生命と視力を救い、二人はいつまでも幸せに暮らしました…、そんな展開にはしない。この映画では、盲目の女性が乳白色の瞳を持ち、視力のある人間を不愉快にさせる。ろうの女性は金属と金属をこすり合わせ、ギーギーいう音には頓着せず、海を見ては歓喜の叫びを上げ、怒ったときにはギャーギャー声をあげる。

ヘレン・ケラー及びアン・サリバンを演じた女優たち(われわれは、サリバンも軽度の障害を持っていたことを忘れがちである)が障害者でなかったことは言うまでもない。障害を持つ女優が受賞するのは、ろうの女優Marlee Matlin が、”Children of a Lesser God” の映画版での最優秀女優賞を獲得した時がはじめてである(ただし、注意しなければならないのは、この映画の筋はろうの女性が、手話ではなく、話すことを覚えるというものだったということである)。また、実生活でも退役軍人であり、四肢の切断を経験したHarold Russell が、第二次大戦後の退役傷痍軍人の生活を演じて1946 年に最優秀助演男優賞を獲得した(なお彼は1980年までスクリーンには再登場しなかった)が、障害を持たない俳優で障害者の役を演じて受賞した例としては、「帰郷(Coming Home”(1978)」でジェーン・フォンダにオーガズムを与えることのできる退役軍人障害者を演じたジョン・ボイト、「レインマン(1988)」で自閉症の人物を演じたダスティン・ホフマン、「My Left Foot(1989)」で障害のある芸術家Christy Brown を演じたDaniel Day Lewis、「セント・オブ・ウーマン(1992)」で視覚障害の男性を演じたアル・パシーノ、更には、「フォレスト・ガンプ(1994)」におけるトム・ハンクスとゲアリー・シニーゼ(Gary Sinise) が挙げられる。(シェークスピアのオセロは、ローレンス・オリビエが顔を黒く塗って登場した有名な映画をはじめとして、昔から決まって非アフリカ系が演じていたにもかかわらず、それに非アフリカ系アメリカ人を配役した時の抗議と比較せよ。)

くり返すが、こうした状況は、障害とはじろじろ見られるもの、外部から見られるものという伝統的な見方を強く想起させる。それにより視聴者は、障害を正しく理解するというよりも、俳優の能力に感嘆してしまう。また障害を有する俳優は経済的に極めて厳しい状況におかれる。権力を有する人間はわれわれ障害者の姿を正確に描写することよりも、利益の方に関心を寄せるため、マスメディアとの問題は切り離すことはできない。

最後に、自分がフルブライト奨学金で学者として日本滞在中に出会った、素晴らしい日本の方々全員にお礼を申し上げたい。皆さん一人一人が私の研究のみならず、私の人生を豊かにする情報を下さった。私は日本の伝統的及び現代文化における障害のイメージに関して情報収集を始めており、こうしたイメージに関し、今後も情報を下さるようお願いしたい。また皆さんには、障害者であるか否かを問わずすべての人の経験の中心に障害を据えた見方をしていただきたいし、さらに、人と話したり、出版物を刊行する際には、文化及び障害に対する文化の影響を論じてくださるよう、強くお願いしたい。現代社会の構造が今のようになっているが故に、障害者を助ける必要があるとする見解が流布するのはやむをえないであろうが、障害から、また障害経験から、有限の生命を有するわれわれ人間に関して、何を学べるかに思いを馳せることが、全員の生活を豊かにしてくれると思う。