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分科会 グループ1

「リハビリテーションと障害者の権利」

コーディネーター:

佐藤 久夫 (日本社会事業大学教授)

パネリスト:

奥野 英子 (筑波大学特任教授)「リハビリテーションと障害者自立支援法」

高橋 流里子(日本社会事業大学教授)「障害者のリハビリテーションと家族支援」

上村 数洋 (NPO法人バーチャルメディア工房ぎふ理事長)「当事者から見たリハビリテーションと就労支援」

関口 明彦 (全国「精神病」者集団運営委員)「精神障害者とハビリテーション」

 

佐藤 皆さん、おはようございます。第1分科会「リハビリテーションと障害者の権利」について、始めます。

進行係を務めさせていただきます、日本社会事業大学の佐藤久夫です。よろしくお願いいたします。

「リハビリテーションと障害者の権利」というテーマは、非常に基本的で、この研究大会では何度も取り上げられた言葉ですが、これを合わせて検討してみようということで設定されたと聞いています。

障害者権利条約の第26条は、「ハビリテーションとリハビリテーション」ということで、障害者の権利の前提的な重要な位置を占めるという位置付けが与えられています。これが日本のリハビリテーションにどういう影響、可能性を広げつつあるのかということも検討したいと思います。

また、障害者自立支援法がリハビリテーションにどう影響を持っているのか、どのような可能性と問題点を生み出しつつあるのかということも検討しなければいけないと思います。

国際的にここ2~3年で、国際リハビリテーション協会=RIの中では、Rehabilitation Internationalの、この名前をどうするのか。「リハビリテーションは嫌いだ」と障害当事者の意見なども出てきて、Rights and Inclusionという同じ「RI」でも名前に変えようという人たちも出てきたりと、名前、理念をどうするのかと議論がずっと続いてきました。しかし昨日のヴィーナス新事務局長の発言でも、リハビリテーションの重要性は再確認をされているので、Rehabilitationという名前をRIから取るという動きは、とりあえずは消えたとは思います。

これからの権利条約の時代の中で、リハビリテーションを障害者運動や障害者施策の中で、どのように位置づけるのかということは、依然として大きな課題となっていると思います。

いろいろな課題があることについて、結論を出すということではなく、様々な立場の専門家、利用者の立場から、縦横に検討してみようと思います。パネリストのレジュメを見る限りでは、従来の枠組みでは立ちゆかない新しい考え方、新しい視点などが必要とされているという問題提起的な話がたくさんあると思いますので、まずは発言いただき、その後のディスカッションの中で付き合わせて検討し、フロアの皆さんからの意見、質問を受けながら、活発な議論をしてきたいと思います。

それでは、まず筑波大学の特任教授の奥野さんに「リハビリテーションと障害者自立支援法」ということで、お話をお伺いします。よろしくお願いします。

 

奥野  皆様、おはようございます。私からは、「リハビリテーションと障害者自立支援法」のテーマで話させていただきます。レジュメは抄録集34~36ページと、ポイントのみをパワーポイントで用意しました。

リハビリテーションは、医学的リハ、教育リハ、職業リハ、社会リハ、リハビリテーション工学など様々な分野から構成されており、これらの分野間の連携、専門機関間、各種の専門職間、それから専門職と当事者との連携によって、総合的なリハビリテーションサービスを提供しなければいけないということは、昔から明らかになっているところです。一方、「障害者自立支援法」の中で、リハビリテーションサービスがどのように保障されるようになっているかという疑問についても話したいと思います。

1 リハビリテーション

まず、リハビリテーションをどうとらえるかということですが、日本国内におけるリハビリテーションのとらえられ方と、国際的なリハビリテーションのとらえ方について整理してみました。スライドはリハビリテーションの分野です(スライド1)。リハビリテーションの分野が総合的にサービスを提供しなければなりませんし、リハビリテーションのあらゆる分野間、専門職間の連携が重要であるということです。

スライド1スライド1

(1)わが国におけるリハビリテーションの捉え方

我が国においてリハビリテーションはこれまでどのように捉えられてきたかを振り返ってみたいと思います。身体障害者福祉法、障害者基本計画、障害者自立支援法において、リハビリテーションについて以下のように書かれています。

・身体障害者福祉法(第1条、目的)では、「この法律は障害者自立支援法と相まって、身体障害者の自立と社会経済活動への参加を促進するため、身体障害者を援助し、及び必要に応じて保護し、もって身体障害者の福祉の増進を図ることを目的とする。」と規定されています。

この身体障害者福祉法の第1条は2006年に、障害者自立支援法の施行に伴って最終的に改正された部分です。「身体障害者福祉法は、障害者自立支援法と相まって」とありますが、ともに「身体障害者の自立と社会経済活動への参加を促進するため」であり、これが「リハビリテーション」に近い表現と思いますが、身体障害者福祉法では「リハビリテーション」というカタカナはどこにも書かれていません。

しかし、この身体障害者福祉法が制定された戦後の昭和24年頃、この法律は「福祉法」となっていますが、障害のある方が職業訓練を受けて、自分で生計を保つことができるようにという意味では、職業リハビリテーションを中心とした「リハビリテーション」を行う法律として制定されていたといえます。

障害者基本計画(計画期間:2003~2012年)では、その巻末の用語解説において、リハビリテーションは「障害者の身体的、精神的、社会的な自立能力向上を目指す総合的なプログラムであるとともに、それにとどまらず障害者のライフステージのすべての段階において全人間的復権に寄与し、障害者の自立と参加を目指す」と書かれています。

そこでは「障害者の身体的、精神的、社会的な自立能力の向上を目指す総合的なプログラムである」とあり、具体的なサービスとかプログラムであると書かれており、かつ次に「障害者のライフステージのすべての段階において、全人間的復権に寄与して、障害者の自立と参加を目指す」ということが書かれています。

「リハビリテーションは全人間的復権である」という表現が多いと思いますが、それは理念的な面で重要ですが、リハビリテーションは具体的なサービスやプログラムが提供されるかどうかという視点を抜きには考えられないと思っています。

・障害者自立支援法(第1条、目的)では、「障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付及びその他の支援を行い、もって障害者及び障害児の福祉の増進を図るとともに、障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とする。」と書かれています。

したがって日本では、キーワードとしては「全人間的復権」という用語が使われますが、その前提として、具体的に能力を伸ばし、自立を可能とし、社会参加を可能とするサービスとプログラムが保障されているのかという視点も重視しなければならないと思います。

(2)国際的な捉え方

国際的な捉え方については、従来は、1968年にWHO、1942年には全米リハビリテーション協議会の定義もありますが、1982年に国連が障害者に関する世界行動計画を出した中で、リハビリテーションが定義されています。その後国際的に、新たな定義が出されていないので、私は国際的な定義としては、この1982年の定義は今でも重要だと思っています。

・国連「障害者に関する世界行動計画」(1982年)では、「リハビリテーションとは、損傷を負った人に対して身体的、精神的、かつまた社会的に最も適した機能水準の達成を可能にすることにより、各個人が自らの人生を変革していくための手段を提供していくことをめざし、かつ時間を限定したプロセスを意味する。これは社会的適応あるいは再適応を容易にするための方策はもとより、機能の喪失や制約を補う(自助具や技術的手段等)ことを目的とする方策も含めることができる。」定義されています。

スライド2スライド2

スライドで示したとおり(スライド2)、世界行動計画における定義の重要なポイントとして三つを挙げました。また、障害に関する主要3分野として、<1>予防、<2>リハビリテーション、<3>機会均等が分けられたことも一つの重要なポイントです。

予防できる障害は予防しましょう。障害が起きた場合には、適切なリハビリテーションサービスを適切な時期に提供し、リハビリテーション計画を立て、時間を限定して行うとされました。さらに、リハビリテーションから「機会均等化」の概念が分けられたことが重要です。従来はリハビリテーションというと、社会を変えていくこともリハビリテーションであるというような言い方もされていましたが、その概念が「機会均等化」に変わったということです。受け入れる社会側の様々な環境をバリアフリーに変えていく、物理的環境とか制度的環境であるとか、文化的環境すべてを変えていく、その部分が機会均等化であって、このように機会均等化とリハビリテーションが分けられたことによって、「リハビリテーションがかなり限定されてきた」と私は捉えています。

「リハビリテーション」と「機会均等化」、この両方が車の両輪のように用意されることによって、「完全参加と平等」という目標を実現できるのではないかと考えています。

「リハビリテーションとは」、「身体的、精神的、かつまた社会的に最も適した機能水準の達成を可能とすることによって、各人が自らの人生を変革していく」の部分ですが、「人生を変革する」という言葉は日本語にはなじみませんが、他の言葉で言えば「自己実現していく」ということだと思います。リハビリテーションは自己実現するための手段であって、リハビリテーションそのものが最終目的ではなく、自分らしい生活を営めるようになるための手段として使うものであり、かつ「時間を限定したプロセス」という言葉がここで出てきたことも重要なポイントだと思います。

従来はリハビリテーションというと、障害のある方が一生かけて頑張って、できるだけ能力を伸ばして、障害のない方と同じようになることを目指されていた時期もあったかと思いますが、そうではなく、本人が目標等を決め、このレベルまで能力を高めたいという本人の希望に基づいて、目標を達成するために時間を限定して、リハビリテーション計画に基づいて行うものである、という定義になっています。

この定義によると、従来のリハビリテーションの定義は医学モデル的なものでしたが、1982年のこの定義から生活モデル、また当事者中心のモデルに変わったということが言えると思います。

・国連「障害者権利条約」(2006年)では、26条に、英語では「Habilitation and Rehabilitation」、カタカナでは「ハビリテーションとリハビリテーション」のように2つの用語が併記されています。表1は日本政府の仮訳から転記しました(平成21年版の障害者白書の「資料」より)。それまでは長瀬氏と川島氏の翻訳にて、リハビリテーション関係者が意見を出し、みんなの協力による素晴らしい翻訳完成のプロセスがありましたので、私はそれが政府の訳になるのだろうと勝手に思っていましたが、政府は全く別の訳を使っています。私は長瀬氏・川島氏の訳のほうが適切であると思っています。

 

表1 障害者権利条約における「第26条 リハビリテーション」

1 締約国は、障害者が、最大限の自立並びに十分な身体的、精神的、社会的及び職業的な能力を達成し、及び維持し、並びに生活のあらゆる側面に完全に受け入れられ、及び参加することを達成し、及び維持することを可能とするための効果的かつ適当な措置(障害者相互による支援を通じたものを含む)をとる。このため、締約国は、特に、保健、雇用、教育及び社会に係るサービスの分野において、包括的なリハビリテーションのサービス及びプログラムを企画し、強化し、及び拡張する。この場合において、これらのサービス及びプログラムは、次のようなものとする。

(a)可能な限り初期の段階において開始し、並びに個人のニーズ及び長所に関する総合的な評価を基礎とすること。

(b)地域社会及び社会のあらゆる側面への参加及び受入れを支援し、自発的なものとし、並びに障害者自身が属する地域社 会(農村を含む)に可能な限り近くにおいて利用可能なものとすること。

2 締約国は、リハビリテーションのサービスに従事する専門家及び職員に対する初期研修及び継続的な研修の充実を促進する。

3 締約国は、障害者のために設計された支援装置及び支援技術であって、リハビリテーションに関連するものの利用可能性、知識及び使用を促進する。

 第26条に書かれているポイントは、リハビリテーションは「包括的なリハビリテーション」と書かれていますが、「包括的」という英語はcomprehensiveですので、総合的と同じ意味と思いますが、「包括的なリハビリテーションのサービス及びプログラム」という言葉が出てきますので、やはり全人間的復権というような理念とか哲学的な考え方だけではなく、具体的なサービスやプログラムの保障が重要視されていると思います。

 

表2 障害者自立支援法におけるリハビリテーション事業
サービス名 主たる利用対象者 サービス内容
自立訓練
(機能訓練)
地域生活を営む上で、身体機能・生活能力の維持・向上のため、一定の支援が必要な身体障害者
<1>入所施設・病院を退所・退院した者であって、地域生活への移行等を図る上で、身体的リハビリテーションの継続や身体機能の維持・回復などの支援が必要な者
<2>盲・ろう・養護学校を卒業した者であって、地域生活を営む上で、身体機能の維持・回復などの支援が必要な者、等
有期限のプログラムに基づき、身体機能の向上のために必要な訓練等(18ケ月)
自立訓練
(生活訓練)
地域生活を営む上で、生活能力の維持・向上等のため、以下に該当する一定の支援が必要な知的障害者・精神障害者
<1>入所施設・病院を退所・退院した者であって、地域生活への移行を図る上で、生活能力の維持・向上などの支援が必要な者
<2>養護学校を卒業した者、継続した通院により症状が安定している者等であって、地域生活を営む上で、生活能力の維持・向上などの支援が必要な者、等
障害の状況から自立生活が困難な方が有期限のプログラムに基づき、地域での生活を営む上での必要な訓練等(24~36ケ月)
就労移行支援 一般就労等を希望し、知識・能力の向上、実習、職場探し等を通じ、適性に合った職場への就労等が見込まれる65歳未満の障害者
<1>企業等への就労を希望する者?<2>技術を習得し、在宅で就労・起業を希望する者
有期限のプログラムに基づ き、生産活動やその他の活動を通じて、就労に必要な知識や能力の向上のために必要な訓練等(24ケ月)
就労継続支援 (A型) 就労に必要な知識・能力の向上を図ることにより雇用契約に基づく就労が可能な障害者(利用開始時に65歳未満)
<1>就労移行支援事業を利用したが、企業等の雇用に結びつかなかった者
<2>盲・ろう・養護学校を卒業して就職活動を行ったが、企業等の雇用に結びつかなかった者
<3>企業等を離職した者等就労経験がある者で、現に雇用関係がない者
利用者と事業者が雇用関係を結び、就労の機会の提供を受け、生産活動その他の活動の機会を通じて、知識や能力の向上のために必要な訓練等
就労継続支援 (B型) 就労の機会を通じ、生産活動にかかる知識及び能力の向上が期待される障害者
<1>企業等や就労継続支援事業(A型)での就労経験がある者であって,年齢や体力の面で雇用されることが困難となった者
<2>就労移行支援事業を利用したが、企業等又は労継続支援事業(A型)の雇用に結びつかなかった者
<3>以上に該当しない者であって、50歳に達している者、又は試行の結果、企業等の雇用、就労移行支援事業や就労継続支援事業(A型)の利用が困難と判断された者
一定の賃金水準のもとでの継続した就労の機会の提供を受け、OJT、雇用への移行支援等のサービス
自立支援医療 障害者
(身体、知的、精神)
身体に障害のある障害児の健全な育成を図るために行われる医療で、その障害児の生活の能力を得るために必要な医療(育成医療)、身体障害者の自立と社会経済活動への参加の促進を図るために行われる医療で、身体障害者の更生のために必要な医療(更生医療)、 精神障害の適正な医療のために行われる医療で入院しないで受ける精神医療(精神障害者通院医療)
補装具 身体障害者 身体機能を補完又は代替し、かつ長時間にわたって継続して使用される補装具(義肢、装具、車いす等)の 購入費、修理費のための金銭の給付を受ける。1割の利用者負担
日常生活用具 身体障害者 日常生活に必要な用具の給付

 

この中で具体的に、まずできるだけ初期の段階でリハビリテーションサービスが提供されて、個人のニーズとか長所、これは英語ではstrengthと思いますが、「長所」を伸ばすような総合的な評価に基づいてリハビリテーションサービスを提供し、地域社会及び社会のあらゆる側面への参加を支援していくということが書かれています。

さらに、リハビリテーションサービスに従事する専門家及び職員に関する初期研修、継続的な研修の充実を促進するとありますが、これは、リハビリテーションに従事する様々な専門職の養成・研修が重要であると書かれています。

次に「支援装置・支援技術」と書かれていますが、これは具体的には補装具、福祉用具または日常生活用具などを含んでいると思います。

以上のように、わが国におけるリハビリテーションのとらえ方と、国際的なリハビリテーションのとらえ方を踏まえた上で、障害者自立支援法においてはリハビリテーションについて、どのようになっているかを見てみたいと思います。

2「障害者自立支援法」におけるリハビリテーション

「障害者自立支援法」が施行され、市町村が実施する自立支援給付に「自立訓練(機能・生活)」「就労移行支援」「就労継続支援」「自立支援医療」「補装具」等があります。これらが障害者福祉制度におけるリハビリテーションサービスに該当する事業であろうと思います。これらを整理すると、表2(前ページ)のとおりです。

障害者自立支援法施行以前に、障害者福祉の中でリハビリテーションというのがどのように行われてきたかと考えますと、例えば身体障害者関係では更生施設、知的障害者にも更生施設、精神障害者には社会復帰施設があり、このような施設において、リハビリテーションサービスを提供するということが主に行われてきたと思います。

障害を持ったばかりの急性期の方は、病院の中でリハビリテーションを受けていますが、急性期以降のリハビリテーションがどこで保障されてきたかというと、更生施設とか社会復帰施設であったと思います。そのような施設の中で、リハビリテーションは「更生」という用語が使われていましたが、本当にリハビリテーションサービスが提供されてきたのか、専門職のPT、OT、ST等が適切に配置されていたでしょうか。入所者が50人、100人いても、PTが1人とかしかいなければ、リハビリテーションサービスは提供できないではないかという問題意識をずっと持っていました。

今度、障害者自立支援法になって良くなったのかというと、私には良くなるようには思えません。本来リハビリテーションは総合的に行わなければならないにもかかわらず、この自立支援法の中では、障害のある方のための福祉サイドにおけるリハビリテーションサービスは、分断されてしまったような感覚を私は持っています。

スライド3スライド3

障害者自立支援法の概念図(スライド3)ですが、市町村が中心になってサービスを提供します。「介護給付」は従来からあったサービスが介護保険と同じような用語に整理されたことと、リハビリテーションに該当するものは「訓練等給付」だと思いますが、訓練等給付の中にある「自立訓練」には、「機能訓練」と「生活訓練」があります。職業リハビリテーションに該当する部分として「就労移行支援」と「就労継続支援」があります。

医学的リハビリテーションの部分としては「自立支援医療」があり、18歳以上の方のための更生医療、18歳以下の児童のための育成医療、精神障害者のための公費通院の制度です。従来からの更生医療にしても、育成医療にしても、非常に限定的にしか使えないものであって、これらが医学的リハビリテーションのすべてをカバーするものではありません。さらに補装具は、医学的リハビリテーションに関わるものですが、これはほとんど従来どおりです。

地域生活支援事業は市町村がニーズに基づいて行うという事業ですが、この中でリハビリテーションのサービスがどのように行われるかというと、具体的にリハビリテーション的なものは、ほとんどない状態です。

スライド4スライド4

スライド5スライド5

スライド6スライド6

スライド7スライド7

スライド4枚(スライド4,5,6,7)で再確認すると、自立支援給付の中の訓練等給付には、「自立訓練」「就労移行支援」「就労継続支援」があります。自立訓練は、障害のある方が自立した日常生活を営むために一定の期間、訓練を受けるとなっています。この自立訓練の中の「機能訓練」は、「身体的リハビリテーション」が括弧で付記されていますが、これは主に身体障害者のための機能回復訓練的なものが中心になっています。次の生活訓練は「社会的リハビリテーション」が括弧で付記されていますが、これは知的障害と精神障害のある方を対象とし、生活能力の維持・向上を目的とするとされています。

スライド8スライド8

スライド9スライド9

地域生活支援事業はスライド(スライド8)のとおりであり、その必須事業として相談支援事業(スライド9)があります。相談支援事業の中に「社会生活力を高める支援」がありますが、これは社会リハビリテーションに関わる事業であり、また、当事者によるピアカウンセリングも、リハビリテーションにとって重要なエンパワメントの事業でもあると思います。

社会生活力」(スライド10)とは、障害のある方が自分の障害を正しく理解し、リハビリテーションサービスを活用して能力を伸ばし、地域社会の中で充実した生活を営めるようになることを意図し、福祉サービスを権利として活用していきます。また、自分の周りの障害のない市民の意識も変えていく、そのような力(ちから)が「社会生活力」であると私は思っています。

スライド10スライド10

スライド11スライド11

3 障害者自立支援法における「リハビリテーション」の課題

「障害者自立支援法」制定以前は、障害者のリハビリテーションは主に更生施設が担ってきましたが、「更生」はすなわち「リハビリテーション」ですが、これまでリハビリテーションサービスを必要とする障害者に適切な時期に適切な質量のリハビリテーションサービスが提供されてきたでしょうか。リハビリテーションサービスは個別ニーズに応じ、医学的リハ、社会リハ、職業リハなどが総合的に提供されなければなりません。地域で生活をしている障害者には、ケアマネジメントによるニーズ把握により、必要なリハビリテーションサービスがその他の保健・医療・福祉・教育・就労などのサービスとともに、地域社会において提供される体制が必要です。

障害者自立支援法では、障害種別によって機能訓練、生活訓練と分断されており、医学的リハ、社会リハ、職業リハなどが一体的に提供できるようになっていないと思います。

障害者自立支援法における「リハビリテーション」の課題はスライド(スライド11)のとおりです。

本日、皆様との討議の中で、いろいろなことを学ばせていただきたいと思います。参考文献は以下のとおりです。

 

参考文献

1  特集「障害者自立支援法」リハビリテーション研究133号、2-30、2007年12月

2 特集「障害者支援施設の今後の展望」ノーマライゼーション第29巻、9-29、2009年6月 

3  特集「障害者自立支援法の検証―リハビリテーションの視点から―」リハビリテーション研究 140号、2-33、2009年9月 

 

佐藤 どうもありがとうございました。障害者自立支援法とリハビリテーションということで、基本的な問題提起をしていただいたと思います。またディスカッションの中で、より突っ込んで議論ができればと思います。

それでは2番目のパネリストとして、日本社会事業大学の高橋さんにお願いいたします。「障害者のリハビリテーションと家族支援」というテーマでお願いをしております。

よろしくお願いいたします。

 

高橋 日本社会事業大学の高橋と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

今日、「障害者のリハビリテーション」は、障害者がどうあるべきか、障害者に対してどうサービスをするかという、障害者が中心にあることは当然です。しかし、長年、地域で実践活動をしていまして、地域で生活する障害者の実態を見た場合は「家族」と切り離せないと、強く感じています。そこで、家族の支援を通して、障害者のリハビリテーションというのを考えてみたいと思い、「障害者のリハビリテーションと家族支援」というテーマを設定しました。

リハビリテーションについては、理念と手段に分けられますが、しばしば混同して使われていると感じます。そしてリハビリテーションは手段、技術が取り上げられることが多いのですが、手段は理念に向かって使われねばなりません。スライド2に示したように「障害のある人」が内発的な力を発揮できるように、その力で社会とつながるかで、理念を目指すことになります。ですから障害のある人が主体になります。政策も技術もあくまでも主体が活用する手段に過ぎないという確認をしたいと思います。

そして実際には、障害のある人たちが、リハビリテーションの技術を手段として活用するのは、生活の場においてです。その生活というのは、職業生活に限らず、様々な個人の生活の場があり、それは社会との関係の中にある生活ととらえることが必要ではないかと思います。

たとえ、理学療法で歩行訓練をしたとしても、歩行訓練をして歩けることだけが目的なのではなく、その先にある、特に社会とのつながりをどう作っていけるかということが大切なので、これまで射程に入れなくてはなりません。そして、家族は社会の一部なので、個人の私的生活の範囲に考えられる「家族」と障害者は切り離せない。それが同居であろうと別居であろうと、その関係が切り離せないと認識しています。

近年の政策では、「家族」が障害者の生活に影響する状況が強くなっていると思います。その1つが地域移行の施策です、スライド4では、「新障害者基本計画」で障害者の地域移行の推進予定を示しています。また、障害者の施設入所率・入院率等を見ると多くの障害者は施設で生活しているわけではありません。つまり、家族と大変密接な関わりがあるということです。

家族の関わりを示す実態(スライド5) として、今年2月に出た東京都の報告書の中の「施設入所を決めた人」、「相談相手」という設問をみてみます。もともと自分以外が施設入所を決めている割合が高かったわけですが、2003年と2008年を比較すると身体障害、知的障害の両方において2008年がさらに高くなっており、「自分以外」とは家族が多いと考えられます。相談相手も圧倒的に家族が多いです。ここでも家族が密接に関わっていると言えるわけです。

障害者と家族との関係、あるいはその障害者の生活というものが、どのようになっているかスライド6にまとめてみました。障害のある人たちが高齢化していることは既に言われておりますし、障害の重度重複化も重なり、介護を必要とする障害者がかなり拡大してきています。障害のある人たちが介護の対象になることで、生活の主体であるはずの人が客体化されているのではないかと思います。そこで、家族と密接な関係を持って生活する障害者が多いわけですから、家族との生活がどうなっているかということが障害者に影響します。

介護が必要になった場合に、生活のマネジメントは家族がほとんど行っている実態があります。家族介護者が行なう生活のメネジメントについての外国の研究報告の例を引用(スライド6、スライド7)してみました。それらは「家族間の調和・関係に関わること」、家族員の社会的な役割もマネジメントしなければいけないという「社会との調和」、「介護に関わる課題の調整」、障害のある人たちとの関係、情緒的な関係を結ぶ「情緒的なサポート」、それから「直接的な身体介護・医療的なケア」です。こうした実態から障害者のリハビリテーションに家族支援を取り込む必要、家族支援をリハビリテーションにつなげる必要がないだろうかという問題提起をしたいです。

家族の支援をするにあたって、家族と社会の関係を考えておく必要があります。障害者を抱えている家族は、当事者ではないと言われることがありますが、完全な第三者になりきれるかと言うと、そうではありません。過去の障害者に生じた様々な問題をみれば、社会で障害者が抱えてきた問題や課題を家族が担ってきたことが分かります。家族が、障害者の権利の行使を支援したり、あるいは権利の代弁をしてきたということがあります。最近の新聞報道で、奈良県で普通学校に行けない障害児の親が身を挺して要望し、その子は普通学校への入学にたどりついたとう記事を読みました。親が、わが子が教育権を行使できるように交渉し、代弁もしたわけです。逆に、家族が障害者の権利を侵害するという実態もあります。障害者を家族が抱えこむ、ひどい場合には、家族心中や殺人という状況も生まれています。そういう立場にあるのが家族なのです。

社会との関係については、障害者の家族を社会にある、社会と関係を結ぶ集団というのではなく、家族対社会と家族と社会の間に一線が引かれることがあります。あるいは家族対障害者と考えられることもあります。ですから、問題の責任を家族関係の問題とか連帯責任的な家族責任にしがちな傾向になると思います。先ほどの奈良の例でも、家族が介助の責任を負うべきだというような家族責任、家族批判のような書き込みもHPで読みました。他にも、重度の障害者が外に出る場合に、他人に迷惑をかけないように家族が責任をもつようにということも言われます。

このようなことは障害者のいる家族への社会的抑圧状況(スライド9)であり、それは、障害の医学モデルから生じていると考えます。また、家族規範、家族責任は、家族が社会資源であるとの考えに結びつきます。さらに福祉国家の医療・福祉政策では必ずしもその受給が権利として捉えられているとはいえず、サービスを利用する障害者は専門職にお任せの側面があるためパターナリズムに陥りやすく、ここからも抑圧状況が起きると考えられます。

家族介護者に対する政策が、このような障害者の家族と社会の関係から、家族への同情や心理的なケアに焦点をあて、介護の社会的側面が薄れたものになりがちです。家族が介護技術を習得させられれば、介護をせざるを得ず、家族には介護の義務感は後押しするようなります。それは社会が家族の絆や愛を強い、家族の自助になり、家族は介護をやらねばと、障害者を抱え込み、家族の閉鎖性に拍車がかかりってしまうという悪循環が起きてきてしまいます。

スライド11からはボランティアが行なったアルツハイマー型認知症の障害者の「家族支援の実際を示しています。精神保健福祉手帳と身体障害者手帳を取得し、かつ介護保険で通所サービスを利用していた障害者が、認知症の障害を理由にサービスの利用契約を解除された例です。苦情を申し立てたが、行政は「しょうがない」、「施設に入所させるべきだ」と言いました。地域の福祉関係の人たちも、施設の職員が足りないから、手がかかる人はサービス利用を断られても仕方ないと言いました。つまり、障害者が社会にとってお荷物になると、社会が家族ごと排除した例といえます。責任は家族にかかります。

主な支援内容

  妻(家族)
活動日の支援と様子 夫との関係をめぐる否定的・肯定的感情の表出(精神病院に入院させてしまった罪悪観、精神病院から退院した時に見せた夫の表情に在宅介護を決心こと、日ごとに心身の弱る夫を見ている辛さや不安、不穏状況の為拳が飛んできた時のよけ方等) ・家族以外の介護者等が民謡をテープで流す
 ⇒笑顔
・声のトーンを変える、テービルを軽く叩く
 ⇒介護者が応える⇒夫笑顔
・誤えんを防ぐ座位姿勢と介助でお茶とお菓子の介助
 ⇒お替りの要求
・室内で介助歩行による交流
活動日以外の直接支援   ・好きなドライブに誘う
医療機関受診の為の移送,福祉用具のリサイクル利用
サービス計画の作成支援 介護保険の介護計画との自己作成障害福祉サービスの計画、ケア会議(精神病院医師・看護師等)
福祉・介護サービスの利用支援 老人福祉 行政への措置申請
介護保険 認定調査の付き添い、認定調査票の開示請求代理、苦情申立、事業者探しと利用交渉とサービス内容交渉
障害福祉 精神保健福祉・身体障害者手帳の診断書依頼と受理交渉
受給決定や受給量に関する行政との交渉、事業者探しと利用交渉
手当受給支援 特別障害者手当、介護者手当、オムツ代
医療費 老人医療と重度障害者医療の手続き

この家族と当事者に様々な支援をしました(スライド13とスライド14)。この支援の特徴として、高齢者ですから介護保険と障害者福祉の制度をフルに活用することなどを支援しました。その結果、家族自らが様々な気付きをしました(スライド15、スライド16)。それらは、家族である妻が個としての自律、障害者である夫と家族である妻の関係のあり方、夫が地域住民やデイサービスと関係を構築していることなどです。そして、妻は夫が持っている力を理解しそれに働きかけ、また、夫のニーズを代弁できるようにもなりました。

妻が自律した「"新たな"家族の自立」ともいえる状況になったことで、家族と社会との関係の悪循環を断ち切れたと考えます。こうした家族員の自立は、障害者のリハビリテーションには非常に重要だと考えます。サービスを活用して家族員の自立を支援する。それが家族員の個の自立を尊重することにつながります。家族を身体介護の義務感から解放できる支援をし、家族が障害のある家族との関係のあり方を見直せるような支援をしていく必要があります。家族に身体介護を押しつけるのではなく、家族には身体介護とは別の、交流とか、ただ傍に「居る」ことや、見守りなどの大切さを家族が理解し、また、周りもそれらの大切さを理解するということが重要になると思います。そうすると家族が家族外との関係を(再) 構築し、開放的な家族へとつながり、既述した悪循環を断つことができるからです。

こういうことを許すような制度・政策、あるいはサービス提供者の度量というのが、現在のところ、どうなっているかということを考えていただきたいと思っています。

以上で終わります。

 

佐藤 はい、どうもありがとうございました。

当事者でもないことは明らかだけれども、かと言って第三者でもない、非常に重要な役割の部分があるにもかかわらず、リハビリテーションの技術も政策・制度も、どう位置づけたらいいのかということについて課題があるという問題提起かと思います。

では、第3番目のスピーカーとして、バーチャルメディア工房ぎふの理事長の上村数洋さんにお願いいたします。

 

上村 皆さん、こんにちは。上村です。私は、こういうシンポジウムのお話をいただき、出させていただくことにより、沢山の方々と出会え、いろいろな勉強がさせてもらえるものですから、嬉しくて安易に引き受けてしまうのですが、今回も、引き受けた後でテーマに「権利」と付いているのを知り大変後悔をしております。

と言いますのも、何年か前になるのですが、座長の佐藤先生がお書きになられました「障害者の権利」という本を読ませていただき、その中で「権利」という言葉を、自分の中では、我々障害を持った者にとって大切なことだという理解は持ちつつも、自分では何もできないところを福祉の制度などで支えられていて、それで「権利」と言って、「権利」を主張していいのかな、という戸惑いがずっとありました。

その中で自分が一つだけ思いついたのは、昔のように、また働けるようになって税金を払えるようになったら、少しはそういう自分の気持ちが和らぐのではないかなということでした。いろいろ模索をし、もがいている中で、いつの間にか、自分が働く部分を通り越して、同じような障害をもった人の支援に関わるようになり、ほんのわずかですが、税金も払うようになりました。そこで、最初の「権利」の部分に対しての自分の中のこだわりが解決したかと言うとそうではありません。様々な人たちと関わりながら、就労の部分に取り組んでいこうとすると、新たな問題や、いろんな方のお力をお借りしないと前に進んでいけないようなことにぶつかり、また行きづまり悩んでいます。

そうした部分も含めながら、今回のテーマにどこまで沿ったお話ができるか分かりませんが、私が障害を負った29年前から今日までの様子と思いを、お話しさせていただきます。

私は1980年に、自分の運転ミスから谷底へ落ちてしまい、頸椎損傷になりました。この当時の私は、障害を負って動けなくなった後の人生がどういうものになるのかが、まったく想像すら出来ませんでした。でも、娘を将来どのように育てていけばいいのかとか、それまで曲がりなりにも地域の中で、いろんな方と関わりを持って仕事をしてきたものですから、そういった部分が断ち切られて、自分だけが社会からどんどん取り残されていくような、そんな途絶感から、自暴自棄の生活をおくっていた時期がありました。

そんな中で、今日もそうですが、こうして29年たった今、いろんな所に出歩けられるようになった自分を考えた時、そこには、大きく分けて三つの要因、これを私は宝物と呼んでいますが、あったように思います。その一番目として、経済的な部分も含めて私を支えてくれた家族の愛の部分、つぎに、私が失った手足の機能を補ってくれる福祉機器を研究開発したり、それを実際にリハビリテーションの部分で応用していただけた支援者、そういった方々との出会いがあり、そういう人や機器の支えによって、自分の中で少しずつ自信が出てきて社会へ出て行く、出て行くと、そこで三つ目の新たな人との出会いと、多くの支援をもらいながら現在に至っているように思います。

それと同時に、よく言われることですけが、私も、情報不足だとか、介護・介助の不安だとか、交通アクセスの問題だとか、いろんな思いをする中で、何とか昔のように働けたらという、今日のタイトルにさせていただいた部分の願望を持っていました。

そうした中で1991年、この日本障害者リハビリテーション協会の板山先生が、まだ現役の時に、八代先生と一緒に日米障害者会議に出して頂いたことがあります。その当時の私は、何も自分の中で目標も持てないような時代でした。この会議で、私と同じ頸椎損傷で、元気な人を40人ほど使いトップで働いているアメリカの代表に出会いました。この方は、いろいろな国から養子を迎えて、その養子一人ひとりの母国語が喋れるベビーシッターをつけて育ててみえたのです。日本だと我々のような重度の障害を持った者が「養子が欲しい」と言っても、まず叶わないと思います。そればかりではなく、それだけ重度の人が、いわゆる「豊かな」と言うか、生活ができるということも、アメリカがどれだけ重い障害を持っていても受け入れ、障害があっても、働けば働いたことに対して見合った給料を支払うというシステムができているからだということに出くわし、カルチャーショックに近いものを感じて帰ってきました。

それと同時に、初めて「ピープル・ファースト」という言葉に出会って、それ以降、その言葉が私の中ですごく支えとなってきました。

アメリカから帰ってきて、自分の中の感動を少しでも何か実現できないかということと、私たち障害を持つ者が働こうとする時に、単に仕事をするだけの能力じゃなくて、人とのコミュニケーションがとれるだとか、働くために一日決まった時間人との関わりを持ち、自分の体調把握と管理が出来るなど、いろんな問題点があると思うのですが、こういったことをどうしたら解決できていくだろうかと、仲間といろんな模索を始めました。

そんな中の一つに、同じ障害を持つ人たちと頸随損傷者の会を立ち上げ、仲間と共にレクリエーションを楽しんだり、今日のパネリストであります奥野英子先生や、今は亡くなられました東京コロニーの調一興先生にも来ていただいて、セミナーを開催しお話をいただいたこともあります。

アメリカに行ってから5年後に、岐阜県にソフトピアジャパンというITの拠点ができ、その中に、我々障害を持った者がICTを活用して社会参加を目指すための相談の場所ができました。そこができると同時に、私はそこでピアカウンセリングの仕事に関わらせてもらうようになりました。

その中で、いろんな方と出会い、沢山の相談を受けるようになりました。中には、同じように重い障害を持つ人が、社会参加を目指して努力をする過程で、健常者の女性と出会い結婚を、やがて、三つ子が生まれて、さらに社会参加の意欲を燃やすようになる人も出てきました。

また、もっと重度の人が、在宅で一生懸命努力をしパソコンが使えるようになり、「何とか仕事ができないだろうか」と言う声も聞こえてくるようになりました。そういった声を受けて、ピアカウンセラーの立場から、県とか、色々な所に働きかけてみたのですが、当時は、まだ行政がそこまで理解をしてくれませでした。

何とか、そういった仲間達と一緒に働く場所、自分たちで勉強できる場所が作れないかと模索をしている中で、今は放送していませんが、あるテレビのクイズ番組を知り、それに応募をしラッキーにも出場することが出来て賞金をいただきました。その賞金で、パソコンを4セット(環境)整えて、自分たちでまず勉強ができる作業所を立ち上げることもしました。

そうした動きが聞こえたのか、ある日の新聞に、「障害を持つ人もどんどん働けるようになってもらって税金を払ってもらうように・・・」と、前岐阜県知事が言われたとありました。

ここまでだと、「まだ体制も何も整っていないのに、障害者にそんなことを言うのは酷だ!」、ということになるのですが、この後に前知事は、「そのために必要な支援はいくらでもしてやる!」と、言われたのです。

この言葉が、我々にとって凄く心強い支えになりました。今、私たちが働けるようになれた基礎をいただいたものですから、今でも私たちは前知事さんを尊敬をしています。

そうした中、岐阜県の指導のもとに、「バーチャルメディア工房」と言う任意の団体として在宅就業の支援の取り組みを立ち上げました。その後、いろいろ進めていく中で、国の施策の中の助成事業も受けたくて法人化をする必要があり、2004年にNPOにしました。

バーチャルメディア工房の取り組み

この取り組みは、在宅でパソコンを使って仕事ができる障害者と、仕事を発注してもらえるクライアントの間で、我々スタッフが仕事の受注から企画、配分、とりまとめ、納品等の業務を行い、いただいた対価を、仕事に関わってくれた人たちに配分をするという仕事で、現在も行っています。

そうした取り組みの中で、最近は、ホームページを視覚障害の人たちを始めとする情報弱者にも分かり易く作るための国の基準ができ、その基準にあったホームページに作られているかどうかの診断の仕事も業務の一つとしてやっています。

それから、パラリンピックと並んで障害者の技能競技大会、アビリンピックがあるのですが、その岐阜県予選等の仕事にも関わりを持たせてもらっています。

また、広島国際大学の関宏之先生のお骨折りでさせて頂くようになりました、国の障害者知識技能習得訓練事業にも関わりを持たせてもらっています。この取り組みの中では、当事者としての強みを生かし、顎でトラックボールを操作できるといいますか、それしかできないような重い人にも参加機会を与え、勉強してもらうような取り組みにもさせてもらっています。

最近では、特別支援学校の高等部の学生さんの職場体験や、私どもの事務所がある大垣市の委託事業を受けて、重い障害を持つ人たちが、パソコンなどを使って社会参加できるための初歩の段階からの関わり、相談を受けてから使えるようになって頂くまでの、そんな指導の関わりもさせてもらっています。

また、少しでも私たち障害を持つ者が社会に理解をしていただいて、もっともっと取り組みに広がりを見せられたらと、セミナーなどを開いています。

岐阜県では、他県に先駆けて「ハート購入制度」という障害者の就労促進のための制度がもうけられています、これは、岐阜県独自で、障害者の雇用率4%以上の企業だとか、障害者の就労を支援している作業所や団体を対象に優先的に仕事を発注したり、取扱製品を必要時に優先買い上げをしてくれるもので、この制度のお陰で、私どもの工房も行政からの仕事を、100万円以下の随契ですが、沢山いただくようになりました。

そういった中で、平成18年から障害者自立支援法が成立され、障害者雇用促進法が改正される中で、私どものような在宅の取り組みがしっかりとした位置づけをされ、厚生労働大臣の支援団体としての登録制度も設けていただきました。ただし平成18年から既に3年経ちましたが、残念ながらこの制度は現状に即していないのか、私どもは、これに該当する受注業務が1件も発生していないのが現状です。

次に、私どもの在宅のワーカーのが、それぞれ頑張ってくれている何人かの様子をご紹介します。

こうして頑張ってくれている中で、いつ誰が言うわけでもなく、私どもの工房では「未来は僕らの手の中に」という言葉が生まれ、これをキャッチフレーズに頑張っています。

今、私どもの取り組みの中では、スライド上に丸印で挙げたように色々な問題と課題が出てきています。その中で、赤の印を付けた部分、これが、すごく大きな課題ですし、今後もいろんな意味で浮上してくるのかなと思います。

取り組みにおける問題点と課題

それと同時に、「在宅で」と言いながら、在宅だけですと、どうしても人との関わりや情報不足になりがちで、自分の世界に引き隠りがちになるものですから、出来る限り皆で集まって交流をしようということで、ボランティアを含めて、夏はバーベキューを、暮れには必ず忘年会を開くようにしていて、他所との関わりを持つようにもしています。

もう始めて5年になりますが、私どものワーカーの大半は手が動かないのですが、それでも使えるギターと出会い、ギターバンドを作って毎週火曜日の夜に集まって練習をしたり、最近はいろんなところから声をかけてもらって演奏に出かけたりもするようになりました。

次に、自立支援法に対しての問題点について、少し触れさせていただきます。これは、自立支援法が施行された当初から感じていることで、スライド上にまとめてみました。手続きのあり方から含めていろんなことに疑問を持っています。

障害者自立支援法の就労分野における最大の問題点

一つ目、「厚生労働省」ということで一本化されましたが、現実は本当に一本化されているかと言うと、いまだに旧厚生側と旧労働側の施策が微妙に重なりながら動いているということも感じています。

二つ目に、労働系の部署では「在宅」という部分に注目してくれながら、福祉系サイドにおいては、その部分にまだ目が向きつつあるのかな、というようなズレがあったりとか、そんなことも感じております。

三つ目、自立支援法が、やや知的障害の人たち偏りすぎて動いているような気もしております。

四つ目、生意気な言い方かもしれませんが、本当に当事者の生活だとか声が届いているのかな、見えているのかな、という思いを感じる時があります。

最後に、私は、本当に自立支援法は障害者の努力の過程まで踏み込んで評価をしてくれているだろうかという思いを持っています。それは、いろんな生活の中で、本当に家族を抱えて働かないといけないという切羽詰まった思いの中で努力をし、やっと働けるようになった人、その人がある一定の収入を得るようになった途端に応益、まもなく応能に、また変わるかもしれませんが、税金がかかってきます。

同じ障害を持つ立場として、このようなことを言うのは言葉足らずで語弊を招くかもしれませんが、一方では、「ブラブラしている」といいますか、事故などにより障害を負った人達の中には、高額な保障を受け働くことなく生活をしている人たちには何もかかってこないのです。ここに、「努力の過程」という部分にまで、もう少し目を向けてもらえないのかなというような、そんな思いを強く持っています。

職業的自立を目指す中で自立支援法に望むもの

今後、自立支援法に望むこととして、スライド上にいくつか挙げせて頂きましたが、特に「受け入れる社会」の実現については、社会全体でもっと考えてもらいたい部分だと思っています。

それと同時に、私たちが職業的な自立を目指す中で、昨日の基調講演にもありましたが、我々当事者がこれまでの考え方からもう一歩進め、自分たちの意識改革をおこなって、もっと自分たちが社会の中に受け入れられて、自分たちがもっと仕事ができるようになるためには、自分たちはどうしていったらいいだろうか、何をどうすべきだろうか、そこまで踏み込んでいく必要性もあるのではと思っています。

最後になりますが一言だけ。これはPRになりますが、こういった色々な思いがあり、正直、今日ここまでご紹介をしてきた取り組みを聞いて頂きますと、さも順調そうに聞こえるかもしれませんが、昨年秋以降、この世界的な景気の変動の中で、私どもの取り組みも正直行き詰まっています。

そういった中で、何とか、この難局を打開すると同時に、我々障害を持っている者が社会に受け入れてもらうために、「障害者ってこんなことも出来るよ」とか、「障害者っていろんなことを考え、こんな生活をしているよ」というような思いを込めて、私共のメンバー10人を中心としたインタビュー集・本「ブレイブ・ワーカーズ」を出しましたので、もしよかったら、岩波ブックセンターからお求めいただけますので、もしご関心のある方、目を通していただけたら幸いです。以上で終わらせて頂きたいと思います。どうも、ありがとうございました。

 

佐藤 どうもありがとうございました。「リハビリテーションと障害者の権利」という分科会で報告をしてくれというように上村さんにお願いしたのですが、発言の中にありましたように、「権利」という言葉はどうもしっくりこないということで、別なテーマで報告をしていただいた背景や気持ちが、よく分かったような感じがします。やはり「権利」というのは、ある人の権利は他の誰かの義務でもあって、周りの人や社会の義務としてのリハビリテーションの要求という視点とは少し違う、非常に多くの映像で示されたものは、本人の主体や気持ちのように思います。リハビリテーションというのは本人主体だということを説明してくれるお話でした。「権利」という概念だけではとても切れないような中身のある話をいただいたという感じがします。どうもありがとうございました。

最後のお一人、全国「精神病」者集団の運営委員の関口さんにお願いいたします。テーマは「精神障害者とハビリテーション」です。

 

関口 自己紹介からさせていただきます。1982年に最初の「非自発的入院」という経験をしました。その時の主治医が、最初に僕に薬物療法をした人です。今から考えると非合法なやり方で入院させられました。それから約20年、入退院を繰り返しました。最初の、入院をさせられた病院では、1年も経たないうちに治してくれましたが、次の医者、その次の医者、全部お手上げみたいな状態で、最後の医者のところで、最後の入院をし、2002年2月22日に最後の退院をいたしました。

2002年の4月頃、その当時、厚生労働省と法務省が、内密に謀議をしていましたので、医療観察法みたいなものが出てくるだろうと、反対集会があり、そこでデビューをしたわけです。その後、長野英子さんという、当事者の有名な方がいらっしゃいます。この方が、私はハンストをやるから支援についてほしいという呼びかけがあり、医療観察法の長い戦いが始まりました。これは6月に池田小事件が起きたときに始まったわけです。

2002年の4月に最初の会合があり、6月に池田小事件が起きました。2003年に、ESCAPの障害者の条約のための委員会がバンコクで開かれるということで、DPIとして行きました。DPI―ジャパンは「立場表明書」というのでしょうか、「ポジションペーパー」というのを作っていて、僕はその作成に参加しましたので行きました。

その翌年2004年、ニューヨークで、第2回アドホック委員会が開かれまして、これも行きまして、そこで条約を作るということは正式に決まったわけです。会場は大喜びでした。

翻ってみると、2004年から20年前、つまり1984年です。患者が撲殺されたという宇都宮病院事件が発覚した年です。その4年後の1988年に精神衛生法が精神保健法となりました。精神保健法になったときに、「国民は精神の健康を確保して促進する義務がある」という健康促進法のようなものが入りまして、精神的に健康であることは「義務」ということにされました。僕の人生は、医療観察法反対運動と障害者権利条約のことと二つ、重なり合いながら過ぎていきました。

現在はNPO法人MEWというところの、地活のⅠ型のライフサポートMEWで非常勤職員しています。そのNPO法人の理事もしています。また、医療観察法の反対の流れで出会った樋田先生から、病院・地域精神医学会の理事に立候補してくれないかという話がありまして、その前に医療観察法の反対運動に病地学会が押しかけて話をしましたら、話をするなら会費を払えということで払っており、被選挙権はありましたので、立候補し、それ以来ずっと理事をしております。今年もまた評議員選挙には受かりましたので、今年の9月の病地学会で理事の続投がなるかならないかは互選でありますのでよく分かりませんが。その縁で病地学会から協議員として日本障害者協議会に出ており、政策委員もさせていただいております。

そのようななかで、知り合った、ハンストすると言い出した長野英子さんという方が、全国「精神病」者集団の、窓口係と称しておりまして。2004年には日本障害フォーラム(JDF)というのができました。そのときに「病者」集団がノミネートされたわけですね。つまりWNUSPと関わりがあって、長野英子さんが理事をしているということで、他の団体を押しのけて「病者」集団が入って。僕はJDFを通じて、政府との話し合い、特に条約についてですけど、そういうことは重要だと思ったので、「病者」集団の構成員となりました。そのうちに「病者」集団もJDFの中の組織であるから少しは体裁を整えなければならないということで、運営委員というものをつくるようになりまして、そこの運営委員に収まっております。

障害者権利条約は、サインはしていましたが、平成21年3月5日に、承認の議論がうまくいきませんでした。その過程で、俗に「ひなまつりバージョン」と呼ばれている政府の仮訳の訂正案が民主党に示されました。民主党としては、わが党に示すのであるから、これは人々に示すのと同じであるからということで、障害者問題のプロジェクトチームの座長の谷参議院議員のサイトで公開しています。

一番変わったのは17条、Protecting the integrity of the person、「個人の健全さを保護すること」みたいなふうに訳していたわけですが、それが「個人がそのままで尊重されることを…そのままであることを尊重される権利」というように変わりました。

「リハビリテーション」のところも、今でも政府は仮訳しか認めてないのです。つまり、あくまでも国会議員向けの部内資料であって国民に公にしたものではないという立場を取っていますが、26条の「リハビリテーション」のところは「ハビリテーション及びリハビリテーション」というようになっています。その「ハビリテーション」というところですが、能力を開発するようなことというようにカッコ書きで書いてあります。これは抄録集にあります、Psycho-social disabilityということです。これは、つまり、全国「精神病」者集団は、WNUSPという、世界精神医療ユーザー・サバイバー・ネットワークというものに属しておりますので、その間の条約をめぐる英文の議論のための英文のメーリングリストに入ることができました。今ではIDA CRPD Forumというのがメインになっていますが、その他にWNUSPヒューマンライツとか、いろんなメーリングリストがあります。

Psycho-social disabilityということは、かなり前から、そのWNUSPでは使われていたことです。ただし条約の中には盛り込まれませんでした。それは、あまり一般的ではないからです。

昨日、マカナニーさんとお話をする機会がありまして、つまりWNUSPはPsycho-social disabilityというのと、Psycho-social Rehabilitationというものの、同じPsycho-socialだけど意味が違うということを主張していました。なんでここに、こういうふうに僕はわざわざ挙げたかというと、このPsycho-social disabilityというのは、実は前回僕がバンコクに行ったときのESCAPで使われた言葉です。つまり国連が認知したということです。昨日マカナニーさんは「パブリックなものではない」とおっしゃっていましたが、アジアのESCAPでは使われています。これをもう随分早い段階から、もしチャイニーズキャラクターで表すのであれば「間社会精神的障害」というように訳すと思います。つまり社会と精神的な状態の間にある障害だということです。

Psycho-social disabilityというのを、マカナニーさんはdiagnosis、つまり診断だというようにおっしゃっていました。ところが僕らのとらえ方は少し違っていて、これはやっぱり障害の類型であると思っています。類型として、特徴的なこととして、精神的に周囲に迷惑をかけるか本人が苦しむかということが挙げられると思います。つまり本人が生きづらい、もしくは本人が気ままに振る舞っていることが、はた迷惑になりかねないということです。これは一見して外から見える障害ではありません。

もう一つ言えることは疾病であって病状があるということです。多くの場合、服薬をしますが、服薬は長期間にわたります。それからスティグマがあるために障害受容が困難です。「あなたは精神病です」と言われて「はい、そうですか」という人はあまりいないと思います。「いいえ、そんなことはないでしょう。疲れているだけですよ」という話です。

その次、抄録集のリカバリーとハビリテーションというところです。「ハビリテーション」というのは、政府の仮訳では「リハビリテーション」と1個にまとめているのですけれども、「ひなまつりバージョン」では「ハビリテーションとリハビリテーション」というふうに、ちゃんと分けて書いてあって、ハビリテーションは「能力をちゃんと獲得すること」と書いてあります。

抄録集の「リカバリーとハビリテーション」というのはどういう関係にあるかと言うと、ハビリテーションはリカバリーに不可欠なのですが、リカバリーはハビリテーションとかリハビリテーションではないんです。そのものではないのです。一般的に、精神病の知識がある方ならお分かりだと思いますが、「疎通性」というのは、自分の外界とコミュニケートできるかということです。疎通できるかということを「疎通性」といいます。「社会性」これはもうお分かりとおもいますが、「再構築が必要」であるというのは前提として、取り戻せない時間の経過と、社会的立場の、崩れてしまった社会的立場というものがあるわけです。なぜかと言えば、「精神障害者」という烙印を押されるわけですから、同じ社会的立場ではいられないのです。

精神障害者とは、いわば「折れやすくなった骨を持った障害者」とも言えます。それは、再発の危険性があるということです。

「治癒」と「リカバリー」ということを考えてみると、必ずしも、治癒=リカバリーではありません。治癒していなくてもリカバリーはあるのです。つまり、不可能もしくは困難になった現実への疎通性の回復もしくは適応による対処の学習、このことが行われれば、症状は残っていても、一度壊れた社会関係の修復ができるわけです

つまり時々幻聴さんが聞こえたりとか、時々アップになったりダウンになったりしても、それを、どういうふうに対処していけばいいかという学習、そのときは頓服を飲めばいいとか、無視をするとか、お話合うとか、仲良く付き合えばいいとか、いろんなことがあるのですが、それらを覚えていけば現実に適応できるのです。

そして、「根こぎにされることと病状の改善」ということがあります。「病状の改善」、これは言ってみれば治癒に向かう過程ですが、これは社会関係の回復とは同じではありません。当たり前です。入院期間等が、特に精神は長いです。短くて1か月、普通3か月、半年。1年間でも、別に珍しくないです。さすがに1年を超えると東京都の場合は「社会的入院」と言っています。医療観察法の場合でも1年半でだいたい治して出すというプログラムを立てております。ですから、1年以上、精神病院に入院していて、一定程度の社会性が、社会性というのは疎通性とか社会関係の作り方とか、人とどのようにして付き合っていくなど、事理弁識能力を持っているか持っていないかということですが、そこが「ない」ということは、それは医者が悪い、投薬の仕方が悪いと私は思っています。つまり病院としての機能を果たしていないということです。

一時期、日本精神病院協会(日精協)が、「いやあ、たくさん入院患者がいるのは、要するに対応困難なと言うか、治療困難な統合失調症の患者さんが多くいるんですよ」と言ったことがあります。でも、これは調べてみればすぐにわかることですが、ある年代に固まっています。今、その方たちが、老齢化しています。何歳から何歳までの一定の年代の人が統合失調症にかかりやすいのか、つまり難治性の統合失調症に罹患しやすいということは考えられるのだろうかを、逆に質問したいです。私は、あまりないと思います。つまり、だいたい難治性の統合失調症の罹患率というのは、年に何%で、それほど大きくぶれるはずはないのに、そういうことを平然と言うのです。それは結局、社会的入院というのを「治らないからだ」と言ってごまかしているだけです。

入院期間が長くなると同時に、精神障害者という立場を強制的に付与されます。入院期間が約3か月以上になると、荷物を整理され始めます。「根こぎ」にされるのです。社会との関係を根こぎにされ、社会に戻ってきたら、根こぎにされた社会関係を新たな「精神障害者」という立場から再建しなければならないわけです。

それには多くの困難を伴います。一つめは、服薬のサイドエフェクト、副作用があります。疲労感、のどの渇き、肥満、疲れやすいとか、あるいはしょっちゅう歩き回ってしまうなどの、サイドエフェクトです。

とは言え、サイドエフェクトが嫌だ、太りたくないということを言って薬を飲まないという選択をすると、再発のリスクが高くなります。私はてきめんにアップになります。

二つめは、差別偏見が根強いというのは当たり前です。場合によっては適法に差別されます。適法に差別されるというのは、これは、国民誰もが保健所に通報することができますが、「あそこにおかしい人がいますよ」と、連絡され、そうすると保健所は、「おかしい人」がいると、調べ始めます。精神保健福祉法には、保護者というのがいることになっていて、「保護者は精神医療を受けさせる義務がある」と書いてあります。罰則規定はありませんが、保護者に言いつけたり何かするわけです。あるいは主治医がいたら主治医に言いつけたりするわけです。この条項があまり今、機能はしていませんが、いわゆる「自傷他害の恐れがある」という場合は、措置入院ということで無理矢理入院させられます。指定医が必要性を認めて保護者がハンコを押すと保護入院になります。措置入院、保護入院になるというのは、つまり一般人には起こり得ないです。一般人には強制医療はないですから、それで適法に差別されているわけです。

なぜハビリテーションかというのは骨折と切断の違いです。考えてみればわかると思います。私が言っているのは、服薬継続はある種の人々にとっては車いすであるというように思っています。それは、脳の中の写真を撮ってみると、確かに原因か結果か分からないのですが、精神障害を持っている人の脳は、ある異変が見られます。これは明らかにインペアメンツなわけです。そして、Psychoの部分を薬で治せば障害がなくなるわけではなくて、薬は単なる補助具です。大阪の精神医療人権センターの山本深雪さんも、補装具だと言っています。

そこで、新たな社会関係の構築はハビリテーションになります。ハビリテーションと精神障害者の人権です。差別から始まるわけです。困難な生活上のスキルを認めるということです。例えばホームヘルパーを私たちは使っています。ホームヘルパーは訓練等給付ではありません。つまりリハビリではなく、介護です。我々はホームヘルパーに「あれせい、これせい、一緒にせい」と言って、能力開発されたくないです。それはリハビリだと思っていません。私たちが言っているハビリテーションというのは、新しい対処の仕方を学ぶのであって、ヘルパーを使うことを学ぶのであって、ヘルパーと同じ能力を持つことを学ぶことではありません。リハビリテーションではありません。そういう意味でヘルパーはReasonable Accommodation。理にかなったお金のかかる接遇です。

また、ハビリテーションには限界があります。つまり能力の開発には、絶対に限界があるのです。リハビリにも限界があるのかもしれませんが、どういう限界があるかと言うと、具体的に言ったら薬を飲み続けなければいけないという限界があります。社会の側に合理的配慮の義務がありますし、万能の医療の可能性は今のところはありません。

合理的配慮の義務があるということについて、一言だけ権利条約に関連して、お話ししておきます。「他の者との平等の基礎に基づいて」という言葉が権利条約の中で多用されています。On an equal bases of othersです。しかし、権利条約は決してアファーマティブ・アクションを否定するものではありません。選択的に障害者にだけ、障害者に先に仕事を回すということは別に権利条約で規制されているわけではないです。むしろアファーマティブ・アクションこそが必要だというように思っています。特にそれは精神障害の分野でもそうだと思います。以上です。

 

佐藤 はい、どうもありがとうございました。精神障害の場合は、リハビリテーションと言うよりは、「ハビリテーション」プラス「合理的配慮」という、この二つを中心に考えていく必要があるという、お話をされたかと思います。

以上の4人のパネリストの話を受けて、休憩後に、フロアの皆さんから、活発な質問・意見などを出していただいて、「リハビリテーションと障害者の権利」ということに迫っていきたいと思います。

 

【休憩】

 

佐藤 それではディスカッションのセッションに入っていきたいと思います。4人の報告は、焦点が違っていますので、どなたに対してでもよろしいですので、質問、ご意見などを出していただければと思います。

 

会場 社会事業大学の高橋先生と、上村さんに質問をします。

高橋先生のところのアブストラクトといいますか、抄録集38ページ「障害者の家族と社会(2)」の、「家族規範と家族責任」に、矢印で「社会資源としての家族」という形で書かれています。この関係性について、家族規範のもとにおける家族責任論というのがあって、それが社会資源としての家族として、家族に対する社会的抑圧がなされているというとらえ方なのでしょうか。私は全然違うとらえ方を従来からしていて、家族責任論というのがすごく強い中において、「社会資源としての家族」というようなとらえ方をすべきであって、そうすれば社会資源としての家族に対するファミリーサポートのような、一つの社会政策が可能ではないかと思います。もっと家族というものを機能論的に分化してとらえていくべきなのに、我が国においては家制度等の流れの中で家族責任論だけやっていく中で、家族の機能に対する評価がない、それが問題ではないかというとらえ方をしていましたので、もう少しご説明をお願いします。

上村さんには、岐阜の事例で、自立支援法が知的障害に偏重しているということでしたが、具体的にどういう状況なのでしょうか。我々は逆に感じて、知的障害の立場から見ると、身体障害に偏重しているのではないかという思いを持ち続けていました。具体的なことを教えていただきたいです。以上2点です。

 

佐藤 では、家族の問題で、高橋さんからまずお願いします。

 

高橋 家族メンバーが複数いる場合、家族員のそれぞれは「個」であるはずなのに、家族の愛情の絆などの規範のもとで個を埋没させて一体と考えられている。一体的と考えられたその中の人たちは、すべての責任を負わなければいけないというような考え方があるのではないか。そのため、家族の機能を評価すると言うよりは、「家族」ということだけで最初から社会が、家族に全面的に障害者に関するあらゆる責任を押しつけてしまうと言う意味で「社会資源としての家族」と使いました。

 

佐藤 ここの中では、家族を社会資源として見るような見方は良くないということを、高橋さんは言っているわけですね。それは家族責任論になってしまうということで。

 

高橋 そうです。家族員一人ひとりが個であるが、個としてみられない、ひとかたまりとしてみられて責任が課せられるという意味です。

 

佐藤 質問された方は、そういう役割が家族にあるという、家族員で相互に支え合うという機能があるということを、むしろ位置づけたほうがいいということですか。

 

会場 佐藤先生の、おっしゃるとおりです。日本の、実際上、社会保障制度そのものも家制度から脱却されていないし、世帯的なとらえ方が生活保護等もありますから、暗黙のうちに家族に対する責任論としてきますし、かぶさってきます。その反発という感じで、家族の持つ機能とか役割についての、私は適切な評価がなされていないという感じがするわけです。特に発達期の未成年の場合において、家族というのは、自然に未成年後見が家族に来るわけです。家族と言うか親です。であるとしたら、それを前提としたサポートシステムを考えていかないといけないのに、インディヴィデュアルな、個別の家族成員があるのは事実ですが、いわゆる「ファミリー」としての機能というものを、一つの社会資源としてとらえていく、そしてまた発達期においてはもう必然であるわけですから、それは抑圧とか云々よりも、家族の役割を評価し、個に対する支援は発達期においては特に、家族における支援とイコール関係で、ある面ではその時期においては家族は当事者であるという視点からやるべきだという考えを持っています。大人になってくると、これはまったく変わるはずであって、そこの成人と未成人の間の分け方とか、それに伴う役割機能等を分けて論じていかないと、ちょっと現実的ではないし、機能的にも役割が十分なされないと思います。それゆえに結果として無権利状態になり、何かあったら家族の責任と言われ、何かあったら家族が権利侵害するんだみたいな、個もないような議論が続いていくんじゃないかと思っていましたので、その部分について、今後の研究を進めていただければと思っています。以上です。

 

佐藤 高橋さんの報告は、主に成人の障害者の家族関係を中心にお話をされたのかと思います。高橋さんの話の中で、私もかつて見聞きしたことで、欧米だと思いますが、どちらかが障害者の夫婦で、ヘルパーさんが身辺介護で、トイレか食事か何かしていました。たぶん奥さんが障害がなくて、非常に健康な体で、介護しようとすればできる状態でしたが、介護はしないでヘルパーさんに来てもらって介護を受けています。夫婦で2人の暮らしができて、会話だとか見守りだとかの情緒的な関係はよくやっていて、身辺介護のみ職業、サービスを活用しているということでした。

これは、日本ではなかなかないだろうと思います。夫婦で、片方が介護する体力があるのであれば家族がまずやるべきというのが、日本の一般的な考え方だし、特に行政はそういう考え方をかなりします。それは介護保険法で、介護の社会化ということで変えようという意向もありますが、なかなかそうにはなっていません。それを考えると、質問された方が提案されたように、家族の責任、家族の機能というのは、経済的、あるいは情緒的な機能が家族の役割だと思います。身辺介護などは、むしろ社会がやるべきで、家族の位置づけを明確にしながら進めていくということが、きちんと議論されるといいなと思いました。「みんな家族の責任だ」という言い方と、それへの機械的な反発とで、にっちもさっちもいかないということではまずいのではないかというような議論がなされたのかなと思いました。どうもありがとうございました。

他に、家族のことに関してどなたか、関連する意見とか質問とか、あれば出していただければと思います。

 

関口 私は地域活動支援センターⅠ型にいますが、精神障害者は、ご両親がいても別居して生活保護を受けているという方が結構いらっしゃいます。介護保険からずっとそうだと思いますが、家族の機能の代替をそういった福祉サービスみたいなものが担っていくという流れが前提としてあると思います。家族がもう核家族になったりとか、壊れてきたりとか、機能を十分に発揮しなくなってきたと思うのですが、今までプライベートなことでやっていた部分がパブリックなものに動いていく、引き受けていくという流れは、もうこれからも変わらないのではと思っています。

 

佐藤 そうですね。ドイツの介護保険では、家族介護などに介護保険のお金が出ていたり、スウェーデンでも、そういう方向といいますか分かりませんけど、介護休暇とか、いろいろな手当が考えられているので、日本でも、制度論、政策論としても、きちんと議論しなければいけないと改めて思いました。

では、上村さん、自立支援法における就労支援関係のことが、知的障害が中心とはどのようなかについて、よろしくお願いします。

 

上村 自立支援法の中で、いろんな取組みがなされていますが、その中に、地域の中でネットワークを組んでいく、そのネットワークの中心に置かれているのが就業・生活支援センターであると思います。岐阜県でも長期構想が出されまして、今後は就業・生活支援センターが、これからの自立支援法並びに岐阜県における長期構想の中心的・中核的役割を持って、ということが謳われています。

自立支援法が立ち上がる時から岐阜県においては、なぜかその就業・生活支援センターが、既存の知的障害の人たちの社会福祉法人にしか許可が下りてないのです。それに対して、色々な所に問い合わせをした結果、その窓口である、その当時の担当者が漏らしてくれたのは、それまでの自立支援法ができるまでにあった知的障害の人たちの施設のアドバイザー職に対して出てた助成金がなくなったことによる対応措置で、岐阜県はそうするという言い方をしてきたんですね。

それが私の中では、ズーッと理解できず、いろいろ自分なりに全国の就業・生活支援センターがどうなっているだろうと調べて見てみました。全てに問い合わせをした訳ではないのですが、岐阜県のように100%ではないにしろ、圧倒的に、知的障害の施設のところに下りているのも現状でした。そのようなころから、言葉足らずで、今のような発言ですと、誤解を招くことになるかと思いますが、私の中では、そんな理解もしておりましたので・・・。

 

佐藤 はい。よろしいでしょうか。はい、では、どうぞ。

 

会場 私は、センターを作ってきた者として、上村さんのご発言は、必ずしも正しい認識ではないということと、それから、知的障害の施設の人たちですが、全部の障害の方々に対応しようと、かなり努力をしていますので、そうおっしゃらないでいただければありがたいと思っております。

質問は、奥野先生にお伺いすることになると思いますが、「リハビリテーション」という言葉と「社会福祉」という言葉、あるいは「障害者福祉」という言葉を、きちんと定義をしていないとおもいます。我が国では、リハビリテーションといいますか、先生がおっしゃる「社会リハ」という言葉が、的確に使われなければいけないということも含めてですが、我が国の法律の中で「リハビリテーション」という言葉が出てくるのは、おそらく「障害者の雇用の促進等に関する法律」だけと思います。「リハビリテーション」をどのように定義をするのか。そしてその上で、いわゆる権利とどのようにリンクをさせていくのかということをしないで、私たちが使っている「リハビリテーション」が「医学リハ」に偏っているということも違うだろうと思ったりしますので、どのようにお考えなのか、お伺いをしたいと思います。以上です。

 

奥野 「リハビリテーション」については、スライドで、医学的リハ、職業リハ、社会リハ、教育リハ、リハ工学等によって総合的なものであるという説明を一応はさせていただきました。「社会リハビリテーション」と「障害者福祉」は同じであるというような理解のされ方が日本では非常に多いと思いますが、「社会リハビリテーション」と「障害者福祉」はどう違うかというと、私がいつも説明しますのは、「社会リハビリテーション」は、障害のある方が「社会生活力」をつけるための支援です。専門職、特にソーシャルワーカーや心理の専門職を中心にして、障害のある方が育つ過程から、本人自身が自分を適切に理解し、自己決定して、社会の中に充実した生き方を実現できるような力を作る。そういう意味では「社会人」として生きるために必要な様々なものを身につけることです。社会生活力を身につけるためには、家族の方の接し方がお子さんのときには非常に重要です。家族がすべてを決めてしまうのではなくて、本人自身が考えて決定できるような育て方をしていく。青年や成人にとっては、社会リハビリテーションのプログラムが「社会生活力」は身に付けるために必要と思っています。

「社会リハビリテーション」は、「障害者福祉」の中の本人の力を高めるための支援のサービスであり、プログラムです。私は国立リハセンターでソーシャルワーカーをしていましたが、そのときの個別の面接であっても、本人自身の力を高めるような視点での面接を行ってきました。1対1でもそういう支援をし、またグループに対しても、ホームルーム等において、社会生活力を高めるようなプログラムを行ってきました。したがって、「社会リハビリテーション」と「障害者福祉」とは同じではないということです。リハビリテーションによって能力を高めても、障害が残ります。その残った障害の部分をカバーするために提供する様々なサービスであって、所得保障であるとか様々な介護サービスであるとか、様々なサービスの提供部分が、障害者福祉の中で重要であろうと思っています。

さらに国際障害者年の「完全参加と平等」というテーマを実現するためには、従来の「障害者福祉」では不十分であるということで、「障害者施策」となりました。各省庁が対象とするサービス対象者は日本国民であり、日本国民の中に必ず障害のある国民がいますので、あらゆる省庁が障害のある国民のことも考えた上で施策を行っていかなければいけないということです。これが障害者施策であって、一番大きな概念であると、私は位置づけています。

 

佐藤 今の質問に関連してなんですが、障害者雇用促進法の中では「リハビリテーション」という言葉が使われているわけですね。「職業リハビリテーション」という言葉ですか、それとも「リハビリテーション」とですか。

 

会場 「リハビリテーション」です。

 

佐藤 「リハビリテーション」という言葉ですか。奥野さんにお聞きしますが、自立支援法も含めて、福祉関係の法律などでは使われていない、「リハビリテーション」という言葉では使われていない、かつて身体障害者福祉法の「更生」というのは、カタカナがいけないから日本語にしたということで、使われているとも言えるわけが、今では、その「更生」という言葉も評判が悪いということで、なくなっています。そうすると障害者基本法とか、障害児教育関係の法律とかでも「リハビリテーション」という言葉は、雇用以外のところでは法律上は登場していないですか。

 

奥野 「障害者の雇用の促進等に関する法律」の中で、「職業リハビリテーション」という用語が使われましたが、それ以外のところでは、障害者関係の現在の日本の法律ではどこにも使われていないように私は思っています。しかし、「障害者自立支援法」の具体的なサービスを説明する厚生労働省の資料には、先ほどのスライドにも示したとおり、自立訓練の中の「機能訓練」にはカッコして「身体的リハビリテーション」、「生活訓練」のところでカッコして「社会的リハビリテーション」という用語が使われています。しかし「身体的リハビリテーション」という用語は昭和40年代に使われていたように思いますが、その後はほとんど使われていないと思います。

また「社会リハビリテーション」については、リハビリテーションの一分野としての英語Social Rehabilitationを、昭和40年代に「社会的リハビリテーション」と翻訳しました。職業リハビリテーションについても、当時は「職業的リハビリテーション」と翻訳されましたが、職業リハビリテーションのサービスがきちんと位置づけられてくるに伴って、現在は「的」をつけないで「職業リハビリテーション」の用語が定着しています。「社会リハビリテーション」についても同様に考えます。

今回の障害者自立支援法の中で「身体的リハビリテーション」とか「社会的リハビリテーション」という用語は、昭和40年代の用語が復元してきたようで、どういうことだろうかと不思議に思っています。

 

佐藤 介護保険法では、介護保険給付の中のメニューとして「訪問リハビリテーション」だとか「通所リハビリテーション」とかね、いくつかあります。障害福祉の法律にないし、障害者基本法の中にもないことによって、特に「総合リハ」という、奥野さんが強調されている総合的であるというリハのことを考えると、障害者基本法の中で「リハビリテーション」という言葉が登場していないということは、何か問題を起こしているのではないかと思うんです。あるいは障害者基本法の中に「リハビリテーション」ということを位置づけることによって、このように事態を改善することができるとか、基本法と、リハビリテーションという、基本法におけるリハビリテーションの位置づけみたいなことで、何かお考えのことといいますか、位置づける必要はないだろうかと思いますが、いかがでしょうか。

 

奥野 法律の中には使われてないというのは、当初は日本の法律にはカタカナ語は使わないという国の方針からという単純な話だと私は思っています。しかし日本では、1983年から1992年までの「障害者対策に関する長期計画」、1993年から2002年までの「障害者対策に関する新長期計画」、さらに2003年から2012年までの「障害者基本計画」においても、基本的な理念として「リハビリテーション」と「ノーマライゼーション」がはっきりと書かれています。これらは法律ではありませんが、障害者施策として重要なわが国の基本計画において「リハビリテーション」のカタカナが使われていますので、そういう面では公的に認められている用語であり、今後は「リハビリテーション」の用語が諸法律に正式に扱われ、障害のある人の権利として位置付けられる必要があると思います。

 

会場 学問体系として「リハビリテーション」という言葉が、我々の領域ではなかなか成り立たなくて、今回だってこの「総合リハビリテーション」とは言うけれども、いわゆる学問体系の中で「総合リハ」を標榜されるところというのは、すべからくOT、PT、ST、そういった方々の養成のところであって、本来「総合リハ」で唱えるべき人間復権という思想というものを、本当に多くの人たちに知らしむる機会を失ってしまったなという、単純にそれだけの思いです。願わくば、そういう意味合いでの復権をはかりたいものだという思いがあるので、ご質問したまででございます。

 

佐藤 他の論点でも結構ですのでいかがでしょうか。

 

会場 私はずっと地域リハビリテーションという分野で活動をしてまいりました。リハビリテーションに関するお話を伺っていて、一つは指摘事項と、もう一つは違和感がありましたので、発言いたします。

我が国の法律の文言に「リハビリテーション」という言葉が使われていないというお話がありましたが、少なくとも介護保険法の第1条とおもうのですが、カタカナでそのまま「リハビリテーション」という言葉が使われております。その意味は、多分に取り違えられている部分はあるかも分かりませんが、カタカナとして入っていることは、ちょっと一つご指摘したいと思います。

それから違和感という点に関してですが、どうもリハビリテーションということが我が国の障害者に関する法律と何か取り違えて、すり替えられて何か議論されているように私には聞こえてしまいました。決して障害者福祉の制度論の話とリハビリテーション論というのは、これイコールではないのではないのかなと思っております。

もう少しここで「リハビリテーションと障害者の権利」という分科会ということでもありますので、我が国の制度、障害者福祉というその制度、これは現にそういうものがあるということは事実ですが、その制度の枠組みの中で議論するのではなくて、例えば社会福祉法では最近「地域福祉」というふうな言い方も出てきております。例えばそのような、制度で人を見ていくという考え方ではなくて、総合的に、地域で暮らす人をどう支援するべきなのかを「リハビリテーション」という観点から見るとどうということを、理念的な、あるいは理想的な部分も含めてご議論いただきたいと思います。

 

佐藤 はい。ありがとうございました。リハビリテーションというのは、奥野さんも強調されていたように、目的・理念とともに、それだけではなく、具体的なプログラムやサービスと、両方の面から総合的に見ていく必要があると。障害者自立支援法も、それを達成する一つの資源の一部であるというような位置づけが必要で、その通りではないかなと思いました。

 

関口 先ほど参照できなかった部分について、「ハビリテーション」というのは「適応のための技能の習得」というように「ひなまつりバージョン」ではカッコして訳しています。条約26条では、「リハビリテーション」というのは「再適応のための技能の習得」ということになって「精神的、社会的、職業的能力を達成し、維持し」と、「維持」が入っているので、これはもしかしたら期間が定まらないのかなという若干の恐れがありますが、とにかく自発的なものでなくてはならないということは書かれています。

 

佐藤 はい。私から奥野さんにお伺いします。障害者自立支援法で、リハビリテーションの総合性が困難になった面があるのではないかというご指摘だと思いますが、従来の「ハコモノ」にお金を出すという考えが、サービスごとに出すというように変わったようです。ですから入所施設でも、夜間のケアの部分だけは出すけれども、昼間のお金は出しませんとか、1か月いくらではなくて、通所した日、何日通所したかによって出すようです。厚労省によれば、国民の理解、納税者の理解が得られるように、使ったサービスについてだけお金を出すという仕組みになったということで、いろいろサービスを区分けしています。そのために奥野さんが指摘されるように総合性という点では問題が出てきたのではないかと思います。

ケアマネジメント、サービスマネジメントの制度ができたので、そこがいろんなサービスを組み合わせて使う、総合的なリハビリテーションを可能にすることになるのではないか。また日割り制度なども、生活訓練の日に月・火・水と行って、木・金と自立訓練、機能訓練のほうを使うとか。就労の訓練と、それから生活の訓練とを組み合わせて使うとか。日割りで、曜日でこう分けて使うだとか、そういうケアマネジメントがうまくできれば、むしろ従来よりも自立支援法のほうが総合リハを実現しやすい器が与えられたのではないかと、厚労省の味方になって言えば、そんな言い方もできるのかと思いますが、いかがでしょうか。

 

奥野 佐藤先生がご指摘していただいた部分について、私から思っていることを述べさせていただきます。従来「更生」という用語「リハビリテーション」を、漢字で「更生」という用語を使っていて、身体障害者の更生施設としては、「肢体不自由者更生施設」「知的障害更生施設」「重度身体障害者更生援護施設」など様々な施設がありましたが、それらのリハビリテーションの場で、総合的なリハビリテーションを行えるような職員配置がなされていたかというと、現実にはなされていませんでした。従来も問題だらけだったわけですが、実際には、総合リハセンターとして病院部門を持っていて、PT、OT、ST等もいて、職業リハビリテーションの専門的サービスや専門職もいるというような、たとえば、東京都心身障害者センター、神奈川リハ、埼玉リハ、横浜リハとか名古屋リハというような総合的な機能を持ったところでは、総合的なサービスが提供されてきました。

しかし、法律が変わったことから、事業のメニューが変わり、「自立訓練」であるとか「就労移行支援」に分断されてきた中で、佐藤先生から「ケアマネジメントの機能を十分に使って活用すればより良くなるという面はありませんか」、というご指摘をしていただきましたが、現実には今回の制度改正の日割り計算によって、今までの総合リハセンターですら、リハビリテーションサービス提供に必要な職員配置ができなくなっている状況もあるようです。例えば、社会リハビリテーションを行うようなプログラムを担当する職員が、三交代勤務の介護の職員以外に数人配置されていたリハセンターで、それらすらカットされてきたなどです。実際に正式な職員を十分に配置はできない、そのような財政的状況になってきたということがあると思います。

もう一つは、いろいろなサービスを様々な場所で利用したらいいのではないかという議論についは、それぞれの別の場でサービスを利用するときに、施設で生活している方も、在宅の障害の方も、様々な場所に行くための移動サービスが保障されているのかというと、それすらない中で、どのようにいろいろなサービスを活用することができるのかという現実的な問題があると思います。

さらに、「障害者ケアマネジメント」を行って、その中で保健、医療、福祉、教育、就労等、様々なサービスを活用していくときの一つのサービスとして、本人が必要とするリハビリテーションサービスを活用していくということが本来の方法だと思いますが、その障害者ケアマネジメントの体制すら、今はできていません。すべてができていない中で、私は良い見通しを持つことができない状況です。

 

佐藤 それでは、時間になりましたので、このへんでこの分科会を閉じたいと思います。「リハビリテーションと障害者の権利」ということで、4名のパネリストに報告をいただきました。また、フロアからもいろいろ質問をしていただいて、より議論が深まったかと思います。障害者自立支援法も新しいものができて、その見直しの時期に至っています。今日の選挙の結果で、もう法律そのものをやめてしまえ、というような政党が勝つ可能性もあったりして、非常に大きく揺れ動くと思います。一方では権利条約の批准、それに伴う国内法の見直しということも課題になっているという中で、リハビリテーションをどのように位置づけるのか。また専門職などがどのように関係するのか。

この埼玉県立大学なんかも加盟して、保健福祉医療の連携教育学会というのが立ち上げ、チームワークで、どのようにして専門性を尊重しながら、チームでいい支援を障害者・高齢者に提供するかというような議論がされているという動きもあるので、その中でリハビリテーションはどうあったらいいのか。障害者の権利・主体性がどう保障されるのか。今日の上村さんのお話では、専門職とか支援者は活用するけれども、むしろ中心は、本当に文字通り障害者自身の願いであり、頑張りであり、それぞれの目標がどのぐらい本人自身また周囲が尊重できるかというようなことがカギだという話も聞いたかと思います。そういうものを生かしながら、これからのリハビリテーションを進め、その中でのヒントを、一つでも二つでも、今日の分科会からもらっていただければよかったかなと思います。どうもご協力ありがとうございました。シンポジストの皆さんもお疲れ様でした。ありがとうございました。

以上