差別禁止部会 第18回(H24.5.11) 資料1 障害者差別禁止部会ヒアリング用レジュメ 障害者差別と福祉支援 ―忘れられた「障害女性」*の存在― 2012.5.11. 関西大学 社会学部 加納恵子 (*論文では「女性障害者」と表記) はじめに 「わたし」の物語から「わたしたち」の物語へ ★規範を揺さぶる「自分語り」の威力:当事者研究の台頭 1.「女性障害者」を論じる今日的意味 @近代規範の能力主義とセクシズム Aダブルハンディとダブルバインド B複合差別と多問題 <障害者問題+女性問題=女性障害者問題>か? No! 第1段階:無性(「性的存在」でない) 第2段階:「私は女!」(岸田美智子・金満里『私は女』長征社1984) ⇒ジェンダーバイアス/性差別の嵐: 結婚をめぐって「女としての能力」が問われる.生殖・ケア能力 ★性的存在の承認は性差別の脅威に身をさらすことを意味する。 ・「二重拘束状態」に宙吊り :ダブルハンディより複雑なダブルバインドという疎外状況 ★逆説的な解放ストーリー:障害者になることで「女をおりる」ことが許される!? ・田上みどりさんの物語(田上みどり『女性障害者のネットワーク』『障害者の福祉』日本障害者リハビリテーション協会13巻10号1993)から ↓ 「女性障害者を生きること」の困難を整理すると・・・ 「理想的な女性モデル」という3つの規範/呪文 1)性的対象物としての美しさ 2)産む性としての健康な身体 3)ケア役割とケア倫理 ↓ 呪文にかけられ悲観/否定するのではなく「ありのままの自分」を生きてみようか・・・ 2.女性身体規範をめぐってー呪文を解くために・・・ @「正統な身体」とプロクルステスのベッド ・バレリーナ・スーパーモデル・アイドル ・美魔女・9号サイズ・痩身ダイエット・ ・美容整形・エステティック・アンチエイジング・・・ ↓ 女性身体が「可塑的な素材(マテリアル)」に ・「美=開発・発展・善」という公式のもと、欧米資本とその文化・男性意識によって、あらゆる産業と密接に関連しながら世界規模でマーケット(植民地)化に成功している。 ・「女らしさ」の制度が社会規範化して威力を持ち出すと、現代の医療・産業技術を投入して、人工的な身体の美の「矯正」が進行し、「女性身体」は、限りなく「可塑的な素材(マテリアル)」として扱われはじめる。 (諸橋泰樹『雑誌文化の中の女性学』明石書店1993) ・抵抗としてのスロー・ビューティ (石井政之・石田かおり『「見た目」依存の時代ー「美」という抑圧が階層化社会に 拍車を掛ける』原書房2005) A正常な身体と整形ノーマライゼーション!? ・女性障害者の身体:「開発的女性身体」の「規格(ノルム)外」通告 ・せいぜい「医療技術の対象マテリアル」として、「正常な身体」に近づけるべく「整形・リハビリ」されてきた ・女性障害者の聞き取り調査(伊藤智香子『女性障害者の結婚生活と障害者観』杉本貴代栄編『ジェンダーエシックスと社会福祉』ミネルヴァ書房2000):悲劇は「異質な者」「価値のない/低い者」として「劣位」におかれるだけでなく「無性の者」として「どこにも位置づけられなかったこと」⇒ 自他ともに婚活/就活の想定外・タブー ・「摂食障害」に陥っている状態の社会学的研究から・・・「その人が自らの状況や自己を定義する権利や力(パワー)をはく奪されている状態」と捉え、「家族や医者やカウンセラーの診断を含めて、自分たちの力を奪っていくような「否定的な解釈」に包囲され、ますます摂食障害から抜け出せないでいる(浅野千恵『女はなぜやせようとするのかー摂食障害とジェンダー』勁草書房1996) ・「性の具体化という意味での身体」で苦しんでいる女性たちが、どうやって「自分の身体」を取り戻していくか まさに・・・「客体」⇒「主体」への回路を奪還 3.排除社会の過剰包摂 福祉国家建設時代(統合/包摂へ:ウオーフェア⇒ウェルフェア) 福祉国家のゆらぎ(排除/自己責任へ:ウェルフェア⇒ワークフェア) ●排除型社会の文化: 自己責任論 &ゼロ・トレランス政策 「差異には寛容でも困難には不寛容」 (ジョック・ヤング著青木秀男訳『排除型社会ー後期近代における犯罪・雇用・差異』洛北出版2007、同著木下ちがや訳『後期近代の眩暈ー排除から過剰包摂へ』青土社2008) 3.排除社会の過剰包摂 ●過剰包摂と福祉支援 @「自立支援」プログラムのオンパレード 障害者自立支援法 ホームレス自立支援法 若者自立支援法 災害被災地復興自立支援事業 ・・・ 「ウェルフェアからワークフェア」への寄り添い型支援 4.支援シナリオのリライト ・社会問題(排除/差別)は社会運動が担当 ・生活問題(ニーズ)は社会福祉が担当 制度/政策 top (変質/形骸化) 排除/差別/生活問題 運動/アクション (プログラム事業の創発) 福祉/サービス (補助金事業の管理監査) ●「福祉支援」によって見えなくなる「人権問題」 ●「差別問題」を「生活問題=生活ニーズ」に読み替えて支援シナリオを開始することの限界/功罪 ★功.目前の生活/生存ニーズへの対応:即応性(生活の現実原則・応急/事後対応) ★罪.問題発生の構造や支援資源不足を不問:社会適応強化 ●支援関係(ワーカーvs.クライエント)のポリティクス ★ラポート(援助の信頼関係)神話 ★契約(問題解決への協働と利用契約)神話 ★階層格差の反映 ●「複合差別」と「多問題」 −障害女性を生きることの困難をめぐってー 医学・心理還元主義の治療モデル:ディスパワメント? ソーシャルワークの生活支援モデル:エンパワメント・ストレングス? ★ソーシャルワークの限界: ミクロの「家族システム」〜マクロの「経済社会システム」のそれぞれに内蔵された性別格差/能力格差による差別構造を不問にしたまま「システム群の最大の適応状態を福祉の最大レベル」と功利主義的に評定して「システム」の再調整を試みるというシナリオ ★オルタナティブの思想 @セルフヘルプ Aセルフケア/自己への配慮(M.フーコー) B「当事者主権」への反転 上野千鶴子(女性解放運動家)&中西庄司(障害者解放運動家)⇒『当事者主権』(岩波新書2003):専門家主義への対抗&当時者学の発信⇒「公共性」を組み替える(代表制・多数決民主主義の「最大多数の最大幸福」という功利主義的な「公共性」理念を「平均・標準(Mサイズ)ではなく最大ニーズをもつ最後の一人」に合わせた制度設計を。ユニバーサル(普遍)・デザインと呼ぶ)⇒オルタナティブな人生シナリオ:別解を求めて おわりに ●「女性障害者」の着ぐるみを着るとみえてくるこの社会の景色/からくり 「この社会にあわせて生きていくしかない」という自閉的な思考からの脱出のヒント/チャンス ●「自己定義権」の奪還 /剥奪された人権の回復/破壊された人格・傷つけられた尊厳の回復様々に定義されてきた「客体化された自分」から少しづつ「自分を主体化して生き延びる実践」へ ●「弱者の思想」とは「排除型社会の土俵」で強者を目指すのではなく「弱いままに、逃げよ、生き延びよ」という思想(上野千鶴子『生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠』岩波書店2006) 提出資料: @加納恵子「女性障害者問題を読み解く」林千代編著『女性福祉とは何かーその必要性と提言―』ミネルヴァ書房2004 A加納恵子「またもや挫折!?−複合差別からのレッスンを生かせー」『ノーマライゼーション障害者の福祉4月号』32巻4号 日本障害者リハビリテーション協会 2012 林千代編著『女性福祉とは何かーその必要性と提言―』ミネルヴァ書房2004 p.102-117 女性障害者問題を読み解く―「女性身体規範」をめぐって― 関西大学 加納恵子 はじめに  「女性障害者を問う」試みは、一般的には、あまり気乗りのするテーマではないらしい。女性学や障害学が、既存の学問領域を越境して、これまでと違った光の当て方でもって「社会」の別解ストーリーA,B,C・・・を提示し始めたにもかかわらず、そのクロス部分の影が薄いのはなぜだろう。「女性」と「障害」という差別の二次関数が描き出すフィギュアは、この世界を認識する新しい形をまさに「体現」しているというのに、どれも迫力がありすぎて、みな、引いてしまう。たまたま聞かされる立場に遭遇した人々は、その哀れさと切なさに心は痛みこそすれ、なす術を持たず、結果的に「聞かなかったこと」として、守秘義務のもと、黙殺してきた。というか、このようなステレオタイプな先入観が邪魔をして、結構のびやかな「もうひとつの生活世界」を見過ごしてきたのかもしれない。  さて、本書を編んだ林千代は、「女性福祉」という概念自体が、矮小化される風潮にある社会福祉界の現実を嘆き、性差別が有形無形に内蔵されて成立する社会福祉制度と実践そのものを問い直すことを提案した。いわく、女性福祉は、社会福祉領域において、性差別の結果として生じた生活不安・困難に直面している女性たちの諸問題を取り上げ、それらがどのようなメカニズムで表出するのか、・・・女性の「性」が理由になって「生」が追いつめられていく状況を記述することから始めたいと呼びかけている。つまり、売春防止法に基づく伝統的な婦人保護事業を特化させて、分野論として「児童」「障害者」「高齢者」の次に「女性」を配置するのではなく、むしろそれらを横断して通底する「ジェンダー・パースペクティブ」の地平を拓き、それも「最底辺や最周辺に追いやられた女たち」がこれまで踏みにじられてきた権利を擁護する、いや、もっとギリギリの「尊厳を回復」するための挑戦が、「女の時代」ともてはやされるこの危うい時代にこそ必要なのだと・・・。  この問題意識を共有して、本稿では、まず、筆者を含め、「女性障害者」というカテゴリーを配当されたマイノリティの隠されてきた声を、論理的な整理の軸に沿って記述することで、女性障害者の「性と生の困難」の構造をスケッチすることから始めたい。その上で、これまで「福祉支援」の果たしてきた意味を問い直し、今後の課題を提起したい。たとえ、この作業が、社会制度としての「福祉支援」の両義性・権力作用・差別構造といった政治性を自己批判していく厳しい作業になったとしても、また、たとえ、この作業が、「女性障害者」として生きる一人一人のトラウマに触れ、憂鬱な気分を誘発することになったとしても、安易な気休めやガス抜きよりはずっと倫理的かつ創造的な試みであると信じて・・・。 1.女性身体規範をめぐって 1)「正統な身体」とプロクルステスのベッド  女性障害者問題を論じるに当たって、避けて通れない「身体論」を、ある少女の切ない物語から始めよう。その少女は、幼い頃、「バレリーナ」になる夢を持っていた。あの造形的に均整のとれた肢体。その指先の動きまでも、極限の身体訓練でもって、正確に自己制御する運動神経。しかも、それらが運動選手の身体表現ではなくて、洗練された芸術を担当する「美しい存在」としての「バレリーナ」に、少女の心は魅了されたのだった。無理もない。美術の教科書に載っているドガの「踊り子」を引くまでもなく、バレリーナたちは、その美しさゆえに、いつも絵画のオブジェであった。大人になった彼女も、当時を振り返って、「自分と同じ生身の女であるプリ・マドンナが、あたかも、美の女神、ヴィーナスの化身として立ち現れているかのような完成された美に、陶酔したのだろう。」と語る。実際、多くの少女は、麻疹にかかるように、一時バレリーナに憧れ、そして忘れる。しかも、大半は、憧れたことすら忘れてしまうほど、屈託ない幼き日の思い出である。が、彼女の場合、その夢に特別な執着を持っていた。なぜなら、それが、「残酷な夢」であることを知ったからである。少女は、母に言う。「私の手と足が手術で治ったら、バレイを習わせてね。」母は、「そうね、6年生になったら手術が受けられるから…」と、困った表情で言葉を濁す。そうして、少女は、6年生で手術を受け、左右の足の長さをそろえてもらった。しかし、コトの分別がつくまでに成長していた12歳の少女の口からは、二度と「バレイ」を聞くことはなかった。そして、それ以来、ずっと黙って非対称な異形の麻痺した身体を引き受けながら、半世紀近くの女性障害者としての時間を生きてきた。  この少女は、筆者自身である。遊び心(研究癖)から、ポリオ会(注1)での自分の語りを女性障害者アイデンティティに関わる幼少期のエピソードに焦点を当てて再構成した物語だ。「当事者が研究者である」ことは、ある意味で便利だ。聞き取りを録音やメモしなくていいし、聞き漏らしの追加インタビューもいらない。自分に問いかければいいだけである。  この際だから、もっと言ってしまおうか。これまで、当事者はずっと調べられてきた。方法論はともかく、「治療目的」「援助目的」という専門的正当性のゆえに、測られ、分析され、分類され、モデル化され、診断されてきた。そして、皮肉なことに、当事者たちの意向とは関係のない文脈で「解決済み」や「対象外」を宣告され、本来「解決などありえない問題」に決着を提示されてきたのである。  長年、情けないほどに、「専門的な援助関係」の配役は固定していた。ところが、最近、当事者が語り、理論を構成し、援助主体の役割を演じ始めている。自立生活運動や海外のディスアビリティ・スタディーズの主力は当事者である。わが国でも、ピア・カウンセリングやセルフ・ヘルプ・グループ実践では、当事者が援助を提供し始めている。また、10年ほど前では、論文のもつ客観主義の作法に従って、著者が障害者であることを悟られるような表現は厳禁であった。主観的な知見は、ただちに排除された。そんな不文律がアカデミスムにはあった。いや、今もそれが主流だろう。しかし、時代は、当事者が語るストーリーを客観的な生育歴(ライフ・ヒストリー)とは区別してその重要性を認めはじめている。このことは、当事者の主観的な経験を「知」と認めはじめている証左であろう。  たとえば、「当事者主権」を宣言した中西正司・上野千鶴子は、当事者運動が合流するこの時代に、専門家主義への対抗としての当事者学を発信し、「公共性」の組み替えを提案している。(注2)しかしながら、驚いたことに、この女性運動と障害者運動が合流した書においてさえ、「女性障害者運動」は、語られていない。もちろん、この指摘は、なんら、この書の価値を下げることにはならないが、「女性障害者問題への社会的関心」の低さを感じないわけにはいかない。  ともあれ、ここで取り上げた「バレリーナ」に代表される「女性身体規範」は、何も異形の身体を持つ女性障害者たちだけに烙印を押すものではなく、本来多様な身体があっていい「健常な女性たち」に対しても、猛威を振るっている。今日的に言えば、スーパーモデルやアイドルを美の頂点と目指す痩身エステやお手軽なプチ整形に始まる美容整形の繰り返し、ファッションにおける標準サイズとしての「9 号規範」と、果てしのないダイエット・・・などは、とりわけ、これから二次性徴を果たして「おとなの身体」へ移行しようとする思春期の少女たちを襲い、不毛なレースへと駆り立てる。勝っても負けても、「女性身体規範」という現代版「プロクルステスのベッド」からは、逃れられず、それに自らの寸法を沿わせて不要部位を切断していくのである。「愚かしい、そんなレース、オリればいい」と誰が一蹴できるだろうか。諸橋泰樹によれば、今や、グローバリゼーション現象の重要な一要素の「世界標準」として、この「女性身体規範」は説明される。つまり、ここでは、「美=開発・発展(=善)」という公式のもとで、欧米資本とその文化・男性意識によって、あらゆる産業と密接に関連しながら、世界規模での「女性意識の植民地化」に成功していると。(注3)「女らしさの制度」が社会規範と化して威力を持ち出すと、現代の医療・産業技術を投入して、人工的な身体や美の「矯正」が進行し、「女性身体」は、限りなく「可塑的な素材(マテリアル)」として扱われ始める。若年女性の摂食障害をはじめとする神経症や自殺は、「痩身」を正統な身体規範とする社会にあっては当然の社会病理現象といえなくもない。  残念ながら、この傾向は、「美容と健康のため」という誰も疑わないスローガンの時代に、もうひとつの「健康規範」と同調して、まだまだ増加していくだろう。ここで私たちが、注意しなければならないことは、この社会現象に対して頻繁に聞こえてくるフェミニズム・バックラッシュの言説である。「女性の自立や男女平等を求める行き過ぎたフェミニズム(女性解放思想)こそが、職場にいても家庭にいても、女性たちの心理的ストレスや精神病理を増大させている張本人」という、ある意味で常套の反動的バッシングの言説が、この経済不況の時期に再び優勢となってきているのである。「大の男が失業する時代だ。女は無理せず家に戻ればいい。」と、家父長制ゴーストの温情的干渉主義の声が、気弱になっている女性たちの耳元でささやかれ、「性役割の植民地」へと連れ戻される。  浅野千恵によると、摂食障害からの回復ないし脱出は、「その個人の自己定義権ないしは解釈権が復活すること」と捉え、逆に、摂食障害に陥っている状態とは、「その人が自らの状況や自己を定義する権利や力(パワー)を剥奪されている状態だ」と定義される。つまり、彼女たちは、家族や医者やカウンセラーの診断を含めて、自分たちの力を奪っていくような否定的な解釈に包囲されて、ますます摂食障害から抜け出すことが困難になっていると報告している。(注4)  問題は、さまざまに「性の具体化という意味での身体」で苦しんでいる女性たちが、どうやって「自分の身体」を取り戻していくかであろう。それは、当事者たちが「客人としての身体(客体)」から、浅野が名付けた「自己定義権ないし解釈権」を我が手に奪還して「主人としての身体(主体)」に変身した唯一無二の「マイ・ボディ」を矜持していくことである。 2)「正常な身体」と整形ノーマリゼーション  さて、「美容と健康」というありふれた生活標語の示す社会規範が、一般女性にただならぬ影響を及ぼすことは議論してきた通りであるが、「女性障害者」を排除するノルムとしては、さらに猛威を振るって作用し始める。  女性障害者たちは、特に身体障害の場合、ポリオ会の「手術自慢大会」を披露するまでもなく、医療技術の対象マテリアルとして、その「身体」を「正常(ノーマル)身体」に近づけるべく整形・リハビリされてきた。が、「美容と健康」を享受する積極的な「開発的女性身体」としては「規格外」として宣告されてきた。せいぜい、リハビリするに「値する女性身体」だけが選別され、「劣等処遇」ではあるが、結婚・出産・育児といった「産む性」としての「身体機能」が容認され、市民的生活の周辺部への参加が許された。  伊藤智香子は、結婚している女性障害者の聞き取りをもとに、具体的な生活の困難の背後にある周囲の人々の「障害者観」を次のように整理している。彼女たちの悲劇は「異質な者」として、また「価値のない者・価値の低い者」として劣位に置かれるだけでなく、「無性の者」として「どこにも位置付けられなかった」ことであろう。周囲の人々は、みな善良な市民であるが、目前に現われた女性障害者を、一般的な「結婚・出産・育児」の機能・役割を担当しうる「女性性」を有する「性的存在」とは承認できず困惑してしまう。そうした心理的不安・恐怖や現実的負担・不利益から結婚・出産・育児のプロセスに反対を表明し抑圧してきたというわけだ。5  残念ながらその抑圧ストーリーは、結婚生活の外圧としてのみならず、連帯して闘うべきパートナーとの関係において、むしろ直接対決という圧倒的な負け戦の中で、性的虐待・暴力といった負の経験を蓄積していく。6 心身ともに傷だらけになって離婚する場合も少なくないが、善良な周囲の人々からの「だから最初から無理といったのに・・・」という、ある種の自己責任論の二次的制裁(セカンド・レイプ)の声を背に浴びて、無力化(ディスエイブリング)された女性障害者は黙って市民的生活から敗者として撤退するのである。もちろん、「ケア役割」を担うはずの妻が要ケアである現実をバネに、非障害女性であれば「オリル」ことの許されない「性役割分業」の桎梏を軽やかに逃れて、新しい関係性を模索し始めるといった勇気の出るケースもなくはない。が、極めて稀である。それこそ、出版企画モノとして扱われ、その成功物語に善良な市民は感動し、「排除していない自分たち」に安堵し、結局、女性障害者の厳しい現実を覆い隠してしまう。  しかしながら、曲がりなりにも「結婚・出産・育児」という市民権を行使している女性障害者たちには、戦う場が与えられているだけまだマシなのかもしれない。「開発に値しない身体」と選別された女性障害者たちの身体は、どうしているのだろう。こう問われると、1970年代後半に、障害者解放運動の中で優生保護法改正問題との関連で「子宮摘出手術」が明るみに出て障害者団体の抗議が相次いだ話が想起される。7  当時、障害者施設において、介助側の「指導的処置」と称して、「去勢手術」や「子宮摘出手術」を施す事例は珍しくなかった。排泄介助の必要な女性障害者の場合、月1 回の生理の始末の大変さやホルモンの影響で精神的に不安定になり、その結果処遇の困難度を増すという理由で、半ば強制的に行われていたり、入所前に手術を奨励されたりしていた。  こうした処遇観の背後には、当然「不良な子孫の出生を防止する」という優生思想がうかがわれる。わが国の「優生保護法」は、1948 年、「国民優生法」を改正して制定され1996年に「母体保護法」8へ移行するが、この法律の下で多くの障害を持つ人々が優生手術を強制されてきたのである。かつて、第2 次世界大戦時、ヒトラー統治下のナチスドイツにおいて制定された「断種法」(1933 年)や「結婚と健康法」(1935 年)と通底する思想が、社会的な規範や医療技術・介助方針として、もう一つの「ノーマリゼーション思想」として今も通用しているのである。9  ところで、わが国では、アメリカ流の自立生活運動の影響が強く、北欧で誕生した「ノーマリゼーション思想」をヴォルフェンスベルガーが継承して「メインストリーム・リハビリテーション理論や同様のソーシャル・ロール・ヴァロリゼーション理論」を運動戦略として採用した関係で、わが国でも福祉の理念として誰も疑わない空気があるが、一方で、特にフーコーの「性・身体論」や「権力・知識論」に始まるD.クーパー、R.D.レイン、A.ゴフマンといった「反精神医学」の系譜を継承するリビジョニスト的立場からは、「ノーマリゼーション」という言説そのものに懐疑的であることを指摘しておきたい。10 また、筆者の分析的立場もフーコディアン的であることから、あえて本節のタイトルに採用した、象徴的な「正常な(ノーマル)身体」への整形ノーマリゼーション思想とその拡大解釈による「障害者にも、当たり前の市民生活を!」と主張する、一見リベラルでもっともらしい言説の中にある「有力な文化への同化主義」には、ラジカルに異議を唱えたい。  むしろ、問い直すのは「当たり前とされる市民生活」の排除規範(この場合は、ディスエイブリズムという障害者差別イデオロギー)であって、そのための当事者運動であるにもかかわらず、「当たり前の市民生活へ、参加と称して同化」していってどうするのだと、「差異の政治学」にからめとられて、「ノーマル・ラインという切断線」そのものを不問にしたまま、その此岸から彼岸へと移り住むことに熱中していていいのだろうかという運動戦略への疑問もある。もちろん、上野千鶴子が周到に指摘するように、「切断線の解消(「共生の福祉のまちづくり」スローガンみたいな)」という単純ユートピア的帰結を目指せと述べているのではない。フーコディアン風に「差異化」という日常の言説実践が権力関係を生んでいくことに自覚的であれば、多様な「切断線(排除問題)」の固有な経験の現場で、対抗的な政治実践を生み出すことも可能だ11 と、そのかすかな希望の経路を探そうとしているのである。 2.支援シナリオのリライト 1)「複合差別」と「多問題」―女性障害者を生きることの困難―  かつて筆者は、女性障害者問題が、一般的には「女性問題」と「障害者問題」のダブル・ハンディ論として単純に論じ分けられることに違和感があって、「ダブルハンディ論でかたづかない複雑な状況」とか「二段階のしかも相互に絡み合った排除の構造」とか「ダブルバインド(二重拘束)な疎外状況」と表現したことがある。12 それは、「女性障害者問題」の本質が、機械的な「因果論モデル」はもちろんのこと、「循環システム」の概念を導入した「エコ・システム論」を根拠に展開される支援シナリオでさえ、まったく見えてこないどころか、隠されてしまうもどかしさを伝えたかったからである。  たとえば、エコマップなどの普及によって、支援マニュアル的にも定着した観のあるエコ・システム論は、心理還元主義を克服する形で「生活支援モデル」を提示した。これまで、「女性障害者の生活支援」は、前述したように「福祉」の名のもとで、医学・心理学基盤の治療モデルの対象として、「エンパワメント」どころか、「ディスエイブルメント・モデル」とでも呼びたくなるようなアンフェアな「隔離された空間での身体を含む全生活の管理」の時代が長かったから、「地域」という「生活環境や資源」に開かれた「システム・アプローチ」は、大きな福音の援助理論であった。  同時進行的に1980年代、「青い芝の会」を中心に各地で展開された障害者解放運動は、「施設と家族」を拒否して、2000 年の社会福祉法に先駆けて、曲がりなりにも「地域での自立生活」を命がけで実践してきたから、この「地域での自立生活支援」モデルは画期的な援軍理論に写ったであろう。実際1996 年からスタートした「市町村障害者生活支援事業」の運営主体に、行政、社会福祉協議会、療護施設とならんで無認可の当事者運動体の発展型組織である「自立生活センター」が認められ、このシステム・モデルと歩調をあわせて「支援事業」が展開し始めている。が、現場は様々な意味で、課題山積の混乱状態と聞く。本来、常に均衡にいたるサブシステム群の関係性のあり方に着目し、そのシステム間の再調和を目指して「機能不全」にアプローチする想定でのこの「支援シナリオ」には、ミクロの「夫婦」・「親子」という「家族システム」や、「会社システム」の属するマクロな「経済市場システム」のそれぞれに内蔵された性差や能力といった権力関係の差別構造を不問にして、「システム群の最大の適応状態を福祉の最大化のレベル」13と功利主義的に評定して「システム」の再調整を試みるのであってみれば、「女性障害者の主体への復帰」は、絶望的とならざるを得ない。「夫婦規範モデル」や「親子規範モデル」の圧倒的な規範モデルへの支援シナリオの中においては、再び性役割分業に代表される「客体の役割を支援する」ように調整され、女性障害者の「複合的に権利を剥奪された状態」そのものの認識は、浮かび上がってこない。まして、「自己決定」や「選択」というもっともらしい言説の影で、逆に弱められてしまう。かつて公害問題で「複合汚染」という用語が、「2 種類以上の汚染物質が相乗的に影響しあって生み出される深刻な汚染状態」を表現する有効な概念として提起されたが、女性障害者問題の認識方法としても、「複数の重大な差別要因が相乗的に影響しあって生み出される深刻な権利を剥奪された状態」と捉えるべきであろう。たとえば、「障害者差別」と闘う運動の中にも「性差別」の実態は歴然としてあり、男性障害者がイニシャティブを取る運動や支援事業、さらに私的な生活において無自覚に発動される諸々の権力作用が、女性障害者に抑圧的に働いてきた歴史がある。14 このことは、ドミナントな規範モデルを内面化して「力強い男」を演じる男性障害者たち15だけを弾じているのではなく、ちょうど写真のポジとネガの関係にあるように、自己定義や解釈権を放棄して陰画化した当の女性障害者たちも含めて、問題認識が甘いのではないかと指摘しているのである。 2)セルフ・ヘルプ / ピア・グループの営み―新しい社会運動として  一方で、こうした割を食った女性障害者運動家たちの中に、伴侶となった男たちが運動に「かまけている」のを横目で眺めつつ、日々の生活や出産・子育てのプロセスで生じてくる地域との摩擦や孤立という「社会的排除問題」に立ち向かう女たちがいた。内田みどりは、こうした「女の視点」がイニシャティブをとるには、「青い芝の会 神奈川県連合会婦人部」では制約が多すぎることから、独立した「CP 女の会」を立ち上げることを決意している。16 かくして、この「CP 女の会」は、実に多くの自明とされた社会規範に挑戦していく。瀬山紀子は、日本における女性障害者運動の歴史を総括して、「社会的につくられた「女性役割」を担うことで達成されると考えられてきた女性障害者の解放の道筋は、女性たちとの議論のなかで再考され・・・その過程で、障害を持つ女性たちは、自らを「性差別」にさらすことで達成される「女性性」を獲得することを目標にするのではなく、「女性性」それ自体を障害者の側から問い返していくという試みをはじめたのである。」17 とまで高く評価している。  この「女性性の再構築」という超難問に、女性障害者たちが、ここまでのびやかに果敢に挑戦できたのは、「青い芝の会」支部ではなく、権力作用の及ばない独立した「主体」となる「女の会」という「ウイメンズ・コレクティブ」を立ち上げたからではないだろうか。自らの生と性の困難と向き合うために、孤立無援の一人では圧倒されそうになる負の経験をピアグループに投げ出し、みなで受け止め、「再定義」し、「別解釈」を確かめながら、一人一人の人生が「再生」していくと同時に「女性性」という社会の規範も「再構築」されていく「復活の空間」である。個々の生活へのサービス支援の重要性は、言うまでもないが、「個々」に分断されていては、起こりようのないアクロバティックな復活のシナリオは、「語りのコミュニティ」が生み出す相互作用の産物であり、その威力は注目に値する。「CP女の会」の事例は、個々の女性障害者の「ボディ・ポリティクス」だけでなく、組織論的にみて、団体(まさにBody)としての「ボディ・ポリティクス」を語る上でも暗示的である。今後、地域での自立生活支援が実体化されていく道程で、その支援の手法として、こうした「復活の空間」を演出するコレクティブ・アプローチとしてのコミュニティワークが再評価されてよいのではないだろうか。 3)最後のセイフティネット・シナリオ  それでも、「複合差別・多問題」として定義される女性障害者の多くは、運動にコミットする機会もなく、単線型の福祉制度から、いともたやすく脱落してしまう、そんなバルネラブルな最底辺や最周辺の社会階層を構成しているのが現実だ。これまで述べてきた身体に光を当てた剥奪現象は、ドメスティック・バイオレンスや施設における慢性的な性虐待に止まらない。自立生活運動が盛んになって、女性障害者が公共の場である「街路」に姿を現すようになってからの新たな脅威は、単に「好奇の視線」だけでなく、レイプやセクシャルハラスメントという「性暴力の危険」である。特に精神障害や発達障害を持つ女性が、こうした性暴力にいかに脆弱であるかはよく知られているところである。ちなみに、歴史的に「パブリック(公共の場)」は男たちの「ホームグラウンド」であり、女たちにとっては「危険地帯」であったということを今日、地域実践を語るときに、どれほどの人々が認識しているであろうか。つまり、家父長制下の男たちは、「所有物」としての「女性身体」をさまざまな方法で囲い監視し管理してきた、と同時に、家外では征服の対象として「女性身体」を狙ってもきたのである。こんなわけで「街路」は、歴史的には女たちにとってある種の緊張を強いられる居心地の悪い空間であったし、今も基本的にそれが解消していないことは、多くの事件報道、とりわけ性犯罪の犠牲者が圧倒的に女性である事実が証明している。18 世間では、「男女共同参画社会基本法時代」を謳うまでになってきたというのに、この落差をどのように社会的に解消していけばいいのであろうか。 折りしも、岩田正美は、「社会福祉実践の大義と対象」という講演19 の中で、「みんなの福祉の陥穽」を厳しく指摘した上で、排除された少数者とか日本ではなかったことになっている貧困への対応策を「福祉の原点・初心」に戻るべきだと提起した。多問題や多様リスクが重なり合った形に対応する仕方として、「自分ではどうしようもない状況が複合的である場合には今ある問題に対応する、あるいはその問題がある資源を欠いている状態だと考えて、その資源を回復していくというような、「事後対応的なやり方」の方がむしろ効果的で、その意味で「福祉援助の原点」回帰を促している。ただし、その際、3 つの留意を示していて、第1 に、この最も不利な状態を生きる人たちが、「私たちの社会の一部」だと自覚した社会のデザインをやり直すべきであること、第2 に、その人々にとっての生活資源の再編成と、その主体的な運営をいかに保証するかであり、第3 には、最終的に非常に重要な認識として、最も不利な状況を生きる人々の「希望を取り戻すしかけを作る」ことと結んでいる。岩田は、ホームレスの人々のことを念頭に語ったソーシャルワーク専門職の大義であるが、多問題や多様リスクが重複して発現してくる社会問題の典型の1 つとして「女性障害者たち」の脱落層の支援にとっても重要な指摘であろう。 おわりに  本稿の執筆は、自分の羽根を抜いて思考を紡ぐような作業であったから、あまり物分りのいい論文にはしたくなかった。手近な希望も語りたくなかった。これまで女性障害者を取り巻くあらゆる言説や解釈が、本来の「身体的不自由」と格闘する以前に、圧倒的な力でもって私たちを「ディス・エイブリング(無力化)」している事実を、まず読み解きたいと考えた。そして鬱屈した煩悶のブルースを行間から届けたかった。平塚らいてうやヴァージニア・ウルフ以来、近代をずいぶん長く生きてきた女たちが、結局のところ、相変わらず出口のない迷宮を彷徨っているような・・・、そんな情景が、「女性福祉のエッジ状況」を語るにふさわしいと感じていた。「男女共同参画社会」なんて、まだまだ眩しすぎて、遠すぎて・・・その幻想を笑っちゃうくらいに、「女性問題」は、100年経っても何一つ根本的には解決していないではないか・・・と「女性障害者問題」を解きながら、不機嫌に挑発したかった。 注 1 1995年「ポリオの女性の会」として発足し、その後「神戸ポリオネットワーク」(会員約500)と名称を変えながら近畿・中国・四国地方へと広がり、同時発生していた関東・北海道の会と連携して2000 年「全国ポリオ会連絡会」(会員約1500)が結成。ポストポリオ(二次障害)予防のための医療・リハビリ・福祉・生活情報の提供や会員の親睦、制度改革への社会運動(障害者差別禁止法制定運動)などに取り組むセルフヘルプグループ。会活動の詳細は、神戸ポリオネットワーク編集・発行『ポリオとともにーポリオ罹患者生活情報―』2004 参照。 2 中西正司・上野千鶴子『当事者主権』岩波新書 2003 pp.1-19 参照 3 諸橋泰樹『雑誌文化の中の女性学』明石書店1993 p.166 参照 4 浅野千恵『女はなぜやせようとするのか―摂食障害とジェンダー』頚草書房1996 pp.1-30 参照 5 伊藤智香子「女性障害者の結婚生活と障害者観―結婚している女性障害者の聞き取りを基に」 杉本貴代栄『ジェンダー・エシックスと社会福祉』ミネルヴァ書房 2000 p.154-169 参照。 6 CP 女の会編著『おんなとして、CP として』同会発行 1994 、伊藤智香子「ジェンダーから見た障害者問題」杉本貴代栄『フェミニスト福祉政策原論』2004 p.192-194 など参照。 7 詳細は、たとえば、米津知子・村山美和「北京からの報告―女性・障害者をめぐる二つの会議から」『季刊福祉労働』69 号 現代書館 や 女のからだから’82 優生保護法改悪阻止連絡会(現在の「SOSHIREN」)他編 『もういらない!堕胎罪と優生保護法―わたしのからだ わたしがきめる』同連絡会 1996 などがある。 8 「母体保護法」は、堕胎罪・優生保護法廃止を内外に訴えて制定されたが、94 年カイロ国際人口・開発会議で国際的な批判にさらされたこと、また96 年らい予防法廃止などをきっかけに、同年6 月に優生保護法の「優生」にかかわる部分は削除され、母体保護法と改められた。しかし、堕胎罪や中絶における配偶者同意の見直し、女性の自己決定尊重などは盛り込まれず、女性を母体と規定するなど多くの問題を残している。また、優生保護法下での強制的な不妊手術などの人権侵害の事実検証・補償もなされていない。井上輝子・上野千鶴子・江原由美子・大沢真理・加納実紀代編『岩波 女性学事典』岩波書店2002 p.442-443 参照。 9 ギャラファー,H.G.,長瀬修訳『ナチスドイツと障害者[安楽死]計画』現代書館参照。 10 たとえば、Helen Meekosha ” Body Battles : Bodies, Gender and Disability “ Tom Shakespeare ed.,”The Disability Reader Social Science perspectives” Cassell 1998 など。 11 上野千鶴子「差異の政治学」『ジェンダーの社会学』岩波書店1995 p.23 参照 12 加納恵子「「女性障害者問題」を論じる今日的意味」『障害者の福祉』日本障害者リハビリテーション協会vol.4 no.3 1994 pp.6-9 参照。 13 加茂陽『ヒューマンサービス論―その社会理論の批判的吟味―』世界思想社 1998 p.148 なお、加茂は、北米の「ソーシャルワークの基礎となる理論モデル」の変遷を検討する中で到達した「ポスト・ポストモダンのソーシャルワーク実践:ソーシャルアクション論」を提案しているが、一貫して強調している援助理論の重要性と、同時にその限定された役割や援助行為の理論に対する優位性にまず多くの示唆を受けた。そして、何より「ワーカーとクライアント間のある水準の相互理解の可能性(いわゆるヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を通しての)」をポストモダンの「ナレイティブ(物語)モデル」に担保して、一つの物語に過ぎないことを踏まえつつも、その相対主義を越えたところでクライアントが表明する「アクション」という変化の志向性に、ワーカーは「変化」の持続を維持する条件を整えていくという援助の営みを「ポスト・ポストモダン論」として示して、「福祉援助実践」への理論的後方支援を試みている。 14 瀬山紀子「声を生み出すことー女性障害者運動の軌跡」石川准 倉本智明編著『障害学の主張』明石書店 pp.145-173 参照。 15 倉本智明「欲望する、<男>になる」同掲 p..119-144 参照。 16 内田みどり「私と「CP 女の会」と箱根のお山」CP 女の会編『おんなとして、CP として』同会発行 1994 pp.8-16 参照。 17 瀬山紀子 前掲 pp.163-164 参照。 18 Helen Meekosha ” Body Battles : Bodies, Gender and Disability “ Tom Shakespeareed.,”The Disability Reader Social Science perspectives” Cassell 1998 p.178 参照。 19 岩田正美「基調講演 社会福祉実践の大義と対象」『ソーシャルワーク研究』30 巻1号 2004.4 pp.5-14 参照。 参考文献 1.神戸ポリオネットワーク編集・発行『ポリオとともにーポリオ罹患者生活情報―』 2004 2.中西正司・上野千鶴子『当事者主権』岩波新書 2003 3.諸橋泰樹『雑誌文化の中の女性学』明石書店1993 4.浅野千恵『女はなぜやせようとするのか―摂食障害とジェンダー』頚草書房1996 5.杉本貴代栄『ジェンダー・エシックスと社会福祉』ミネルヴァ書房 2000 6.杉本貴代栄『フェミニスト福祉政策原論』ミネルヴァ書房 2004 7.CP 女の会編著『おんなとして、CP として』同会発行 1994 8.井上輝子・上野千鶴子・江原由美子・大沢真理・加納実紀代編『岩波 女性学事典』岩波書店2002 9.ギャラファー,H.G.,長瀬修訳『ナチスドイツと障害者[安楽死]計画』現代書館1996 10.Tom Shakespeare ed.,”The Disability Reader Social Science perspectives” Cassell 1998 11.上野千鶴子「差異の政治学」『ジェンダーの社会学』岩波書店1995 12.加茂陽『ヒューマンサービス論―その社会理論の批判的吟味―』世界思想社 1998 13.石川准 倉本智明編著『障害学の主張』明石書店 『ノーマライゼーション4 月号』2012 特集「自立支援法に代わる新法への期待」p.30-31 またもや挫折!?―複合差別からのレッスンを生かせー 加納恵子(かのうけいこ)関西大学  残念の一言。新法の厚生労働省案は、「障がい者制度改革推進会議」の画期的な骨格提言をみごとに骨抜きにした残骸法案としか評することができない。また、障害者自立支援法違憲訴訟原告団と厚生労働省との和解により締結された基本合意文書が全く反映されず、これでは悪名高い「障害者自立支援法の一部改正による存続」を目論む背信行為としか受け取れないではないか。TV やYOUTUBE の配信動画を見て、どれだけの人が憤りに震えただろう。まだ、憤るエネルギーがあるうちはいい。多くの介護事業所が自転車操業のような運営状況に疲弊し、当事者たちも介護人確保にあくせくしている。介護する側も受ける側も、生活を回すことで精一杯、何のための自立だったのか・・・、家や施設を出た次の自立物語が紡げないままの宙づり状態で、どれだけ持ちこたえられるの・・・。  しかし、思い起こせば、いやな兆候はあった。私は、これまで「障害とジェンダー」のクロスする視点から「女性障害者問題」を当事者の端くれとして、また地域福祉の立場から論究してきた 1 が、推進会議構成員の勝又幸子が本誌2 月号で「障害者基本法改正における挫折」 2 と厳しく評した通り、「女性障害者の被っている複合差別への理解」を求めた意見具申は完全に黙殺され、「何、これ!?」と、厚顔な厚生官僚の顔を思い浮かべながら苦々しく思っていた。  本稿では、「改正案」の具体的な論点批判もさることながら、障害者権利条約の批准に向けて気合の入れ直しという意味で、自分の立ち位置の原点に戻って「障害とジェンダー」のクロスする領域、つまり「複合差別からのレッスン」に関して2 点ほど言及したい。  第1 に、勝又の主張する「複合差別の実態」が、政策立案者側だけでなく、実は運動全般において十分なコンセンサスを得られていないのではないかとの懸念である。障害者の権利条約の前文や第6 条では「女性障害者」に焦点を当て、その人権と基本的自由の完全な享有を促進するためにジェンダーの視点を組み込んだ適切な措置の必要性を述べている。このことは、女性障害者の特別扱いを求めているのではなく、彼女たちが置かれた「複合差別」の状況が深刻な人権侵害の問題として社会的に承認される重要性を訴えたのである。  ちなみに、男女共同参画基本法では第3 次基本計画において、女性障害者の課題への言及が増え、複合的に困難な状況に置かれている集団の課題が明示されるようになった。例えば、女性障害者のDV 被害など、これまで隠蔽されてきたハードコアな問題に向き合うことで性差別社会の病巣を照射し、ようやく対策次元においても実効性を伴う制度化が講じられていくのである。  同様にして、本法案においても障害と性差の掛け算が、想像を絶する深刻な事態を招いているという現実へのタフな認識を共有しない限り、政策次元との温度差は埋まるまい。今後の課題として、自戒を込めて、より精緻なジェンダー統計や事例からの差別・排除の実態把握と政策提言が急がれる。  2点目は、「介護保障」の問題についてである。障害者が施設地域移行し自立生活を営む上でライフラインとなる「介護保障」の問題は、同時に「介護」を生業とする介護者の「生活保障」の問題であり、コインの表裏のごとくセットで整備される必要がある。この当然の要求がなぜ十分に行われてこなかったのだろう。  介護の意義は高く評価されるのに賃金評価が低いことの背景には必ず「ジェンダー問題」が横たわっている。すなわち、ケアの性別役割分業意識という社会規範が暗黙のうちに女性ケアラーを想定させ、母であれ妻であれ娘であれ、そして施設職員であれヘルパーであれボランティアであれ、シャドウワーク(私的領域のただ働きの含み資産)かピンクレイバー(女性労働故に低賃金になるという意味)に囲い込まれてきた歴史的経過がある。 3  ところが、現実には、自立生活運動の進展において多くの男性介護者が運動の担い手として、あるいは共感するボランティアとして介護を担ってきた。支援費制度以降は「職業」として選択する男たちも増えた・・・が、ケアワークでは食えないのである。彼らの存在が男性障害者の自立生活に大きく貢献し「同性介護」を前進させた功績はもっと評価されてしかるべきであるのに、「労働」としての雇用形態や賃金評価は低いままであった。なぜか。それは社会的に「女性労働」とみなされたからである。  この問題は、かつて障害者運動の「介護料要求運動」として取り組まれた経緯があるが、運動における「当事者-介護者」関係の議論は、「手足論」や「共感論」など複雑な紆余曲折をたどって今日での十分に整理されていない。4ともあれ、ここでは「介護料」設定に不当なジェンダーバイアスを是正して介護者の生活保障の観点をもっと強く入れることを求めたい。我が国の障害者福祉予算はOECD 加盟国の平均の半分程度であるが、せめて平均並みに倍増させて充実を図るべきであろう。さらに、一般市民もきれいごとではない「シビアな共生」を一人ひとりが覚悟し、納税者としてその福祉施策の立案執行過程にも関心を持ち目を光らせるコミットメントが求められる。 1 加納恵子「女性障害者問題を読み解くー女性身体規範をめぐってー」林千代編著『女性福祉とは何か』ミネルヴァ書房2004 2勝又幸子「障害者基本法改正と女性障害者」『ノーマライゼーション障害者の福祉2 月号』32 巻2 号 日本障害者リハビリテーション協会 2012 3加納恵子「地域福祉とケアの思想〜ケアの社会化の意味するもの〜」右田紀久恵・上野谷加代子牧里毎治編著『21 世紀への架け橋―社会福祉のめざすものー2 巻:福祉の地域化と自立支援』中央法規出版2002 4 渡邉琢『介助者たちは、どう生きていくのかー障害者の地域自立生活と介助という営み』生活書院2011