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障がい者制度改革推進会議

DINFのお知らせ

シンポジウム 「もっと知ろう、デイジー教科書を!」
日時:2013年02月03日(10:30~16:00)
場所:戸山サンライズ 大研修室
 

Enjoy Daisy 読めるって楽しい!

公益財団法人日本リハビリテーション協会は国際シンボルマークの取扱いを行なっています。

障害者福祉の総合月刊情報誌『ノーマライゼーション』発売中

マルチメディアDAISYのCD-ROM付き絵本『赤いハイヒール』発売中

Ⅰ はじめに 作業チーム作成(案)

目次

Ⅰ はじめに

1.序 日本の障害者施策の経緯

  • 1)戦前・戦中
  • 2)戦後直後
  • 3)1960年代
  • 4)1970年代
  • 5)1980年代から1990年代前半
  • 6)1990年代後半から現在まで

2.国際動向と障害者権利条約

  • 1)世界人権宣言と条約化の背景
  • 2)障害に関連した国際連合の動き
  • 3)障害に関連した諸外国の動き
  • 4)障害者権利条約

3.障害者制度改革

  • 1)障害者制度改革に向けた動き
  • 2)障害者制度改革に関する審議の経過

Ⅱ 障害者制度改革の基本的考え方

1.「権利の主体」たる社会の一員

2.「自己選択・自己決定」の尊重

3.「差別」のない社会づくり

4.「社会モデル」的観点からの新たな位置付け

5.「共生社会」の実現

Ⅲ 障害者制度改革の基本的方向と今後の進め方

1.全体的な当面の進め方

  • 1)平成22年内の進め方
  • 2)平成23年以降の進め方

2.基礎的な課題における改革の方向性

  • 1)インクルーシブな社会の構築
  • 2)障害の捉え方
  • 3)障害の定義
  • 4)差別の定義
  • 5)障害の表記

3.横断的課題における改革の基本的方向と今後の進め方

  • 1)障害者基本法の抜本的改定
  • 2)障害を理由とする差別の禁止
  • 3)障害者総合福祉法

4.個別分野における改革の基本的方向と今後の進め方

  • 1)労働及び雇用
  • 2)教育
  • 3)所得保障
  • 4)医療
  • 5)障害児支援
  • 6)虐待防止
  • 7)建物利用・交通アクセス
  • 8)情報アクセス・コミュニケーション保障
  • 9)政治参加
  • 10)司法手続
  • 11)国際協力

5.改革集中期間における推進体制に係る基本的方向

Ⅳ 日本の障害者施策の経緯

障害者制度改革の推進のための基本的な方向
(第一次意見)素案

Ⅰ はじめに

1、序

"Nothing about us without us"(私たち抜きに私たちのことを決めるな)は、「障害者の権利に関する条約(仮称)」策定の過程において、すべての障害者の共通の思いを示すものとして使用された。これは、障害者が一般社会から保護される無力な存在とされ、自分の人生を自らが選択し、自らが決定することが許されなかった障害者の共通の経験を背景としている。そして、一般社会による保護的支配からの脱却と普通の市民としての権利を持つ人間であることを強く訴えるものであった。

しかし、このような障害者のあたりまえの思いを一般社会が受け入れるまでには、長い歴史の時間を要した。日本においても、戦前の国民優生法(1940)を戦後に強化した優生保護法(1948)が「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という目的を掲げ、強制的な不妊・断種手術が障害者をはじめ1万6千人以上に対して実施された。まさに障害者が本来あってはならない存在であることを国家が法律で規定していたのである。同法の優生条項が削除され、母体保護法となったのはようやく1996年であった。

障害者に関連する施策が徐々に進展してきたことは事実である。しかし、依然として、日本の障害者は、多くが貧困層に属し、本人が希望する地域での普通の生活を許されずに施設や病院で一生を過ごす人も数多く存在する。およそ1世紀も前に、精神科医の呉秀三は日本の精神障害者のおかれた状態を「此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」と述べているが、その状態は時代の進歩を経た現在においても基本的には変っていない。障害者に一般市民以下の生活と無権利状態をもたらしている私たちの社会の認識と国家の政策をどう変えるのか、そしてこのような社会のあり方が障害者の現在の状態を生み出している状況をどのように転換していけるか、まさにその大きな変革(Change)が求められている。

戦後、日本の障害者に関連する法制度は日本国憲法が保障する社会権を基盤としながら順次整備されてきたが、自由権を基盤とする権利を保障する法律は皆無に近い。その結果、社会権を基盤とするサービスは自由権的基盤を有しない無権利性と、自由権そのものを侵害しかねない一般社会からの排除ないし隔離的傾向をもたらしている。障害者の権利に関する条約(以下「権利条約」という。)の視点にたち、自由権と社会権の枠組みを越え、市民との平等を基礎とした人権法に向けたパラダイムの転換が求められている。

そうしたパラダイムの転換があってこそ、社会権を基盤とするサービスも真に障害者のニーズに基づく形で提供されるようになるとともに、その充実にもつながる。福祉・医療・教育などの社会権の実現は、依然として自己責任や家族依存の色彩を強く残し、質的にも量的にも不十分である。今後は障害児・者が個人として尊重され、差別なく平等に地域社会の一員であることが認められることが政策目標とされなければならない。

今、世界の障害者は、権利条約の策定過程への参画(決定権をもつ参加)を通して、自らの存在を示すとともに、障害種別をこえた連帯による変革の可能性を明らかにした。権利条約は、障害関連の政策決定過程に障害者自身の参画を求めている。それは障害者の主体的な参画と、政府および一般社会との新たなる関係と協働の創造こそが、障害者自身を含む社会のすべての人の意識と制度を大きく変える原動力だからである。障害者を含む、あらゆる人の参画によって、私たちの社会はいっそう、本当の意味で豊かで、個人や集団の違い・多様性を尊重する、真に創造的で活力ある社会となることができると、私たちは確信している。

2009年9月に誕生した民主党を中心とする政権は、この権利条約の趣旨に即して、障害者の制度改革の新たな枠組みとして、「障がい者制度改革推進本部」の下に「障がい者制度改革推進会議」を設置し、障害者とその関係者を中心とした改革のためのエンジン部隊を用意した。

私たちは、かつてないこのような画期的な推進会議の一員として制度改革の重責を自覚し、本年1月より関連する制度全般にわたって各回4時間を超える議論を全14回にわたって重ねてきた。

ここに提示する第一次意見書は、私たちの総意として日本の障害者制度の諸課題について、その改革の基本的方向を示したものである。

2.国際動向と権利条約

1)世界人権宣言と条約化の背景

国際連合は、人権が保障されることが平和の礎として極めて重要であることを確認して、戦後いち早く世界人権宣言(1948)を発し、以後、人種差別撤廃条約(1965)、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(1966)、市民的及び政治的権利に関する国際規約(1966)、女子差別撤廃条約(1979)、拷問等禁止条約(1984)、児童の権利条約(1989)などの条約を採択し、各国に批准を求めた。

2)障害に関連した国際連合の動き

これらの人権条約の中で最初に障害に基づく差別を禁止したのは児童の権利条約であったが、国際連合は1970年代から障害問題に注意を向け、精神遅滞者の権利宣言(1971)、障害者の権利宣言(1975)を出し、さらに、障害者の「完全参加と平等」の実現を目指して、1981年を「国際障害者年」とし、1982年には「障害者に関する世界行動計画」を採択し、1983年には1992年までを「国連障害者の十年」と宣言して各国に、同行動計画の実施を求めた。

「国連障害者の十年」の中間年(1987)には専門家会議が開かれ、法的拘束力のある障害者差別撤廃条約の必要性を訴えた。これを受けてなされたイタリア(1987)およびスウェーデン(1989)の条約化に向けた提案は、いずれも国連総会で合意が得られなかったが、これらの動きは障害者の機会均等化に関する基準規則(1993)に結実した。

3)障害に関連した諸外国の動き

アメリカでは、1973年に連邦ないし連邦から補助を受けている団体による差別を禁止するリハビリテーション法504条が追加され、1975年には統合教育を基本とする全障害児教育法が制定されるなど、障害者に関連する様々な権利法の制定を経て、1990年には合理 的配慮を明文として掲げた法律である「障害のあるアメリカ人法」(ADA)が制定された。このADA は、その後、オーストラリアやイギリスをはじめ、多くの国の差別禁止法の制定に貢献することになった。

これらの各国の動向は、1999年の障害者に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する米州条約の採択、さらには2000年の雇用及び職業における均等待遇のための一般的枠組を確立するEC2000年78号閣僚理事会指令などにも結実し、このような世界的な動向が権利条 約策定の背景となった。

4)権利条約

権利条約は、2001年メキシコのビセンテ・フォックス大統領の提案を機に以後2002年から2006年まで1回の作業部会と8回にわたる委員会とが開催され、2006年12月に第61回国連総会で採択され、2008年5月には発効した。

「障害者の権利に関する条約(Convention on the Rights of Persons with Disabilities)」は、前文、本文50ケ条及び末文から成る。なお、この条約と同時に採択された、個人通報制度等に関する「障害者の権利に関する条約選択議定書(Optional Protocol to the Convention on the Rights of Persons with Disabilities)」は、前文、本文18ケ条及び末文から成る。

この条約の特徴は、"Nothing about us without us"のスローガンに象徴されるように、その制定過程に障害当事者をはじめとする障害関連団体が参画したことである。さらに、非差別・平等を基調とし自由権と社会権を包括していることである。

この条約の目指すところは、障害者の実質的な権利享有上の格差を埋め、保護の客体でしかなかった障害者を権利の主体へとその地位の転換を図り、インクルーシブな共生社会を創造することである。

権利条約は、前文に引き続き9ケ条の総則規定を設けているが、この中で条約の原則として、以下の内容が盛り込まれている。

  • 固有の尊厳、個人の自律(自ら選択する自由を含む。)及び人の自立に対する尊重
  • 非差別
  • 社会への完全かつ効果的な参加及びインクルージョン
  • 差異の尊重、並びに人間の多様性の一環及び人類の一員としての障害のある人の受容
  • 機会の平等
  • アクセシビリティ
  • 男女の平等
  • 障害のある子どもの発達しつつある能力の尊重、及び障害のある子どもがそのアイデンティティを保持する権利の尊重

その上で、21ケ条の各則規定を設け、個別の人権を幅広く規定している。さらに、条約実施を担保する国内的、国際的モニタリング、国際協力等についての規定を設け、最後に、条約の効力発生等の規定が設けられている。

日本は、2007年9月に条約に署名したが締結には至っておらず、後述するように、現在、同条約の締結に必要な国内法の整備をはじめとする障害者に係る制度の集中的な改革に取り組んでいるところである。

3.障害者制度改革

1)障害者制度改革に向けた動き

権利条約の策定に深く関わった日本障害フォーラム(JDF)は、策定段階から各省庁との意見交換などを通して、この条約の批准に際して必要とされる国内法制全般にわたる改革を申し入れてきた。

権利条約の締結に関して必要とされる措置につき、具体的な検討を明らかにしたものとして、厚生労働省職業安定局高齢・障害者雇用対策部長のもとで2008年4月から始まった「労働・雇用分野における障害者権利条約への対応の在り方に関する研究会」による差別禁止を含めた条約対応への在り方に関する議論、及び障害者施策推進本部の下に置かれた障害者施策推進課長会議において、2008年12月、障害者基本法に「合理的配慮の否定」が差別に含まれることを明記するとともに、中央障害者施策推進協議会について監視等の所掌事務を追加するとの結論を出したことが挙げられる。

また、文部科学省においても2008年8月より「特別支援教育の推進に関する調査研究協力者会議」の中で、合理的配慮やインクルーシブ教育についても議論された。

このような状況の中で、2009年3月、日本障害フォーラムは拙速な条約の批准に反対の意を表明し、条約の実施を担保するに足る法制度の変革を求めた。一方、当時の野党であった民主党が2009年4月に提出した「障がい者制度改革推進法案」は衆議院の解散により廃案となった。

その後、同年9月に成立した新政権の下で、12月「障がい者制度改革推進本部」が閣議決定により発足した。

関連した重要な動きとして、2010年1月7日の障害者自立支援法違憲訴訟原告団・弁護団と国(厚生労働省)との基本合意がある。 同合意には、障害者自立支援法廃止の確約と新法の制定が明記されているほか、障がい者制度改革推進本部における「障害者の参画の下」の「十分な議論」を行うことを求めている。

2)障害者制度改革に関する審議の経過

2009年12月、権利条約の締結に必要な国内法の整備をはじめとする障害者に係る制度の集中的な改革を行い、関係行政機関相互間の緊密な連携を確保しつつ、障害者施策の総合的かつ効果的な推進を図るため、内閣に「障がい者制度改革推進本部」が設置された。

さらに、同本部の下に、障害者施策の推進に関する事項について意見を求めるため、障害者、障害者の福祉に関する事業に従事する者及び学識経験者等からなる「障がい者制度改革推進会議」(以下「推進会議」という。)が開催されることとなった。

推進会議は2010年1月から審議を開始し、障害者基本法の抜本改正、障害者差別禁止法制の制定、総合福祉法の創設に向け、障害者の雇用、教育、医療、司法手続、政治参加等の各分野及び「障害」の表記、予算確保に関する課題等について幅広く審議を行うととも に、関係する民間団体や所管府省からのヒアリング等、計14回にわたり精力的に審議を行ってきた。

なお、同年4月から推進会議の下に「障がい者制度改革推進会議総合福祉部会」(以下「総合福祉部会」という。)を設け、障害者に係る総合的な福祉法制となる「障害者総合福祉法」(仮称)の制定に向けた検討に着手しているところであり、総合的な障害者とその家族の実態調査にも取り組むほか、改革が必要な他の分野についても、今後、推進会議の下に部会等を設け検討を進めていく予定である。

このたび、推進会議におけるこれまでの議論を踏まえ、障害者制度改革の基本的な方向について第一次意見として取りまとめたものが本意見書である。

Ⅴ 日本の障害者施策

1)戦前・戦中

日本の国家による本格的な障害者施策は戦後から始まった。戦前においては一般的な窮民対策としての「恤救規則」(1874)や「救護法」(1929)の中で障害者が救貧の対象とされるか、あるいは精神障害者に対しては「路上の狂癲人の取扱いに関する行政警察規則」(1875)等に表れているように治安・取締りの対象でしかなかった。

個別の障害者施策による保護も存在はしたが、大前提は現在も続く「家族依存」であり、それ以外の障害者に対する保護はもっぱら民間の篤志家、宗教家、社会事業者の手に委ねられていたと言っても過言ではない。国家の施策の対象は軍事扶助法(1917年制定、1937年改定)などにより、ほぼ傷痍軍人に限られた状態だった。

2)戦後直後

ところが、敗戦を機に日本は、GHQのの指示の下で社会福祉に対する施策を打ち出すと共に、日本国憲法に福祉が位置付けられた。

その結果、生活保護法(1946)、児童福祉法(1947)、身体障害者福祉法(1949)のいわゆる福祉三法が、さらに、福祉事業を民間が行う受け皿として社会福祉事業法(1951)が制定された。

これにより、福祉サービスは、1.行政の措置として提供され、2.その事務は、国の責任を前提として国から委任を受けた地方公共団体の長により国の機関として処理され、3.その費用は応能負担とするという戦後長く続いた社会福祉の基礎構造が形成され、また、本来国家がなすべき福祉事業を民間の社会福祉法人に措置委託という形式で行わせるための基盤が整えられた。

また学校教育法(1947)が制定され、従来は教育の対象とされていなかった障害児に対し、特殊教育という分離別学の形で教育の機会が与えられるようになった。

ただし、国が予算の範囲で、こうした施策を展開するために、医学モデルなどによる、障害等級などを設け、制限を行ったこと、さらに福祉法の目的を「経済的自立可能性」を前提として、対象を制限してきたことは無視できない点である。戦後の歴史は、1960年代の対象拡大の一方で、訓練主義的要素を重視し、かつ保護主義的(コロニー化・「愛される障害者像」)な問題も複合的に内在していた点を見逃せない。

3)1960年代

1960年代に入ると高度経済成長を背景に、国民年金法に基づく無拠出制の福祉年金の支給が開始され(1960)、また、一般就労への促進を図る身体障害者雇用促進法(1960)が制定された。

しかし、その反面、援護施設を中心にした精神薄弱者福祉法(1960)が制定され、障害種別ごとの施策が展開されるとともに、以後、特に知的障害者や「重症心身障害児」の入所施設の増加を見るなど、終生保護に対して起きたノーマライゼーションの思想や脱施設化へ 向かう世界的動向とは相反する施策がとられた。

また障害児教育も障害のない子との分離別学のままであり、文部省が1961年に出版した「わが国の特殊教育」においても「普通の学級の中に、強度の弱視や難聴や、さらに精神薄弱や肢体不自由の児童・生徒が交じり合って編入されているとしたら、・・・学級内で大多数を占める心身に異常のない児童・生徒の教育そのものが、大きな障害を受けずにはいられません。」と当時の考え方が率直に記されている。

精神障害については、医療金融公庫法が施行(1960)され、すでに始まっていた私立精神科病院設立の動きを助長した。改正刑法準備法案(1961)が出され、措置入院国庫負担率が引き上げられた(1961)。精神衛生法(1950)がライシャワー事件を契機に改定(1965)され、以後、精神病床も世界に類をみないほどに増加の一途を辿ることになった。WHOはクラーク勧告により日本の閉鎖的収容主義的な精神医療の在り方を非難した(1968)。

4)1970年代

1970年代にはいると、1960年代に展開された諸施策について施策の基本を示す心身障害者対策基本法(1970)が制定された。しかし、その目的は発生の予防や施設収容等の保護に力点を置くものであり、しかも、精神障害者は除外されたままであった。

また、以前より大きな社会問題となっていたスモン薬害病についての研究体制整備が契機となって、1972年には、1.原因不明、治療方法未確立であり、かつ後遺症を残す恐れの少なくない疾患、2.経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず、介護等に著しく人手を要するため家族の負担が重く、また精神的にも負担の大きい疾患に関して、難病対策要綱が示され、調査研究の推進、医療施設の整備、医療費の自己負担解消を三本柱とする対策が始まった。

ところで、高度経済成長に支えられた1960年代の障害者施策の展開は、オイルショック(1973)の影響を受けることになるが、それに抗して、身体障害者雇用促進法は大改正され(1976)、それまで努力義務でしかなかった法定雇用率制度が義務化されるとともに納付金制度が導入された。

さらに、この時期、盲・ろう学校についてはすでに1948年から学年進行の形で義務制が実施されていたが、養護学校については、1973年に義務制の実施を予告する政令が公布され、1979年には実施に移された。これにより、これまで就学猶予・免除という扱いとされてきた障害児の全員就学体制が整えられることにはなったが、その反面、世界的には同時期に開始されていた統合教育、さらにはその後のインクルーシブ教育とは異なる原則分離の教育形態が障害児教育の基盤となった。

5)1980年代から1990年代前半

1980年代に入って日本の障害者施策に影響を与えたのは「完全参加と平等」をテーマとした国際障害者年(1981)、障害者に関する世界行動計画(1982)及び国連・障害者の10年(1983~1992)であった。この時期、ノーマライゼーションの理念が普及し、施設入所中心の施策に地域福祉を加味する形で関連法や施策が変更されるに至った。

とくに、国民年金法の改正(1985)による基礎年金制度の創設に合わせて障害年金の充実が図られ、身体障害者雇用促進法が知的障害者も対象とする障害者雇用促進法(1987)に改定されるなど所得保障などに関して重要な変更がもたらされた。しかし、在日外国人障害者を含む、無年金者の問題など、さらに取り組むべき課題も残されている。

精神障害分野では宇都宮病院事件(1984)が発覚し多数の不審死が疑われ、他にも類似、同様な事件が続発した。国連人権小委員会でも取り上げられ、日本における精神障害者の人権と処遇に関する国際法律家委員会及び国際医療従事者委員会合同調査団の結論と勧告(1985)が発表された。こうした国際社会の圧力を契機に、精神保健法(1987)が成立した。

いわゆる福祉八法改正(1990)においては、身体障害者福祉法や知的障害者福祉法に在宅福祉サービスが法定化されるとともに、地方分権化が図られ、従来の機関委任事務が団体事務に改められた。 心身障害者対策基本法も障害者基本法(1993)に改定され、定義の上では三障害の統一が図られるとともに、前述の精神保健法がこの基本法改正の流れを受け、目的に自立と社会参加促進を取り入れた精神保健及び精神障害者の福祉に関する法律(1995)に改定された。加えて、難病に関しては正面から障害者としての位置づけのないままであったが、難病患者等居宅生活支援事業(1997)の開始により、地域における難病患者等の自立と社会参加の促進が図られるようになった。

さらに、地域生活の基盤整備にも法的整備が図られた。従来、地方自治体で進められていた、まちづくり条例の普及を踏まえ、高齢者や身体障害者等が円滑に利用できる建築物の建築の促進を図ることを目的として、高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律(ハートビル法、1994)が制定された。

このように、この時期は地域福祉に向けた一定の施策が進んだ重要な時期であったと言える。

しかし、国際的な人権条約である、児童の権利に関する条約については、不十分な国内実施にとどまった。1994年、障害にもとづく差別の禁止と障害のある児童の権利を明記した同条約を日本は批准した。この条約は児童の一般的権利としても意見表明権や、独立した監視機関の必要性を規定しているが、これを明文化する国内法の整備はされなかった。また条約は可能な限り統合された環境での教育が保障されるべきであると明記していながら、原則分離の教育形態は維持された。1998年と2004年に、日本政府は国連児童の権利委員会から、児童の一般的権利の確保と共に、障害のある児童の実態調査とあわせ、統合の促進を勧告されている。

6)1990年代後半から現在まで

1990年代後半からは、地域生活の基盤整備の流れを受けて、高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法、2000)、補助犬を使う身体障害者の自立と社会参加を促進する身体障害者補助犬法(2002)が制定され、さらにはハートビル法と交通バリアフリー法を統合化した「高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律」(2006)が制定されるなど、建物の利用や交通移動の面での施策に前進があった。

医療分野では、1996年に強制的隔離収容医療の典型であった「らい予防法」がようやく廃止された。また、予防を重視するあまり、感染者を監視し取締的であり、差別と偏見をあおるとして、1987年の制定時から強い反対のあったエイズ予防法も、1998年、他の感染症とまとめてひとつの法律として感染症予防法に抜本的に改定された。これによって、従来感染症に対する医療が患者の人権よりも社会防衛的であったことに反省が加えられ、強制的隔離医療は限られた短期間、厳格な要件のもとでしか認められなくなった。

なお、日本の障害者に対する介護は家族中心であり、福祉・教育・医療を含む生活全般を家族に依存している。この深刻な家族依存は、家族に重い負担を課し、障害者に対する重大な人権侵害となり、あるいは社会的入院・入所の要因となっている。精神保健福祉法が改定(1999)されるまでは、精神障害者の保護者は、日々の生活の介護だけではなく、治療を受けさせ、他人に害を与えないよう監督する義務を負わされていた。1998年、仙台地方裁判所は親がこの監督責任を果たさなかったことを理由に1億円もの損害賠償を命じ、ようやくその理不尽さが広く理解され、自傷他害防止の監督義務だけは法文から削除された。しかし、依然として家族の責任は軽減されていない。

労働面の課題については、2007年に全国福祉保育労働組合が、日本障害者協議会(JD)などの支援を受け、「日本政府の障害者雇用施策は、国際労働機関(ILO)の職業リハビリテーション及び雇用(障害者)に関する条約(第159号条約)および関連の勧告に違反する」として、「ILO提訴」を行った。この提訴に対してILOから出された報告書(2009年3月)では、同条約などに違反しているとまでは認定しなかったものの、特に福祉的就労について、同労組の主張をほぼ容認している。

国際協力の分野では、「国連障害者の十年(1983-1992)」を継ぐものとして、日本は、中国等との共同提案によるアジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)総会での「アジア太平洋障害者の十年(1993-2002)」の提案(1992)、その期間の10年間の延長(2003-2012。いわゆる第2次アジア太平洋障害者の十年)の主唱(2002)、滋賀県大津市におけるハイレベル政府間会合の開催(2002)、同会合における第2次アジア太平洋障害者の十年の地域行動計画である「アジア太平洋障害者のための、インクルーシブで、バリアフリーかつ権利に基づく社会に向けた行動のためのびわこミレニアム・フレームワーク」(BMF)の採択(2002)等、積極的な貢献をなす姿勢を示した。

しかしながら、いわゆるバブル経済がはじけた後に待ち受けていたものは、社会福祉の基礎構造の改革の論議であった。国の財政問題を背景として議論が重ねられ、1.措置から契約への変更による利用者本位のサービス、2.営利団体を含めた多様な経営主体の導入、3.市場原理を生かした質の向上、4.透明性の確保と公平かつ公正な負担、などが強調された。

その結果、2003年には従来の措置制度から契約制度への転換を目的に支援費制度が施行されたが、財政破綻を理由に2005年に障害者自立支援法が制定され2006年から施行された。

しかし、同法については、審議の段階から障害程度区分、サービスメニュー、利用者負担、介護保険との統合などを巡って多くの問題点が指摘され、全国的な反対運動が起こる中で、応益負担を違憲とする全国的な訴訟や支給決定の取り消しなどを求める訴訟が提起されるなど、日本の社会福祉の歴史上、類を見ない事態となった。

以上に加え、この時期には障害者に対する施策の上で重大な枠組みの変更がいくつかなされた。

まず、2001年に池田小学校事件を契機として提案された、心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律(医療観察法)が2003年に成立し、2005年に施行されたが、これについても反対運動が続いている。なお、2010年度は精神保健福祉法の定時見直しとあいまって、施行5 年後の報告と見直しの年度である。

また、従来、必ずしも知的障害の定義に入っていなかった自閉症、アスペルガー症候群、その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害などの発達障害を有する者に対する援助などを定めた発達障害者支援法(2004)が成立したが、障害者としての位置づけと支援は不十分な状態であった。

さらに、2006年には学校教育法が改正され、従前の盲・聾・養護学校が特別支援学校に一本化されるなど、特別支援教育の推進が謳われるようになったが、原則分離の教育形態に変更は加えられていない。

なお、高次脳機能障害にようやく社会的関心が寄せられるようになってきた。高次脳機能障害とは交通事故、脳血管障害、脳炎等による後天性脳損傷により生じる記憶力・注意力の低下、失語症、失認症等の総称であるが、若年者に多い脳外傷者の社会的行動障害はしばしば家族を疲弊させるにもかかわらず、支援が不十分である。2001年から5年間にわたり、高次脳機能障害支援モデル事業が開始された。 障害者自身、そして家族や関係者を含む多くの先人による、さまざまな運動や取り組みの積み重ねの上に、現在の日本の障害者施策がある。 この推進会議によって象徴される"Nothing about us without us" という言葉で示される障害者自身の参画を活かすためには、社会全般との連帯と協力が欠かせないことは明らかである。