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場所:戸山サンライズ 大研修室
 

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障がい者制度改革推進会議 第5回(H22.3.19) 資料3

障害の表記に関する意見一覧

「障害」の表記の在り方

第五回障がい者制度改革推進会議 意見提出フォーマット
障害の表記

○「障害」の表記の在り方

1.法令等における「障害」の表記の在り方については、「害」の字がマイナスイメージを与えることから、「障害」の表記を見直すべきとの意見があるが、これについてどう考えるか。

【大久保委員】

「害」の字そのものに注目すれば、マイナスイメージであるが、「障害者」あるいは「障害のある人」のイメージとは異なるものと考える。また、それらイメージは、時代的背景などによって変化するものと考える。

何より、当事者(家族を含む)や一般市民の感じ方、とらえ方の実態を把握する必要があると考える。同時に、社会的にも政策的にも「判りやすい」必要があると考える。

なお、表記を変えることも大切であるが、何よりも「暮らしにくさ」や「生きにくさ」に注目し、これを変えていくことが重要であることを付言したい。

【大谷委員】

「障害」の表記は見直すべきであるが、その見直しは慎重に行うべきである。

「害」という漢字は、障害を持つこと自体が害悪である、また、障害者が社会や人に害悪を与えるなどいうマイナスイメージを与えるものであることから、「障害」の表記を見直すべきであるという意見が多数あり、この意見に賛成する。

一方で、このような考え方は障害の定義を「社会モデル」としてとらえるものではなく「個人モデル」としてとらえるものであるという理由で「障害」の表記は変更すべきではないという意見もあるため、表記の見直しは慎重に行うべきである。

【大濱委員】

■制度改革に向けた重要課題が山積している現状では、「障害」の表記に拘泥するよりも、優先課題に議論を集中させるべきではないか。

▼「障害」の語は、既に日常語として定着しているので、障害当事者の1人としては、制度改革の課題として取り上げるほどの違和感はない。

▼また、「障害者」の語は、現在、204本の法律、464本の政省令で用いられており、この改正だけでも膨大な作業となる。

▼もっとも、「害」の字だけではなく、「障」の字についても「差し障りがある=邪魔者」というネガティブな概念として捉えて、これらの表記に違和感を覚える人がいることも事実である。たとえば脊髄損傷者の場合では、受傷直後の人にはこのような拒絶感が強い。よって、多くの当事者が標記を改めるべきだと考えるのであれば了承する。

【尾上委員】

障害者権利条約の批准に際して、求められているのは障害についての医学モデルから社会モデルへの転換であり、そのことをふまえた各種の法改正を行い、制度の谷間なく、必要な人が必要な支援等を得て、地域での自立した生活を実現できるような社会をつくることである。

そうした医学モデルから社会モデルへの転換ということなく、表記だけを見直すことに積極的な意味を見いだすことはできない。

権利条約では、「Impairment」は、視覚、聴覚、上下肢等の機能の不全等を意味する機能障害を表し、「Disabilities」は、社会環境との相互作用において障害者の生活や行動が制限・制約される「社会的不利」を意味する。そして、第1条後段で、障害者は、「障害者(Persons with Disabilities)」と定義され、「Impairment(機能障害)」のある人々は、その中に含まれると規定した。前文(e)においても、同様の考え方を採用している。障害者の社会参加の不利の原因を、個人の機能障害に求めるものではなく、機能障害と社会との相互の作用によって生じるもの、ということである。一方、個人の機能障害に社会参加の不利の原因を求める考え方が「障害の医学モデル」である。

障害の社会モデルの考え方に立脚し、「障害」の表記の問題を考えた場合、「害」の字を「がい」に変えることは、妥当であると考えることはできない。社会モデルの見地から考えた場合、「障害者」とは機能障害のある人の社会参加を妨げる社会の側のさまざまな障壁によって、社会参加上の障害をもたされた者、とも見ることができる。一方「害という漢字のイメージがよくない。」、「障害者は、社会や人に害悪を与える存在ではない。」という考えは、障害者個人に焦点を当てている考え方に立脚しているものであり、機能障害をもつ人への社会の先入観や偏見を社会の側が取り除くという発想から来ているものとは考えられない。建物や公共交通機関を利用できない、公衆浴場から入浴拒否されるといった状況は、障害者の表記を変えれば無くなるものではなく、これらの社会参加の障壁は社会の側にその責任がある、ということを明確にしなければ、これらの障壁を無くす事は原理的に不可能である。また、こうした表現に固守するのであれば「障」の文字を残すことに矛盾も残す。

【勝又委員】

当事者が「障害」をもちいられることに不快を覚えるなら改訂すべき。

【門川委員】

「害」の字にマイナスイメージがあるということだが、同様の観点からすれば、「障」という字にも、「さしつかえる」「はばむ」「じゃま」といったような意味がある。すなわち、マイナスイメージを与えるから「障害」の表記を見直すというのであれば、「障害」という言葉(表記)はいずれにしても使えないということになり、平仮名で「しょうがい」と表記することになってしまう。しかし、そのことにどれだけの意味があると言えるのか、疑問である。

また、単にマイナスイメージということであれば、たとえば、「犯罪被害者」などの用語にも「害」が含まれているが、これも平仮名にすべきだという議論になってしまわないだろうか。たしかに、「障害」という表記が最適であるとは言い得ないだろう。だが、かつて法令用語にあった、より差別的な語に比較すれば、障害という語には差別的な語感が小さいと言える。そして、もし障害という語が差別的であるとすれば、その理由は障害という言葉の使われ方や定義の問題にあって、そうした問題と合わせて考えないと、いわゆる「看板の掛け替え」で何も変わらないということになってしまうことを懸念する。したがって、もし仮に法令用語としての「障害」の表記を見直すのであれば、これからの障害者施策の対象者の範囲をどのように設定するのかということから出発し、そうした範囲を適切に表す厳密な定義をし、その定義を端的に表す表記を考える、という手順を踏むべきでないか。

そもそも障害とは何か、障害者とはどのような存在かということを考えたとき、障害者は具体的な社会とのかかわりの中で「障害者」と呼ばれ、社会生活上被る様々な困難を「障害」として受け止めているのである。そのような意味からすれば、障害者の表記にマイナスイメージがあるとすれば、それは障害者を障害者として扱う社会と障害者との間に現に発生している「マイナス要因」が表象されているものととらえるべきである。そうではなく、障害者が害を及ぼす(伴う、まとうなど)というようなイメージがあるというのであれば、むしろそのイメージのほうが間違った障害理解であるということを、何度でも繰り返すべきである。

【川﨑委員】

見直されるべきと考える。「害」という字が意味することは、わざわい、傷つけるなどの意味がある。「障」という字には問題はないのか。

【清原委員】

三鷹市では平成16年12月1日より人に関するものについては、原則として「障害」「障害者」の表記を「障がい」「障がい者」を使用することとしている。ただし、法律名、法定の名称等についてはこの限りではない。

市議会に表記について提案したところ全会一致で可決され、関係条例など五百数十か所を変更した。

経過・考え方

「障害」という用語は、本来は「障礙(俗字では碍)」であったが、当用漢字に当てはめる際に、「礙(さまたげる意)」を「害」と書き換えて使用することとされた。しかし、障がい者があたかも他人を「害」する人であるかのように、または「害」を持っている人であるかのように捉えられ、不快な思いをされている方々がいるという事実と、やはり不適切な表記であると考え、当事者や関係団体とも協議し、決定した。このことは、「できるところからすぐに実行する」という市の考え方によるものである。

また、「障がいを持つ人」という表現ではなく、「障がいのある人」という表現を使用するよう心がけている。

【佐藤委員】

賛成。

より適切な言葉を使うことにより、より適切な理解が広がりやすくなる。1980年代初めに「不具・廃失」などの用語を廃止したことによって、古い観念(障害者=無能な人、期待できない人、何もできない人などの)からの脱却がある程度は促されたものと思われる。

日常生活や社会生活上の支障・困難の原因が本人にあるとおもわせる「障害」の表記は、あきらかに障害者権利条約やICFの障害概念(環境と機能障害の相互作用による参加の困難)とは異なる時代遅れのものであり、変更すべきである。

ただしどういう言葉を使うかより、どんな意味で使うか(どんな障害観・障害者観をその言葉に含めるか)の方がより重要である。

障害分野とは少し違うが、株式会社系の介護保険事業所などで「ご利用者様」という表現が最近よく使われる。新任職員にも利用者の意向を尊重させるという職員教育的な意味があるのかとも思われるが、この言葉が感じさせる距離感や個別ニーズの軽視(誤解かもしれませんが)は、人間一人一人に寄り添い、その幸福を目指す社会福祉・ソーシャルワークとは違う感じがする。

そしてその障害観・障害者観にもっとも強い影響を与えるのは、国・自治体の障害者制度・政策、そしてその基礎にある姿勢である。つまり同じ市民としての平等な社会参加の実現に本気で取り組んでいるかどうかを市民は見ている。

差別、貧困、失業、社会的入院や長期施設入所、情報格差、などをやむをえないものと思いつつ単にポーズとしてその解決を掲げているのか、本気で放置できない事態と受け止めて取り組むかである。よいか悪いかとは別に現実として、法律や政策は日本では非常に強い教育的意味を持っている。おそらく他の国以上に日本では政府や自治体に対する信頼度が高く、その視点や価値観が大きな影響力を持つ。新しいきれいな言葉にも、このような政策・政策姿勢の差がやがて反映し、言葉の意味やイメージを作り上げる。

「障害」、「身体障害」という言葉も、他の制度で「不具・廃失」などが使われていた時代、1950年施行の身体障害者福祉法で新しい期待を込めて使われた。仕事もなく、駅頭で物乞いをするような惨めな生活ではなく、補装具や授産訓練で職業自立を図れるように支援しよう、人間としての尊厳を回復しようと。当時それなりに「よい」とされた言葉が、その後の当事者や関係者の努力と国際的な進展によって、すでに乗り越えるべきものとされるようになったものである。この歴史をふりかえると、この「制度改革」は障害の言葉の見直しを避けるわけには行かないと思う。

【新谷委員】

「障害」の表記でも、特に問題はないと思います。「障害」の表記がマイナスイメージを与えるから表記を変える、ということではなく、障害者と共に生きる社会をつくる象徴的意味から、障害者権利条約の批准を機に、宣言的に表記を変えるのであれば一定の意味はあると思います。

【竹下委員】

少なくとも直ちに「害」の字は全ての法令から廃止し、「障碍」にするか「障がい」とすべきである。

【堂本委員】

(結論)障害当事者が決定すべき問題

(意見)「害」を「がい」や「碍」に変えることでは問題の解決にならない。「障害」の標記よりも、具体的な政策の内容が重要。高齢者が「痴ほう症」を「認知症」に変えた実例がすでにある。

【中西委員】

関係している多くの障害者団体は議論を経て、自分たちはこの社会のなかで「障害者」であると自認、もしくはそういう立場を認識した言葉として「障害」を用いることで合意している。

表記に関してはいろいろな意見があり、個人の考え方で各種の表記を用いることは自由であり、一般的に文書や口頭で表現する場合には「障害」として構わないと考える。

むしろ障害者に相対する表現として「健常者」が、障害のない人たちによって無意識に用いられることを問題とすべきである。この場合、最も受け入れられやすいのは、「非障害者」という表記であろう。

【長瀬委員】

基本的には現行の「障害」で問題ないと考える。それは、障害学に基づく社会モデルでは、「障害」は、個人の持つ否定的な特性ではなく、社会が持つ障壁によって生み出されている不利益や抑圧として障害をとらえているためである。

【久松委員】

見直すべきとの理由はないと考える。

「害」という漢字だけでなく「がい」というひらがな文字においても、マイナス(負)の意味を持っていることは同じである。「障」という漢字もマイナス(負)のイメージがあり、「しょうがい」というひらがな文字に置き換えても同じである。

現在、社会において少数者である「障害者」は、社会生活のあらゆる場面において様々なバリア(障害・障壁)がある現状を認識し、それらを変えていこうとしており、その取り組みが重要である。

表記だけの見直しは、かえって「障害者」が抱えている課題が見えなくなる恐れがあることを意識する必要がある。

【松井委員】

確かに「障害」という表記は、望ましいものではなく、「障害」にかわるよりよい表記があれば、それにかえることには賛成である。

しかし、たとえ表記をかえても、それだけでは現在障害者が日々の生活の中で経験している差別や偏見などがなくなるわけではない。したがって、表記の変更にあわせ、障害者に対する国民の意識をかえるような種々の啓発活動をさらに積極的にすすめる必要がある。

【森委員】

1.~4.に関して、マイナスイメージを与えるのであるとするならば、その表記は見直すべきである。但し、その表記については、以前からさまざまな意見があるなかで、共通課題として、一般的な討論を行ったことがない。漢字の意味等も含め、十分に検討すべきである。

2.「障害」という表記を見直す場合、以下のような可能性を提案する意見もあるが、どう考えるか。

①「障がい」②「障碍」

それ以外の提案はあるか。

【大久保委員】

既述したとおり、当事者(家族を含む)や一般市民の感じ方、とらえ方の実態を把握する必要があると考える。同時に、社会的にも政策的にも「判りやすい」必要があると考える。

【大谷委員】

ない。

【尾上委員】

1.で述べた通り基本的に変更しなくてもよいと考えるが、あえて変更するとすれば、障害の社会モデルへの転換を図った結果、「社会や環境の側が持っている障壁、さまたげという意味合いを持たせる」という確認の上で②となるだろう。

【勝又委員】

ない。「障がい」でよい。むしろ、日本国内の公共の施設にて英語表記でhandicappedは使わないように指導し、Persons with disabilitiesに変更するべき。

【門川委員】

1.で述べた通り、法令用語としての「障害」という表記の見直しは、いわゆる「看板の掛け替え」で終わらないよう、定義から考えなおす必要がある。どうしても「害」が不快だという意見が根強いのであれば①の「障がい」でも構わないが、1.で述べた通り根拠が薄いことをよく考慮した方がよいと思われる。

【川﨑委員】

障、害、碍は似通った意味を持つもので、表記を変えるだけでよいのか。当会では現時点では「障がい」としている。

【佐藤委員】

「障碍」がよいと思う。

「碍」の本字は「礙」であり、この意味は「旅人が道をふさいでいる大きな石の前で立ち止まってどうしたらよいか考え込んでいる姿」と香港の大学教員から説明を受けた。(10年程前に、香港私立大学助教授で国際リハビリテーション協会(RI)社会委員長、ジョセフ・コック氏から、故埼玉県立大学教授丸山一郎氏などとともに)。

環境の障壁を前に立ち止まっているとの意味は、現実を反映しており、また障害者権利条約やICFの視点からしても適切な表現と思われる。

また、前記のように、60年ぶりの歴史的な表記の見直しであることを考えると「障害」から「障碍」へは、あまりにもつつましいとも思われる。より大胆な提案も検討すべきではないか。

個々の障害者は、総称をどう表記するかについての多様な意見をもっているはずである。「推進会議」は一定のリーダーシップは必要であろうが、1本に決めるのではなく、広く障害当事者の意見を聞く方法を検討し、実行すべきであろう。この会議の理念は障害当事者の意見を尊重して制度を決めるということであるので。

たとえば3つ程度の候補を決めて、障害当事者と家族への全国アンケートを実施し、100万人(10万人?)からの回答があった時点で最大のものに決定するなどとしたらどうであろうか。あるいは1年(または2年?)後の時点で集計で決定など。

障害当事者にも家族にも、障害のない市民やマスコミにも、障害とは何か、社会は障害とどうともに歩いてゆくのか、じっくりと考え議論する機会になるのではないか。

【新谷委員】

「障がい」という表記には違和感があります。変更するとすれば「障碍」と思います。

【竹下委員】

わが国において「障害者」を意味する名称そのものを考え直すことを試みてはどうか。それによって国民の意識を大きく変えることができる(あるいは大きく変えるきっかけになる)のではないか。単に「害」の字を「碍」や「がい」に置き換えるだけでは、場当たり的で不完全であると考える。障害別の表記においても「盲人」の表記を残すのか否かも、法令によって統一しても良いように思う。

【堂本委員】

(結論)1の結論に準ずる

【中西委員】

「障碍」の碍は、電柱などの電線をささえ、絶縁するために使う陶磁器などで作った碍子の碍であり「さまたげ」という意味を持つ。そうなると「差し障りがあり、さまたげのある人」が障害者ということにもなり、「害」ではないにしても大差ないと考える。

参考として牧口一二さんの意見を記す。

…「障」も「碍」も壁という意味を秘めており、そこから障碍者は「多くの壁を置かれた人たち」との意味で、このように表記された、とボクは考えている。対象とされる障害者や高齢者と関わる側の、つまり対処する側から見た表現だったため、そのように呼ばれることになった障害者や高齢者はとんでもない誤解を世間から受けることになったのである。つまり障害者は直訳されて「邪魔者」と考えられ、高齢者も「前期」と「後期」そして「末期」まで連想されるようになってしまったのだ。(中略)そんな状況の下、「障害」を「障がい」と表記することにどんな意味があるのだろう?ボクには、露骨な表現を避けて波風を立てずに穏便にことを済まそうとする「善良な市民」の心根が見え隠れする。たとえば「露骨に差別をむき出しにする人」は利害関係に直面した人たちで、ほとんどの市民は「正直なところ、自分はそんなに他者を差別していない」と考えている。では、なぜ、これほど理不尽な差別に苦しむ人たちが多いのだろうか。少し考えれば分かることだが、弱い立場の人から相談ごとを持ち込まれた場合、自分に強い差別心がなくても上司や目上の人の気持ちを慮(おもんぱか)って(真意を確かめもせず……日頃の言動から推測して)波風が立たないよう断ってしまったりする。これも自分や身近な者を守ろうとする利害が働いているわけで、こうした「事なかれ主義」、「穏便に波風立てず」の考え方と、それに基づく行動が差別を生みだす、もっとも多いケースだとボクは考えている。(中略)言葉の安易な言い換えは、物事の本質を誤魔化したり隠蔽するときによく使われることを注意しておきたいと思うのだ。

【久松委員】

上記1の意見と同じであり、見直す必要はない。またその議論は重要ではないと考える。むしろ、「障害者」が置かれている現状を変革していくことの議論が大切である。

「碍」という漢字も「さまたげる」という意味があり、「害」と同様にマイナス(負)のイメージがある。

【松井委員】

「障害」の「害」という表記がもつマイナスのイメージを払拭するという意味では、「障がい」の方がよいと思われる。

「障害」を「障がい」あるいは「障碍」と表記を換える場合、その説明が必要となるが、「障碍」よりも「障がい」のほうが、一般にはわかりやすく、かつ、受け入れやすいのではないだろうか。

【森委員】

同上

3.現在、文化審議会において改訂が検討されている常用漢字表に「碍」を入れて「障碍」とも表記できるよう選択肢を広げるべきとの意見もあるが、これについてどう考えるか。

【大谷委員】

これまで、「障碍」という表記に関する歴史的経緯、その語源等について十分な検討は行っていないため、直ちに賛成はできない。

【尾上委員】

「障碍」の表記に関する歴史的経緯、その語源等に関する正確な情報等が不足している。

【勝又委員】

不要

【門川委員】

様々な意見があると承知しているが、「障害」も「障碍」もいずれも明治期には使われていたということであるから、選択肢を広げるという趣旨で「碍」の字を常用漢字表に入れるということ自体について、特段反対する理由はないものの、賛成する理由もない。仮に常用漢字表に入れるとしても、法令用語の表記変更とはひとまず無関係と考えるべきではないか。

【川﨑委員】

「害」を「碍」に変えることにより、障害に対する負の印象が変わるか疑問が残る。

【佐藤委員】

適切なことと思う。文化審議会の結論がでるまでは「がい」と表記することとしたらよいのではないか。その際、「がい」の意味は、「害」ではなく「碍」であると説明を付記するとよい。

【新谷委員】

2項についての考え如何と思います。

【竹下委員】

賛成である。

【堂本委員】

(結論)1の結論に準ずる

【中西委員】

「碍」を使用する人に対応できるように、また義務教育を通してその意味を理解してもらうためにも、常用漢字の中に含めるべきである。

【久松委員】

常用漢字表に「碍」という漢字を入れる必要はないと考える。

その理由は上記1および2で述べたとおりである。

【松井委員】

2で触れたように、「障碍」よりも「障がい」のほうが一般にわかりやすく、かつ、受け入れやすいと思われるので、あえて「碍」を常用漢字表に追加することもないのではないか。

【森委員】

同上

4.「障害」の表記をめぐる上記1.~3.の論点に加え(権利条約の英文テキストでは“persons with disabilities”と表記されることを踏まえ)、障害者を表す際に、現在の「障害者」という言い方を「障害のある人」と変更すべきとの意見や、「チャレンジド」と言い換える提案があるが、これらについてどう考えるか。

【大久保委員】

「障害のある人」が望ましいと考える。

なお、「チャレンジド」は、先ず、当事者(家族を含む)にとってどうなのか。また、一般市民にとっても「判りやすい」ものか疑問である。何より、「チャレンジ」という価値や生き方を障害のある人にだけ求めているようにも思えるが。

【大谷委員】

「障害のある人」と変更する意見に賛成する。

日弁連では、2001年11月9日に開かれた人権擁護大会で「障害のある人に対する差別を禁止する法律」の制定を求める宣言を採択したが、このときの基調報告書において、従来の法律において国等の施策の対象を限定する意味においても使われた「障害者」という言葉を用いず、社会から差別を受ける可能性のある障がいのある人すべての権利救済という目的のために従来の表現を「障害のある人」と言い換えて表現しており、その後「障害のある人」という表現を用いてきた(現在では「障害のある人」を「障がいのある人」と表現することが妥当であることは前述のとおりである)。

「チャレンジド」という表現は、語感としては優れているとの評価もあるが、障害者が挑戦者でなければならないこと自体が不適当であるという考え方も根強くあるため賛成できない。

【尾上委員】

チャレンジドへの言い換えには、障害当事者としてきわめて大きな違和感があり、賛成できない。

チャレンジドは「障害を持つ人」を表す新しい米語「the challenged(挑戦という使命や課題、挑戦するチャンスや資格を与えられた人)」を語源とするとされるが、なぜ機能障害がある人だけが「チャレンジド」なのか意味不明である。障害者への偏見や差別が存在する社会において、障害者だけがなぜそうした障壁の除去に前向きに頑張らなくてはならないのか。この言葉への書き換えは不適切である。事実、この言葉の発祥の地と言われるアメリカにおいても、障害当事者の間では否定的な見解が多い。

意見が分かれる「障害」の表記の検討に時間を要するより、社会の障壁の除去という本質を改善するための努力こそ必要である。

【勝又委員】

「チャレンジド」は英語カタカナ表記で一般になじみがないので使うべきではない。「障害のある人」とわざわざ言い直す必要も感じない。

【門川委員】

「障害のある人」という表現の意味が、「障害者」と異なるとは考えにくい。英語の表記を逐語的に解釈すれば、「障害」が外在的、ないし付加的に「取り巻いている」「人」というニュアンスだと思われるが、それに対して、「障害のある人」には、障害者の「内側」に内在的に障害があるというニュアンスが含まれてしまい、表現を変えた意味がなくなってしまうのではないか。

また、「チャレンジド」という言い換えは、欧米でもごくごく一部でのみ使われている表現である。「挑戦するよう運命づけられている」というような意味合いで使われるとのことだが、障害は障害者の内側にあったり運命的なものであったりするものではなく、あくまで社会的なものであると把握したとき、「障害者」の言い換えとして「チャレンジド」は適切ではないと考える。

【川﨑委員】

「障害者」を別の言い方にすることには賛成だが、標記の仕方は検討されるべきことと思う。

【佐藤委員】

「障害(碍)のある人」という表現には「障害(碍)者」という表現は好ましくない、さけたい、そう言われた人は気分を害するかもしれないという意識が感じられる。しかし、この推進会議が提案しようとしている障害(碍)観は、「障害(碍)者」は他の市民と区別なき同じ市民であり、「障害(碍)」は気の毒なことでも、恥ずかしいことでもなく、胸を張って生きてゆくのが当然だというものである。

なんら恥ずべきものではないので、どうどうと「障害(碍)者」という言葉を使うべきである。その使用を躊躇するのは不幸な存在としての「障害(碍)者」という観念を抜け出していない証拠といえる。

法制度では以上のような考えで進めるべきと思うが、日常会話や文章では、たとえば「障害者と非障害者の大学進学率を比べると・・・・」というより「障害のある人とない人の大学進学率を比べると・・・」のほうがわかりやすい。とくに話し言葉の場合には後者のほうが理解されやすい。したがってどういう言葉を使うかは使う人の自由であり、障害当事者はこれこれの表現はこういう意味で望ましいとか、避けてほしいなどの意見を自由に言うべきであろう。

「わが県の障害(碍)のある人の大学進学率の最近の動きを見ると・・・」という使い方を私は非難するものではないが、「障害(碍)者」という言葉がネガテイブな印象を与えるからということがその理由であれば、疑問である。「障碍者(障がい者)」という表記(あるいは別の新たな表記)を胸を張って使おうというのがこの推進会議のはずである。「高齢者」、「(マンション)入居者」、「株式保有者」など、特定の特徴で区分する表記のひとつに過ぎない。

「チャレンジド」という言葉は、「挑戦という使命や課題、資格を与えられた人」との語源から、障害をマイナスとのみ捉えず、障害を持つゆえに体験する様々な事象等をポジティブに生かして行こう、という発想からつくられた言葉とのことであり、積極的な面があるとは思われる。この用語を使いつつ前向きな障害観で社会参加をしている人々はすばらしいと思う。

しかしこの用語を「障害」に代わる法律上の用語とし、社会全体で使うことが適切かどうかとなると疑問である。

第1に、カタカナ語が定着するとは思われない。

第2に、使命や課題を与えたのは「神」であることが背景にあるように思われ、多様な思想・信条になじむようには思われない。

第3に、これが一番重要な点と思われるが、障害のある者だけがチャレンジするのでもないし、チャレンジされるのでもない。特別に選ばれた存在だという偏った観念が作られかねない。また、チャレンジし続けることが心理的に強制されるおそれがある。障害があっても障害のない人と同じように暮したいというのがねがいである。「障害者だからできなくていいよ、あまり期待していないよ」とされるのも困るが、逆に常にがんばり続けるべき存在と見なされるのも苦痛であろう。

この点で忘れてはならないのは、障害者基本法の2004年改正で第6条(自立への努力)が削除されたことである。旧6条は次のとおりであった。

第六条 障害者は、その有する能力を活用することにより、進んで社会経済活動に参加するよう努めなければならない。

2 障害者の家庭にあっては、障害者の自立の促進に努めなければならない。

その理由は、障害者は普通の市民としての権利も義務も持つのであり、それ以上にことさら「自立への努力」を法律で求めるのはよくないのではないか、障害者が普通の市民としての普通の努力をすれば普通の社会参加ができるような社会こそ、我々が目指すべき社会なのではないか、ということが、国会の全会一致の合意であったと思う。

また、すでに30年たつが1980年に国連が「国際障害者年行動計画」で示した次の障害者観をふまえることが重要である。

「障害者は、その社会の他の異なったニーズを持つ特別な集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的なニーズを満たすのに特別の困難を持つ普通の市民と考えられるべきなのである」(第63項抄)

【新谷委員】

個々の場合での使い方と考えます。個人的には、「チャレンジド」という言葉には大きな違和感があります。

【竹下委員】

「障害者」は法令上の名称としては廃止し、「障害のある人」に統一すべきである。前述したとおり、私はそれだけでは不十分、不完全であると考える立場であり、「チャレンジド」も検討すべき名称だと考えている。たとえば、法令において障害のある人(これを「チャレンジド」と呼ぶこともできる)といったような統一規定を置いても良いと思う。

【堂本委員】

(結論)「障害のある人」との表現がよい。

(意見)障害「者」と括られることには抵抗がある。健常「者」と障害「者」の間に境界が生じる。特別支援学校はある意味その境界になっている。境界線をなくすことが大事。「さらば!境界」。

千葉県においては、「障害者」という表記は、障害がその人の属性として固定しているかのようなイメージとなることから、これを避け、法定の表記を用いなければならない場合を除いて、原則として「障害のある人」と表現している。条例も「障害のある人もない人も共に暮らしやすい葉県づくり条例」としている。

【中西委員】

「障害のある人」の使用は構わないが、あえて言い換えるには及ばない。

権利条約での障害者の英語表記は、障害者はまず人間であり、属性として障害があるとの考えで広く使われるようになった。そのため日本語に訳した「障害のある人」では、先ず人であるとの意味合いは出せず、単にもって回った丁寧な表現となるだけである。

「チャレンジド」は、障害に代わる表記とはなりえない。一時前向きな意味合いをもつ表現として使われていたが、一般的にはいまだ普及していない。「挑戦すべき試練や才能を神から与えられた人」というもともとの意味には、アメリカ流の自助努力をよしとする哲学が垣間見える。この言葉は医療モデルで言われるステレオタイプの障害者観に基づいていて、障害者個々人の努力がまず求められるような気分にもなる。

【長瀬委員】

「障害者」で問題ないと考える。その理由は、社会モデル的な「障害」の理解である。

なお、関連して、障がい者制度改革推進会議の英文名称はすでに提案のある“Council for Disability Policy Reform“で是非、決定をお願いしたい。

【久松委員】

法律の名称に「障害のある人」の使用は考えられる。しかし、私たちが自分のことを「障害のある人」と言うことは考えられない。

「チャレンジド」という言い方は、「障害者」というマイナス(負)イメージをプラスイメージに変えようとする発想であるが、「チャレンジド」という言葉は、かえって社会に積極的に参加しない、あるいは参加しようとしない障害者は駄目だとの認識につながりかねない。

「障害」のある人も、「障害」のない人と同様、社会には様々な人がいる、様々な人がいて当たり前である意識をもつことが必要である。

なお、「聴覚障害者」の言葉には、「ろう者」「難聴者」「中途失聴者」が含まれている。「ろう」という言葉は、漢字で表記すると「聾」という字になり、昔は訓読みで「つんぼ」と呼ばれ、差別的に使われていた。

「手話」をコミュニケーションの手段とする私たちが、運動の力で社会のバリア(障害・障壁)をなくしていき、「つんぼ」という呼び方(正しくは呼ばれ方)から「ろう」という呼び方に変えてきた。「ろう」という言葉は、今では、私たちのアイデンティティ(自己実現)の表象(シンボル)として誇りをもって使用している。

このように障害をもつ当事者が、自らの運動の力で「マイナス(負)イメージ」を「プラスイメージ」に変えてきた歴史があることを知っていただきたい。

【松井委員】

「障害者」を「障害のある人」という表記にあらためるべきという意見は理解できるが、かならずしもすべて「障害のある人」という表記で統一する必要はないと思われる。

米国などでは「障害者」にかわり「チャレンジド」という表記も見受けられるが、日本語としてなじみがなく、解説が必要となる。しかし、かりに「チャレンジド」に表記をかえても、それだけでこれまでの「障害者」という表記にともなうマイナスイメージを払拭することにはならないのではないか。

【森委員】

同上

○その他

【土本委員】

しょうがい の ひょうき は ひらがな で 『しょうがいしゃ』 とすることです。

自分たちが いっているのは 『しょうがいしゃ であるまえに 一人の人間として あつかえ』という ことです。