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文学にみる障害者像…①

大江健三郎著『静かな生活』

宮尾 修

 脳に障害を持つ青年イーヨーが出てくる大江氏の小説を筆者が読んだのは、1985年に出版の『新しい人よ眼ざめよ』が最初だった。その後、『人生の親戚』や『懐かしい年への手紙』なども含め、最近の『燃え上がる緑の木』に至るまで、イーヨーの登場する作品をいくつも読んだが、受けた感動ということでいうと、この『新しい人よ…』に勝るものはなかったと思っている。

 とりわけ、イーヨーの態度に自立への動きをみてとり、家族みんなが本名で呼ぶようになる結びの感動は圧倒的だったが、それから5年後の作品の『静かな生活』では、またイーヨーと呼ぶようになっている。つまり、『新しい人よ…』にあった、強い意志のようなものが、ここには乏しい。その分、厳しさを増す現実や、人間の暗部への不安が問題になっている。

 映画の伊丹十三監督は、この小説を「シンプルで美しい」と評したらしいが、すくなくとも〈明快〉という意味での、「シンプル」などではとてもない。題名の『静かな生活』というのからして、本意は〈静かどころでない生活〉、語り手であるマーちゃんの、日々の冒険物語ととることができる。一編のモチーフは、そうした〈静かでない〉生活こそ、人生の当り前の姿であり、また「静かな」と表わすほかないものであるとするところにあって、途中にこういう文章がある。

 「まことに膨大な数のなんでもない人たちが、信仰を持たず、死後の魂について確たる思いもいだかないで、生きかつ死んでいる。そのようななんでもない人の生と死の大海のなかにいると自覚すれば、自分の生と死も余裕を持って客観視することができるのじゃないか? しかもそのような生と死が、無意味なものだとは決して思わない。なんでもない人として生きることに相当年季の入っている、私としては確信がある…

 私は重藤さんの奥さんの話に、本当にひきつけられたのだ。自分もまた、まさになんでもない人として将来ともイーヨーとの静かな生活を望んでいるのだから。」(傍点作者)

 これは収録作品の「自動人形の悪夢」の一部分だが、マーちゃんは兄のイーヨーと、これからもずっと一緒に暮らしていこうと思っている。そして、そのことに改まった決意など要らない。なんでもない人間の、なんでもない生き方だと、重藤さんの奥さんの言葉から、マーちゃんは考えるのであるが、この小説の複雑なところは、そこがまた作家K(マーちゃんやイーヨーの父親)の特権意識や、信仰への言説が引き起こす精神的危機の問題ともつながっていることだ。

 『新しい人よ…』のイーヨーは、まだ養護学校の生徒だった。『静かな…』では、区立の福祉作業所に通っている。同時に重藤さんの手ほどきで作曲もしているのだが、こうした変化にひっかけて、マーちゃんの感想というかたちで、厳しさを増した現実についての、きわめてリアルなといっていい観察をしているところがある。

 「最近、こうした演奏会場で私が感じるのは、―時がたった! 時がたってしまった!ということだ。それはイーヨーが、養護学校高等部にいた頃の催しとくらべるからだと思う。私は母について養護学校へ行くたびに、生徒たちはもとより先生たちも保護者たちも元気が良い、ということを感じたものだ。」

 「いま〝ふれあいコンサート〟の会場で、あのような笑いに出会うことはないのではないか? 演奏家の側は…なんとも陽気なものなのに、その直後の休憩時間、お母さん方は沈鬱に自分の膝のすぐ上のあたりをじっと見つめていられるし、お父さん方は妙にキョロキョロする眼で周りをうかがっていられるように思うのだ。」

 障害のある子どもの年齢が増すにつれて、そうした子どもを持った親の様子が深刻化していくというこの観察は、当事者ならではの具体的なものがある。当然、マーちゃんもその一人として、不安や心配をかかえた状態の中にあり、こうしたものをふり払おうと、「なにくそ、なにくそ!」と自分に声をかけている。「お先真暗でも、元気を出して突き進もうじやないか!」ということであるが、この思いはマーちゃんだけでなく、家族全員に共通のものとなっている。

 イーヨーの出てくる大江氏の小説の特質として、すべての作品にいえるのは、うちじゅうでイーヨーの障害と対しているということだ。障害という一つの〈運命〉の受け止めについて、イーヨーと家族とのあいだに差がない。家族みんなが一体感で結ばれており、イーヨーはそうした一体感の具現者として、家族みんなのシンボルになっており、ときには守護神でもあったりする。

 こうしたイーヨーのえがき方、障害への対応ともいえるものは、おそらく実際の作者の実体験、およびそれによってつくられた障害の認識と無関係ではないだろう。マーちゃんは十分に献身的、かつ理想的な家族だ。しかし、イーヨー本人にとって換わることまではできない。そのあたりはどう考えているのか、この小説ではもう一つよく分からない。

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 大江氏は『あいまいな日本の私』(岩波新書)に収録した講演の中で、「私どもは、この子供と一緒に、かれの障害の受容、受け入れを支えようとしてきた。しかもそれは家族全体の、自分のものとしての障害の受容ということであった」といっている。これ自体はいいのだが、その前段として上田敏氏を持ち出し、「この方が障害の受容―障害をどう乗り越えて社会のなかで役割を果たせるようになるか、という過程を分析していられます」と述べているのは、大江氏個人の経験を普遍的、全体的なものとしているようで、筆者は得心できない。

 障害というのは、〈乗り越え〉るものなのか? 出生以来、60何年と障害者をしてきた人間からすると、生活すべてが〈障害〉そのものだ。作家はなぜ〈受容〉だの、〈乗り越え〉だのというのか、唐突ないいぐさであるが、疑問に思うのでつけ加えておく。

(みやおおさむ・船橋障害者自立生活センター代表)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1995年10月号(第15巻 通巻171号) 37頁~39頁