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新障害者週間に寄せて

花田春兆

 国連が12月3日を、「障害者の日」と決定したという情報には、正直驚かされた。

 日本ではすでに十数年前から12月9日を「障害者の日」と定め、国民的行事にするために祝日化運動も展開している。それも国連が障害者の権利宣言を採択した日、ということを根拠にしているのだ。その国連がこともあろうに今になって、1週間も違う日を指定してしまったのだ。いっそのこと、もっと離れていればどっちかを選べば格好もつくだろうに、これではいかにも間違えたようになりかねない。どうなることかと思わざるをえなかった。

 ところが、ところが、国連の3日に始まり、国産?の9日に終る「週間」に纏めてしまった。お見事と言うよりない。

 外来のものを巧みに取り入れ同化させて、自分のものにしてしまう日本文化の特性と、現在の日本を支えている官僚たちの頭脳とを、同時に感じさせられるような話だ。

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〝日〟から〝週間〟へ広げられたことによって、国から都道府県、もしくは市区町村の行事まで、何もかも9日の1日に集中してしまうという、妙な過密現象は解消するかもしれない。と言っても、1日だけの行事は土・日曜日もしくは金曜日辺りに集中するだろうし、曜日で選べば年ごとに日付けは変るのだから、その日の持っている由緒や意味は薄らいでしまい、印象も弱まる怖れはある。

 私の個人的な感情では、総埋府主催などの国の行事は、もし続けるのなら従来通り12月9日の線を、崩して欲しくはない。十数年とは言えそれなりの伝統も出来つつあるのだし、それなりの理由も画然としてある訳なのだから…。

 そして、この日のために注がれた多くの人々の、熱い思いが籠められているからだ。

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 12月9日という日取りについては、実は制定された当初から苦情めいたものも、聞かれないではなかった。

 そろそろ師走の忙しさが始まる時期だし、南北に長い日本列島で北の方ではすでに寒冷の季節(雪はまだ本格的でないにしても)に入っていようし、寒さの中での外出が苦手の障害者が集まって何かをするには、決して良い時季ではない、という声だ。

 無理すればまだ許容できる限界だろうし、国際的なものだから……ということで押し切られているのだが、その声が消えてしまっている訳ではない。

 出にくくなる時期だからこそ敢えて引き出す意義が有るのかも知れないが、それはそれとして、寒冷地では屋外の行事を1か月繰り上げる、などの便法が取られてもいいのではないか。そして1か所に集中させる(その意義を否定はしないが)ばかりでなく、出来るだけ分散して、それこそ在宅でもリアルタイムで参加できるスタイルも考えられよう。

 一方向だけのマスコミの電波ではなくて、双方向性の衛星通信とかパソコン通信を活用することも考えたいもの。どうドッキングする(させる?)かは難しいとしても、草の根の障害者の声を、情報の広場に持ち出すことこそ、障害者の側からの障害者週間の行事の中心点なのだ。

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〝日〟から〝週間〟に広がったことで、障害者に因む行事は数も増え、いよいよ多彩になって行くであろうことに間違いは無い。

 一頃のような式典中心・政策要求重点、若しくは単純な慰安会型ばかりではなく、種々の文化的なジャンルのもの、そして同じ芸能的なものでも障害者が参加するスタイルのものが増える傾向に有るのは確かだろう。

 政策要求的なものが年々影を薄くしているように見えるのは、障害者の状態がまだまだ〝言うこと無し〟の状態には程遠いではないか……、と不思議にもなるし、そうした運動を引き継いで行く若い障害者の少ないのに現代を感じさせられたりはしている。

 そして参加タイプの文化的なものにしても、招かれ指導されての参加が主流で、企画し主催する中枢部にどれだけ障害者の顔があるのかと思い当たる節も多いのだ。

 そこまで欲を拡げなくても、流行を極めているカラオケにケチを付けようというのではないが、有るものを受け入れて楽しむばかりでなく、自分のもの、オリジナルなものへの創造にも心を向けて欲しいのだ。歌えなくても、楽器を手に出来なくても、ワープロで作詞しコンピューターで作曲出来る世の中が来ているのだ。もっとこうした方面に注目するものも、障害者週間の行事に現れて来てもよいのではないか。

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 ともあれ、その一方では明らかに障害者に向けるというよりは、一般社会・一般の人々に向けて障害者の存在を知らせるための、いわばキャンペーン行事が、むしろそれが当然の主流として催されてきた。

 批判の眼を向ければ、ここにも中枢部(現場を含めて)にどれだけ障害者の顔が有るのか、と問いただしたくなるようなものも無いではない。認識に違いのあるもの・誤解を生じやすいもの・誤った常識的価値以外には認めようとしないもの・必要以上に美談に仕立て上げたがるもの等々だ。

 障害者自身からすると、これは少しおかしいぞとか、こんな筈じゃないぞとか感じさせてしまうものが無いとは云えない。

 が、稀れにそうしたものが混じっていたとしても、総体的に見れば、そうした行事の年々の積み重ねが障害者間題を側面から推し進めて来たのも否めない事実だろう。そして今後ともに期待する以外には無いのだろう。

(はなだしゅんちょう 俳人・日本障害者協議会副代表)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1995年12月号(第15巻 通巻173号) 12頁~13頁