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文学にみる障害者像

北條民雄著 『いのちの初夜』

冬 敏之

 「駅を出て20分ほども雑木林の中を歩くともう病院の生垣が見え始めるが、それでもその間には谷のように低まった処や小高い山のだらだら坂などがあって、人家らしいものは1軒も見当たらなかった」

 これは、昭和11年の『文学界』2月号に発表されて大きな反響をよんだ『いのちの初夜』の冒頭の一節です。

 この作品は、主人公の尾田高雄がハンセン病(らい)を発病し、現在の西武新宿線東村山駅から全生病院(現在の国立療養所多摩全生園)に入園し、一夜の強烈な体験の中で生と死を見つめ、その先にわずかな光明を見出そうとする小説です。

 今ではハンセン病は治癒する病気の1つになりましたが、北條民雄が活躍したころは効果的な治療薬もなく、顔や手足に病変が現れることから恐れられ、大きな差別と偏見をもって見られていました。

 したがって、この作品に描かれている障害者像は、あくまでも昭和10年代の患者像であり、このような悲惨な状況は今は見られないということを、まず読者のみなさまに知っておいていただきたいと思います。

 なぜこのようなことを書くかというと、私自身昭和17年に7歳で多摩全生園に入園し、以後26年に及ぶ療養生活を体験してきたからです。

 さて、作品の主人公である尾田高雄は23歳の青年で、作者の北條民雄とほぼ等身大の人物に設定されています。病気も軽症で一方の眉毛が薄く「代わりに眉墨が塗ってあった」という程度です。

 そして、注目すべきは佐柄木という患者付添夫で、顔全体が病気に冒されていて年齢はわかりませんが、尾田より4、5歳上かと思われます。

 「崩れかかった重病者の股間に首を突込んで絆創膏を貼っているような時でも、決して嫌な貌を見せない」と描写される佐柄木は、片方の目が義眼でもう一方の目も視力が落ちてきています。それでも佐柄木は、膿汁で黄色くなった重病人の包帯やガーゼを交換し、排尿や排便の世話を黙々としているのです。

 軽症者が重症者を介護するという制度は、恐らくハンセン病療養所だけのものかもしれません。「同病相憐」とか「相愛互助」などのかけ声とともに、患者を通常の20分の1以下の低賃金で働かせようとした園側の思惑と、家からの仕送りなど望むべくもない患者にとって、たとえわずかでも小遣いを得たいという要求から生まれたものの1つです。

 佐柄木が付添夫をしている病棟は、ベッド数20ほどの大部屋です。昼間は3、4人の男性ばかりの付添夫がいるのですが、夕食後から翌朝までは当直とよばれる1人の付添夫が世話をすることになっていました。

 尾田のような新入園患者は、5日から1週間の医師の観察期間を病棟で過ごし、軽症舎や不自由舎へふり分けられるのです。のちに新入園者専用の病棟も建ちましたが、北條民雄が入園した昭和9年5月は、ここに描かれているように重病棟へ入られたのです。

 はじめて見る重症者の姿は、軽症な者にとっては大きなショックです。いずれは自分のあのような姿になるかもしれないという恐れは、鋭い矢となって突き刺さったはずです。

 「2列の寝台には見るに堪えない重症患者が、文字通り気息奄々と眠っていた。誰も彼も大きく口を開いて眠っているのは、鼻を冒されて呼吸が困難なためであろう。尾田は心中に寒気を覚えながら、それでもここへ来て初めて彼等の姿を静かに眺めることが出来た。赤黒くなった坊主頭が弱い電光に鈍く光っていると、次にはてっぺんに大きな絆創膏を貼りつけているのだった。絆創膏の下には大きな穴でもあいているのだろう。そんな頭がずらりと並んでいる恰好は奇妙に滑稽な物凄さだった。尾田のすぐ左隣りの男は、摺子木のように先の丸まった手をだらりと寝台から垂らしてい、その向いは若い女で、仰向いている貌は無数の結節で荒れ果てていた。頭髪も殆ど抜け散って、後頭部にちょっと、左右の側に毛虫でも這っている恰好でちょびちょびと生えているだけで、男なのか女なのか、なかなか判断が困難だった。暑いのか彼女は足を布団の上にあげ、病的にむっちり白い腕も袖がまくれて露わに布団の上に投げていた。惨たらしくも情欲的な姿だった」

 ベッドの上の重症者たちは、介護している佐柄木から見ても、余りにも痛ましく病み衰えていました。

 「尾田さん、あなたはあの人たちを人間だと思いますか」と、佐柄木は尾田に問いかけます。その言葉の意味を解しかねている尾田に、重ねて佐柄木は言います。

 「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです」と。

 この人たちの「人間」はすでに亡んでいると佐柄木は説きます。しかし、新しい思想と新しい目を持ち、らい患者としての生活を獲得する時「再び人間として生きる復る」と言うのです。尾田はこの男は狂っているのではないかと疑いながらも、佐柄木の言葉の強さに圧倒されるのです。

 悲惨な障害者の群像を描きながら、作者の澄んだ眼とその精神の健全さは、等しく識者の賞賛するところです。ここには強い人間肯定があります。だからこそ『いのちの初夜』は多くの読者をひきつけたのだと思います。

 北條民雄はこの作品の他に『間木老人』『望郷歌』『吹雪の産声』等数篇の作品を残し、昭和12年にわずか23歳3か月の若さで亡くなりました。死因は腸結核で、亡くなるまでハンセン病はほとんど進行せず、彼が作品に描いたような悲惨な姿にならなかったことが、せめてもの救いであったかもしれません。

(ふゆとしゆき 作家)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年1月号(第16巻 通巻174号) 46頁~48頁