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列島縦断ネットワーキング

[大阪]

豊中市議会から

入部香代子

 私の紹介から書かせて頂きます。私は、脳性マヒで自分ではほとんど何もできません。24時間介護体制をしいて生活をしています。子どもが2人、3人家族です。仕事は豊中市の市議会議員です。

●施設での青春時代

 私は、13歳の時から収容型の施設に5年と少し入っていました。当時は障害者が外に出ることは考えられなくて、重度になればなるほど収容型の施設か家の片隅でしか生活を許されていなかったのです。そして、当時は障害児は就学免除、猶予で義務教育は受けなくてもよいとされ、障害児の教育権を奪ってきました。私もその一人で集団教育は経験ありません。ほとんどの障害者がそうだったように、私も在宅で過ごし、また、施設で青春時代を過ごしました。20歳を過ぎ、「そよ風のように街に出よう」というフレーズで障害者の自立を掲げいろんな活動をしている団体に出会い、私の生活は大きく変わりました。

 それは20数年前のことです。20数年前というと障害者が外に出ることなど誰も考えられないような時代でした。私が介護者とデパートや映画に行く道々で「病院に行くの」「良いわね。どこの施設から」などと、よく声をかけられました。また、電車に乗ろうとしたら、「車いすの方はラッシュ時には乗せないようにと指導されているので、9時から5時までしか乗車できません」と駅員が言います。ラッシュを避けて乗る際でも車いすは荷物扱いになり荷物料金を取られます。その度に駅員と言い争いになるのです。喫茶店では、「障害者用の設備がない」と入れてくれないお店がほとんどでした。

 いまだに入れてくれない喫茶店、美容室や町医者などがありますが、20年前に比べればノーマライゼーションの理念が浸透されつつあるのか、少しは障害者を受け入れるようにはなってきています。

 働く場、雇用の問題で言うと、毎年、養護学校や校区の学校を卒業する障害児は、行き場がなく、小規模作業所を自らの手で作り、協力者に親や教師、友人の手を借りて地域の中で必死に生きようと懸命に頑張っている人たちが数多くいます。

●えーぜっとの会

 全国に毎年増え続ける小規模作業所を国はどう見ているのでしょうか。私も議員になる前、そして、今も豊中市の一角で「えーぜっとの会」と称し、障害者の生活基盤を作り出すために働く場の拠点として、無公害の粉石けん、無添加の手作りパンを製造販売し、また、パンのお店もオープンしました。しかし、決して運営のほうはうまくいっているとは言えません。石けん屋、パン屋は、雇用促進法での助成金、それに石けんやパンの売上げとみなさんのカンパで支えられています。そして、内職や公園掃除の仕事では豊中市からいくらか出る助成金で何とか職員の給料を払っています。月によっては赤字をどうして埋めようかなど散々苦心しながら20年間続けてきています。それは、障害者の地域での生活を少しでも確保したいというみんなの願いがこもっているからなのです。

 国は先に書いたように隔離施策から在宅を重視した施策へと移行しましたが、障害者の自立を支援する人材やシステムの施策が欠落しています。「自立支援」この問題が一番大切で、一番先に考えなければならない問題だと思います。今回の大震災の時でも高齢者や障害者が多く被災されています。いまだに元の生活に戻れないどころか、風呂にも入れないなど悲痛な生活を余儀なくさせられているのが状況です。このように、現行のヘルパーの派遣では、対応仕切れないままボランティアにゆだねています。また、生活に一番必要な住宅が高齢者や障害者には使いにくく、障害者が使える住宅が圧倒的に少ないのが悲惨な状況を生み出していると言えるでしょう。

 国や各自治体での公的な保障はやはりきっちり考えるべきだと思います。そのうえで市民に、行政からここはできないとお願いするべきでしょう。市民も行政が何でもやれるとは思っていないはずです。震災での安否確認の8割から9割は地域住民の間でなされました。このことがそれを示しているのではないでしょうか。

●市議会に入って

 震災、火災、こういった災害や経済問題、政治に関する問題など、社会的に何か起こる度に障害者や弱者と言われる人たちにしわ寄せがくるような社会、まちのあり方は、私たちみんなが解決していく問題だと考えます。

 私は、市議会に入って、いろんな問題が山積していることを再認識しました。そして、いろんな考え方があるのも学びました。市議会は、多数決の世界です。私たち障害者は、この多数決の世界で教育権や労働権、市民権をも奪われてきたと言えます。常に多くの意見のほうを優先させるのが今までのやり方だと言っても過言ではないでしょう。

 今、私は、豊中市の議員40名の中の1人ですが、その位置は大きいものだと痛感しています。私の意見が豊中市にどれだけ反映するかわかりませんが、責任の重さを仕事の中で毎回感じています。市議会に入った当初は何か意見を言う度に何人かの議員たちにやじを飛ばされたり、市の職員は私と直接話さず介護者を通して話しをする姿勢を取るなど、なめられているのが手に取るようにわかって、それは居心地の悪いものでした。

 3年4年と月日が流れるにつれ少しずつではありますが、車いすを担いでくれたり、横に座れば資料のページをめくってくれたりする議員も増え、職員も以前のように介護者を通して話すなどの対応はなくなり、やはり、一人でも当事者がいるのといないのとでは大きな違いがあるのを痛切に感じました。これからです。当事者の声をもっと反映できるのは。それには勿論私もいろんなところへ行っていろんなことを学ぶのも必要です。また、障害者の人たちも自分たちに今、何が必要なのかを考えて、行政に、そして、地域の人たちに提案し、より多くの障害者や支持してくれる人たちと共に議論を重ねることが大切だと考えます。

●障害者の声が行政にとどかない

 私は、豊中市の職員とよく話しをするのですが、「障害者からの声をほとんど聞かないので制度を拡大できない、予算を取るにはそれだけの裏づけが必要」と聞きます。実際には、介護だって必要だし、住宅の確保も重要な問題です。考えれば全てにわたりニーズはたくさんあると思うのですが、障害者の声が行政になかなか届かないといった現実があります。

 なぜでしょう。障害者がまず制度を知らないのです。情報がうまく届かない、あるいは、自分とは結びつかなくて考えられないのです。また、知っていてもどこに聞いて、持っていけばよいのかわからなかったりするのです。私は、よくこの類の相談を受けます。行政のアピールの仕方も決して誉められるものではありませんが、私たちの意識や勉強不足も手伝っているのではないかとも思います。

 私は、議会に入ってから公的な議会活動をするのだから、しかるべき人材を介護者としてつけて欲しいなど、豊中市にいくつかの要求をしました。議会活動と私的な動きと区別がつきにくいなどの理由で、それぞれの委員会の会議中での介護、委員会での視察には、ボランティアが一人同行するといった条件付きで、嘱託職員が付くことになりました。介護の人材が一人確保できたとは言えませんが、介護が必要だと市側に認めさせたわけですから画期的なことかも知れません。しかし、介護者が少ない状況での議会活動は厳しい毎日です。人は健康が財産だと言いますが、障害者にとっては地域の人間関係が財産だと言えるでしょう。それだけに障害者が生きていく上で必要不可欠なものは介護者の確保です。

 以前はがむしゃらに行政に対し、障害者の現状や要求を突きつけたり、行政側の差別発言に対し糾弾することを繰り返してきました。こういった草の根運動も大切です。今後は草の根運動と合わせて、障害者自身が、施策提案できるような仕組みを作るのと政治的分野にも積極的に参画することも大切になると考えます。

 最後になりましたが、障害者のみなさんに言いたいのは、困ることはたくさんありますが、とりあえず自分の自己実現に向けて家から外に出ることを実行することです。

(いるべかよこ 豊中市議会議員)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年4月号(第16巻 通巻177号) 62頁~64頁