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1000字提言

女が「選ぶ」ということ

玉井真理子

 私は、ダウン症の長男のあと、下の3人の子どもたちの妊娠・出産に際して、羊水検査は受けなかった。それは、決して度胸や覚悟があったからではない。私は、選択的人工妊娠中絶が前提になっている、すなわち胎児に「異常」あるとわかったら中絶するということを前提にした検査を受けた事実をひきずって、私の目の前で泣いたり笑ったりしているダウン症の子どもの存在と生活とに一生向かい合っていくだけの、度胸も覚悟もなかっただけのことだ。検査を受けた人が、自分の一生の中で障害児をもう1人引き受ける度胸がなかったのだとすれば、私は、別な意味で度胸も覚悟もなかっただけのことだ。

 いずれにしても、女は、その後の人生をかけて選んでいる。これから先の人生を全部かけて、引きずっていかねばならないであろうものの大きさを見据えている、かろうじて見据えようとしている。それに、私に関して言えば、検査を受けなかったからといって、今引きずっているものがないわけでは決してなく、検査を受けずに産んだ子が、普通の子でよかったと、つい思ってしまったことを、今でもずっと引きずっている。これは、私の大きな誤算だった。検査を受けさえしなければ、すっきりとダウン症の息子の存在と生活とに向かい合えるかと思っていた私は、やはり、浅はかであったと言わなければならない。

 女が人生をかけて選んでいるのだから、危なっかしいながらも少なくとも選ぼうとしているんだから、もっとちゃんと選ばせてよ!と、私は言いたい。女を生かせない医療に子どもなんか生かせるもんか!女の自己決定権すら守れないような医療に、子どもの人権なんか障害児の人権なんか、障害を持った胎児の人権なんか、守れるものか!首をしめられた弱者としての女は、身近にいるもっと強烈な弱者である子どもの首をしめるのだと私は思う。選ばせてもらえない女は、選ぶことなんかまったくできないところに子どもを追いやる、すなわち存在そのものを抹殺するという形で、犠牲にするしかない。私は女性の自己決定権をどうやって尊重していくか、ということを真面目に真剣に考えることが、結局は障害を持った子どもの存在を守ることにつながっていく。まず守るべきは、女である。

 どういう状態になれば「選んだ」ことになるのかという問いには答えられないが、少なくとも今の状況では、およそ、女が「選んでいる」とは言えないことだけは確かだ。

(たまいまりこ 日本体育大学女子短期大学保育科非常勤務講師)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年6月号(第16巻 通巻179号)27頁