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特集/結婚と生活~さまざまな状況~

ひまわりの集いの反省

―重度障害者の結婚への取り組み―

竹内正直

なんとも晴れない思い

 山梨県から事業の委託を受けて、未婚障害者の結婚促進事業「ひまわりの集い」(集団見合い)がスタートしたのが昭和47年である。以来この事業は25年間に300組近いカップルを社会に送り出した。

 同時に私の身体障害者相談員としての活動も、この制度(身体障害者相談員設置要綱、昭和42年8月1日厚生省社会局長通知)の誕生からであるから、約30年近くになる。

 この間、さまざまな形で障害者の結婚にかかわった者として、私の心の中に今なお澱のようにわだかまって離れない、なんとも晴れない思いがあって、そこから容易に抜け出せないでいることに忸怩たるものがある。

 それはこの長い運動の中でついに60歳、70歳と年をとった今も、配偶者にめぐり合えないでいる人たち、つまり取り残された人たちが多くいることである。

 結婚は〝縁〟が取りもつとされている。〝縁〟とは出会いの機会であり、その機会に居合わせた人との、一期一会のめぐり合わせである。

 私たちはひたすらこの〝縁〟を頼りに、機会と、人と、場の提供をすすめてきた。そして事実この中から、たくさんのドラマとカップルの誕生をみたのである。

 しかしこの出会いに、すがるような思いで集い、真剣に相手を求めた人たちに、さらにそのあとも関係者が第2、第3の引き合わせ、斡旋をしてなお、どうしても相手を得ることができずに、いつの間にか齢を重ねてしまった人たちが意外に多い。

 それが、比較的障害の重い人たちである。この人たちの、さらに先行き永い人生を考えると、私の心は痛むのである。

この世の最も多くの人と同じ生活を

 1981年の国際障害者年の前年であったと記憶しているが、この年の「ひまわりの集い」に、八王子からO君が車いすで参加した。

 O君は重度脳性小児マヒ後遺症で言語機能が不全、極度の四肢マヒのため、排便、食事もすべて他力を頼むという重度障害ながら、独学で二十歳にして大学受験資格検定試験に見事合格、東京理科大学理学部数学科の全課程を履修、その後高校数学教科書および参考書の改訂作業に従事したり、ラングの『代数系の構造』の共訳をしたりという健常者も顔負けの活躍をしてきた経歴をもっている。

 O君の介助で来たお母さんが、O君に代わって自己紹介をした後、「私たち(両親)の死後、この子が生涯にわたって困らないようにこの子のそばにいてくださる方との2人分の不動産(土地と住まい)と動産(生活資金)を遺しております」と結び、参加者に衝撃的なアピールをした。お母さんの必死の思いと訴えにもかかわらず、1泊2日のこの催しでO君の伴侶となる人はついに現れなかった。

 O君は帰宅後、私に次の手紙を寄せてきた。

 『(前略)ご承知いただいておりますとおり、私は極めて障害も重く、条件もよくありませんので、私にとってはあの集いの目的を果たすことが非常に難しいことはわかっているつもりでございます。そしてまた、そういう私にとって、結婚することが難しいということだからか否か、知人などの中には私に「人並みに収入を得、結婚したいなどという考えを捨てて、何でもいいから自分の本当に好きなことに一生を打ち込め。そのほうがよほど幸せな生き方ではないか」と言ってくれる人もおりました。けれど、そのような話は私には少しもわかりませんでした。と申しますより、そのような考えにはなれないのです。自らの力で収入を得、家庭をもち、家族を養うというこの世の最も多くの人がしているそれに、できるだけ近い形で生きていくことこそ、私たちにとって最も幸せな生き方なのだという考えを、私はどうしても変えることができませんでした(後略)』

重度者の参加を暗に阻んだ自責

 私は、重度障害者としてのO君の参加と、まさに一人の生活者としてのO君のこの切々たる訴えによって、O君やO君と同じ障害を有する人たちが、障害のない人と全く同じ希いと思いをこの事業に寄せていることを知らされたのである。私としたことが、成婚の実績ばかりに目がいって、実は今までこの催しから重度障害者の参加を暗に阻んできたことに自責を痛感したものである。

 私はただちに「ひまわりの集い」実施要綱の中から「宿泊可能で日常用務の足せる方に限ります」の全文を削除した。

 人はどのような障害や立場をもっていても、思春期を迎えれば等しく心さわぐ青春の血がたぎり、人恋うるこまやかな心情が揺れ動くものだという、この大事な事実を見落としてきたからである。

 そして何より、人としてだれもが願ってやまない、人と人が心を通い合わせ、互いにあたたかく支え合う家族や家庭の幸せが、決して夢想ではなく現実の課題としてこれらの人にあることを思い知らされた。

 しかしながら、その後も依然としてこの重い課題に「目からウロコ」の落ちる回答は無いまま、催しはその形や内容を変えながら現在も続いている。

個々の希望に沿ったプログラム

 こうしたなか、1993年に日米障害者協議会やまなしフォーラム’93が本県で開催された。

 このときアメリカ代表団のスピーカーとして来県したウエルズ・ファーゴ銀行副社長、ニール・ジェイコブソン夫妻は、ともに言語機能が十分でない脳性マヒの電動車いす常用者であった。

 この催しでは、私は幹事役の実行委員長の立場にあったが、ジェイコブソン夫妻が滞在中全く健常者と変わらぬ生活をし、いかにも来日、来県をエンジョイしている活き活きとした姿に接し、毎日のように目をみはるばかりであった。

 そしてお二人は養子をもらって、大変楽しい家庭を作られていると聞いた。

 養子といえば、団長のマックス・スタークロフ夫妻もともに車いすで、しかも養子を二人抱えてにぎやかな家庭を築いておられるという話であった。

 私はこの人たちに接して、私たちのすすめてきた事業が、どんなに理想をたかく掲げたところで、どうも結婚周施所、結婚仲介業の域を出ないものとなっていはしなかったかという反省しきりであった。

 O君の言うように、障害の種別や程度にかかわりなく「自らの力で収入を得、家庭をもち、家族を養うというこの世の最も多くの人がしているそれに、できるだけ近い形で生きていく」ことを望んでいるその一人ひとりに物差しを当てて、もっと自由に当事者自身の都合に合わせ、個々の希望に沿った内容で行うこと、催しや行事化を離れて参加者の暮らしの一環として、あるいは生活の延長線上でプログラムを組むこと、少なくともこのことを基本に取り組むというスタンスが大切ではなかったか。

「幸福追求の権利」の保証

 いま重度障害者は自身を、必ずしも重度の障害を有しているとは認識していない。有効な介助の手だてが、その必要とする機会に十全に働きさえすれば、障害のない人たちと同様の暮らしができることを知っているからである。

 ただ、30年間にわたる運動を通して痛感するのは、民間のこの種の事業としては、人と資金の上で限界があることである。

 アメリカの2組の夫婦に見るまでもなく、1990年の〝障害をもつアメリカ人法(ADA)〟の成立以前に、アメリカは教育、雇用の分野で障害の有無や程度にかかわりなく、限りなく「統合化」をすすめ、有能な人材の育成・登用を行い、障害のない人たちと同じ生活を共有できる条件整備ができている。

 わが国の場合は、結婚以前の障害者の生活圏や生活基盤、環境整備の上でクリアすべき課題やバリアが山積しているという違いが歴然とあるということだ。とはいえ重度障害者の結婚の問題は、憲法13条が示す、人間としての「幸福追求の権利」を保証するという「人権」の問題として考えると、一刻もゆるがせにできないことと私は考える。

 だからこそ行政をふくめて公は、その責任を民間と等しく分かち合い、民間の意志を十分満たしていく必要がある。

地域住民の理解も不可欠

 もちろんこの運動に、こうした事業と全くかかわりをもたない地域住民の理解と協力が不可欠であることは言うを待たない。

 よく近所の年頃の息子や娘について、頼まれもしないのにいい嫁さん、婿さんはいないかなどと茶の間の話題になる、その噂話しの中に、ごく普通に適齢期の障害者も入れて欲しいものだ。そして写真を持ち込んだりねだったり、余計なお節介をかけて欲しい。この暮らしの些事が、巧まぬ仕掛けとなりパワーとなって運動を牽引していくことにもなるに違いない。

 最後になったが、この他知的障害者・精神障害者の結婚の問題も忘れて欲しくない。

 これらの人たちについても、いたずらにタブー視することなく、一人ひとりのもっている考え方や生き方に積極的に深く分け入り、専門家を混じえて確かな手をのべる必要がある。

(たけうちまさなお 山梨県障害者福祉協会・本誌編集委員)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年10月号(第16巻 通巻183号)21頁~23頁