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1000字提言

オリンピックへの期待

岩井菜穂美

 去る7月に開催されたアトランタオリンピックは日本との時差が13時間もあり、見たい競技が真夜中に行われることが多く、夜更かしの苦手な私は、結局ビデオや録画放送に頼らざるを得なかった。環境破壊などの問題でオリンピック反対の声もあるが、自身の限界に挑戦する凛々しい姿を見るのが私は好きだ。

 ところで、今回開会式の入場行進を見ていたら、イタリア選手団の中に車いすの女性が1人交じっていた。アーチェリーの選手だそうだが、私はすごく嬉しくなった。そして、もっと障害のある選手がオリンピックの入場行進をする光景を見たいと思った。

 通常、オリンピックの後にパラリンピック(オリンピックの障害者版)が開催されるが、これは本当はおかしなことではないか?「世界から障害のあるスポーツマンが一堂に集まってその技を競い、また交流を深める」と言えば聞こえはよいが、『健常者は健常者同士、障害者は障害者同士で』という世の中の図式がすっぽり当てはまっているだけの話で、ノーマライゼーションの理想からはほど遠い。イタリアの福祉の現状はよくわからないが、スポーツでは差別など少ないのかもしれない。

 健常者にしかできない競技、障害者スポーツといわれる競技、そういうもののためにやはりオリンピックとパラリンピックの両方があるべきだという意見も多いだろう。しかし、『車いすバスケットボール』や『盲人卓球』等のいわゆる障害者スポーツを一般の競技種目と同じ扱いにすれば、パラリンピックをなくしてオリンピックに統合できる。そうなれば全世界の人々に障害者スポーツを紹介し、PRできる絶好の機会となり得るのだ。

 教育、就労、果ては文化やスポーツの面でも健常者と障害者は徹底して分けられている。福祉の分野でがんばっている人たちが、いくらノーマライゼーションの重要性を説いたり訴えたりしても、さまざまな分野で活躍する人々や責任者がそれを同じように理解してくれなければ「馬の耳に念仏」で全く意味をなさないし、障害のある人とない人とがあたりまえに暮らせる社会などできるわけがない。

 将来、オリンピックの入場行進で健常者と共に車いすに乗った人、白杖を持った人など本当の意味で個性豊かなさまざまな人々が堂々と歩く姿を見られることを祈っている。

(いわいなおみ 北九州自立生活推進センター)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年10月号(第16巻 通巻183号) 39頁