音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

文学にみる障害者像

ウィリアム・ホアウッド著 矢野 徹・藤井久美子=訳

『スカヤグリーグ~愛の再生』

坂部明浩

 本書はイギリスの作家、ウィリアム・ホアウッド氏によって1987年に書かれ、日本では1991年に翻訳され、出版された作品です。日本版では上下巻で合計800頁にもなる大作です。

 「スカヤグリーグ」とは、障害者が窮地に立たされたときに現れるという伝説の存在の名前です。

 その「伝説」は、1920年代に〝精神薄弱〟という病名のもと、精神病院に収容されていた「アーサー」とその仲間たちが、意地の悪い看護人に虐待を受けながらも、「スカヤグリーグ」を心の支えとしていたことに端を発しています。

 1920年代から70年代にかけては、多くの精神病院はまだ、社会から閉じた存在で、そこの「患者」の処遇が劣悪であったことが、ここで語られます。またアーサー自信は実は脳性マヒであったものが、医師の無理解により、精神薄弱と診断され精神病院に入れられたことが後で明かされます。

 1980年代に入って閉鎖型の病院は次々と解体されていきますが、その記録されることのない歴史の風化を目前にして、一人の少女、エスターが登場します。脳性マヒの障害をもつ彼女は、同じ障害をもつ友だちからスカヤグリーグの伝説の話を聞き、興味を持ちます。自らの意志疎通の手段としてパーソナルコンピュータを駆使し始めていたことがそれに拍車を掛けます。彼女は何人もの人から聞き取った伝説の断片をパソコンに入力していきます。

 それを通じて、その伝説に登場する主人公「アーサー」が(年老いたとしても)実在するのではないか、と実感したエスターはかすかな手掛かりをもとに、アーサーを探し求める旅を始めます。歴史の闇にフタをする力に抗して、「スカヤグリーグ」を呼び求めるアーサーの声に耳を澄ませながら…。

 また、そのアーサーを探す旅そのものを、エスターは自ら製作するロール・プレーイング型のパソコンゲーム「スカヤグリーグ」のシナリオに反映させていきます。

 お陰でエスターが創った「スカヤグリーグ」はある種、異常なほどのリアリティをもったゲームソフトとして、1990年代後半には爆発的に売れていきます。そしてそのゲームソフトを、アーサーの孫でありながらアーサーのことを知らされていない「僕」が手にするという実に手の込んだ展開は、まさに小説の体裁をしたロールプレーイングゲームそのものといっていいでしょう。

 この作品がイギリスで発表された80年代には日本でも『ノーライフキング』や『山田さん日記』のようなパソコンゲームの小説が生まれましたが、いずれも主人公(や読者さえも!)が現実からパソコンの画面の中の虚構にのめり込むタイプの小説で、逆に、この小説のように読んでいるうちに自分の役割(現実)について考えさせられるという小説は、稀であったといえるかもしれません(小説の中でも「僕」が「自己逃避を許さないゲームである」と感嘆しています)。

 昨今では、インターネット出現により、金子郁容氏も指摘されるように、「阪神大震災等の状況を他人事として済ませるのではなく、自分に地続きのこととして若者も考え始めている」という点で、1990年代後半に「世の社会現象になった」ゲームソフト、「スカヤグリーグ」はまさにこのインターネットの時代にこそ相応しい、と私自身、読者の一人として早くも虚構と現実をゴッチャに考えてしまっている次第――。

 さて、そのリアリティを導き出している小説の中の障害者像について触れねばなりません。一つ指摘すべきは作者のホアウッド氏自身、脳性マヒの障害をもった娘さんがおられることです。それが小説にも生かされているようで、例えば、主人公が電話をするシーンでも、「用件を伝えた」の一文で済むようなシーンでさえも、エスターの代わりに相手に電話をしてくれる人とのやりとりを細かく書いています。「エスターはいま質問をいくつかタイプしています」と代理で話している者が、電話の相手に対して、こちらの状況を説明しているシーンなどが、それです。

 あるいは、「小サイトキカラノ訓練ナノ!痙攣性脳性麻痺患者ハ、行間ヲヨマナクテハイケナイノ」とエスター自らがタイプしているような、行間を読む会話も父との葛藤や父の新しい恋人との葛藤の中で出てきます。

 また、主人公のエスターが、劇作家で身体障害者解放戦線議長の男性と出会うことで、自分と過去のいまわしい歴史を切り離すことはできないということに目覚めていくシーンも、その男性のやや強引な言動に戸惑いながらも惹かれていくという80年代の若者の状況をよく描いていました。

 脇役には(人によっては彼こそが主役であったというかも知れませんが)トムがいます。彼はダウン症です。エスターとトムとの関係は友だち以上、恋人以下といった関係なのですが、エスターはいつもトムに身の回りの用事を頼みます。

 そしてトムのもっとも得意で大切な「仕事」がエスターの書いた手紙をポストに入れて来ることでした。いや、正確にはポストにちゃんと入ったかどうかを差し出し口から覗き込むという「任務」を負っていました。この辺多少、ステレオタイプ化した障害者像と取れないこともないのですが、この任務がこの小説のキーポイントになっていたことが、あとになって読者にも分かります。「トムならばやってくれるかもしれないな」そんな期待を読者に抱かせるシーンです。

 そして何よりも、「スカヤグリーグ」という名前自体が、障害者だけにしか通じない謎の言葉として登場してくる点が大切です。私たちでもよく、重度の脳性マヒ者の言葉が聞き取れなかった時、そばにいる同じ障害の者が聞き取って教えてくれたりすることがあります。が、そのうちに、だんだんと本人の言葉に慣れて来るという経験をおもちの方もいらっしゃることでしょう。精神病院で看護人たちの虐待を受けている状況下で、障害者だけにしか通じない言葉(綴りも通常の英語と違っています!)が生まれていったということは重要です。

 それはちょうどろう者が手話をろう学校で禁止されていた時代、ひそかにお互いの手話を広め合っていたこととも似ているかもしれません。もちろん、私たちには及びもつかないネイティブな手話で、ですが。

 もちろん、こうした障害者像でさえ、当事者から見たら不十分といえる部分は多々あることでしょう。しかし、一方で果たして「文学の中の障害者像」という時、それだけをプレパラートの上に取り出すようなやり方で客観的に評価するということだけが、唯一の評価になりうるかという疑問は残ります。もっと文学と我々の日常とのダイナミックな関係の中での評価がそれとは別に存在してもいいのではないか、と思えるからです。

 『スカヤグリーグ』が日本で登場してまもなく、ある日本の民俗学者が自著の「あとがき」で『スカヤグリーグ』の第1章の有名な1節を余計な説明を付けることなく、そのまま載せていました。なぜ「日常を採取する」ことを仕事とする民俗学者さえもが『スカヤグリーグ』に魅せられ飛びつくのか?ジャンルを超えて広がることを望む「ノーマライゼーション」のヒントがここには転がっているような気がします。ぜひご一読(プレイ?)してみてください。

(さかべあきひろ ライター)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年10月号(第16巻 通巻183号) 76頁~78頁