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1000字提言

「つながり」社会だった江戸時代

田中優子

 さきごろ、SF時代小説家の石川英輔氏と共著で、『大江戸ボランティア事情』という本を出した。これは江戸時代にボランティアという概念があった、という話ではない。むしろそのような言葉も概念もなかったのに、生活実体は、金銭のやり取りを重視しない互助コミュニティだった、という話である。私はこの本を書きながら、「つながり」こそが、成熟したいい社会を作る、もっとも大切なものではなかろうか、と何度も考えた。

 江戸時代の障害者でもっとも有名なのは塙保己一である。「番町に過ぎたるものは2つあり、佐野の桜に塙検校」とうたわれ、当時から人々に尊敬され慕われていた。大学者でありながら、粋人が集まる狂歌連のメンバーでもあった。しかし、盲人でありながら学者になったことを、「個人の努力」としてだけ評価するのは、もったいない。もっと大切なことが、ここには秘められている。それが「つながり」なのだ。

 まず当道座という大組織の存在だ。これは権力と経済力をもち、盲人たちを子どものころから職業訓練し、職を配分する全国組織だった。そして驚くべきことに、その職業訓練は保己一の場合のように、定型から逸脱することもあった。保己一はいわば、按摩も鍼も音曲も一向にうまくならない当道座の「落ちこぼれ」だったのである。

 その彼に熱心に耳から学問を教えたのは、当道座の師ではなく、むしろその周辺の健常者たちだった。ここには、当時の「読書」というものの特性も関係している。声を出して読むことは今よりずっと一般的だったので、わざわざ「ボランティア」をする必要もなく、「一緒に読もう」と思っていつもより声を少々高くすればいいだけなのである。健常者たちの多くも、耳学問で学んでいた時代だった。保己一はひとりで勉強したのではなく、多くの人たちと一緒に勉強したのである。

 しかしここには「ついで」以上のものもあったはずだ。それは、だれかを助けられることの自然な喜びである。私は花田春兆さんや援助者の人たちと旅をしたことがあるのだが、その時、駅の階段の上で「手を貸してください」と呼びかけて車いす運びを手伝ってもらった人たちの、照れくさそうで嬉しそうな顔が忘れられない。私自身も何度かそんな気持ちを味わっている。これは「喜び」としか言いようのないものだ。保己一も、その喜びを周囲に与えていたのだと思う。

(たなかゆうこ 法政大学)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年1月号(第17巻 通巻186号) 39頁