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文学にみる障害者像

ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳『春の嵐』(ゲルトルート)

御子柴昭治

 避けがたい運命を自覚をもって甘受し、よいことも悪いことも十分味わいつくし、外的な運命とともに、偶然ならぬ内的な本来の運命を獲得することこそ、人間生活の肝要事だとすれば、私の一生は貧しくも悪くもなかった(注1)。

という、音楽家クーンの回想からはじめられるこの物語は、彼が「外的な運命」(左足の複雑骨折)とたたかいながら、自分の芸術と人生をいかにして可能にしていったか、を内容としています。

「青春の戯れ」が

 彼クーンは、6、7歳のころから「目に見えぬ力のうちに、音楽によって最も強くとらえられ支配されるように生まれついていることを知った」といいます。
 学校を終えると親の反対をおして、首府の音楽学校に学ぶクーン。ところがどうしたことか音楽に身が入りません。最終学年の冬、彼は仲間たちと雪遊びに出かけ、そこで1つの運命に見舞われます。好きな女友だちにそそのかされた彼は、急な斜面をソリで落下し、木に激突、左足を骨折し、一生「かけることも踊ることも」できない肢体の障害を負う身となります。療養生活は3か月にもわたり、彼はそこで自分の「内的な本来の運命」を改めて自覚し、音楽家への道を歩みはじめるのです。
 学校に復帰した彼は、彼の音楽を強く支持する新進歌手ムオトの知遇を受けるのです。1年後、彼はムオトの推薦によりR市の歌劇団にバイオリニストの職をえます。彼は1人の友人とムオトとの交流のなかで、少しずつ創作をすすめ、音楽家として世に認められるようになります。
 何よりも音楽愛好家の娘、ゲルトルートとの出会いによって、彼は「春の嵐」を経験し、「愛と仕事」「音楽と生活」のるつぼで身を焼きながら、オペラの作曲はすすめられます。
 ところが、そのゲルトルートは、彼の兄貴分のムオトと結ばれることになり、絶望した彼はついに自殺を決意します。ところがその実行の日「チチキトク ハハ」の電報によって、彼の自殺は未遂に終わります。
 彼は運命に大きくゆさぶられながらも、作曲家として世に認められ、物語は、後年、未亡人となったゲルトルートと、友情をあたためあい、歌やソナタを作曲していく日々を描いて、静かに幕となります。

弱者へのあたたかい目

 ヘルマン・ヘッセ(1877年~1962年)は、『郷愁』(1904年)発表以来、作品のなかで「小さいもの」や弱者・障害者などに対し、つねにあたたかい目を注ぎ、作品を書いています。たとえば『郷愁』のなかでも主人公ペーター・カーメンチントに次のように語らせています。

――きみたちは、身障者や悲惨な人たちのあいだに、ひいでた、静かな、輝く目を持った、そういう人を見たことがないだろうか。もしきみたちが私の貧しいことばに耳を貸すことを欲しないなら、彼らのところへ行くがよい。彼らにおいては、欲望のない愛が苦悩を克服し、光で満たしているのだから(注2)。

 また、彼の生い立ちを色濃くおとしているという第2作『車輪の下』(1906年)では、少年主人公ハンス・ギーペンラートの傷つきやすい心の内面を、アルプスの美しい風景と交響させながら、愛情深く描いています。
 それらの基調にあるのは、ヘッセ自身の少年時代の「自殺未遂」の体験や苦悩が、彼の文学の核となっているように思われます。
 ここでとり上げた『春の嵐』(1910年)では、主人公に「愚かしい青春時代」の事故による障害を負った音楽家を登場させています。ヘッセがいかに弱者に心を寄せていたかがわかります。

障害を負うていたればこそ

 音楽家をこころざすクーンは、すでに20歳をこえていました。前にも触れた事故のために、彼は長い療養生活を経験します。彼はそれを「自分の青春はむざんに切断され、見るかげもなくされ」てしまったが、これは自然が自分にとって必要な「休息をとらせた」のだと悟っていきます。
 そこに「久しく遠のいていた音楽」の訪れがあり、自分は「音楽をやること」以外には生きる道のないことを自覚します。こうして彼は「不具となった足もたいしたことではない」とさえ思えるまでに回復していきます。
 しかし、彼は以後、事あるごとに自分の肢体障害に心乱されます。療養生活を終えて故郷に帰った時もそうでした。彼は再び「自分の青春が失われてしまった悲しみ」のために、外出もできず、憂うつのなかに落ちこんでいる自分を見出すのでした。それをいやしたのは「ひとり旅」であり、「自然」でした。彼は「静かな貧しい村のたった1軒の小さい宿屋」に泊り、孤独のなかで親しく自然に触れ、憩うのです。「高地での数週間は私の一生のもっとも美しかった時」として、この経験は作品のなかでも何度かくり返し思い出されています。
 音楽家として世に出た彼は、その評価についても素直に喜べないのです。それは「彼らが自分をいたわり、自分にあんなに親切にしてくれるのは、自分が、人が好んでなにかの慰めを与える哀れな身障者であるからだ、と思われることさえよくあった」(注1)からです。
 ことに、彼が「春の嵐」を経験した時も、ゲルトルートの思いを彼はこう受けとっていたのです。「私は彼女の快活さを信じなかった。彼女が私に示す愛情とこまやかな好意とを、私はいとわしい同情に帰していた」(注1)と。
 では彼クーンは、障害に負けた生き方しかできなかったのでしょうか。そうではないのです。彼はやがて自分の障害を「運命」として引き受けると、そこから新しい人生をきりひらいていったのです。
 「われわれ人間の中には、親切と理性が存在する」し、「私たちはたとえ短いあいだだけであるにせよ、自然や運命より強くありうるのだ」(注1)だから「私たちは必要なときには、たがいに近より、たがいに理解する目を見合い、たがいに愛したり、たがいに慰めあって生きることができるのである」(注1)という結末に近い部分の文章は、重おもしく響きわたってくるのです。

 ヘッセは、1910年代、私たちに人生への信頼をこう語りかけていたのです。それはクーンが芸術家であると同時に、障害を負っていたからこそできたのだ、と、ヘッセは言いたかったのではないでしょうか。

(みこしばしょうじ 東京総合教育センター教育相談員)

〈注・引用文献〉

(1) 『春の嵐』新潮文庫、昭和25年12月4日発行
(2) 『郷愁』新潮文庫、昭和31年8月発行


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年4月号(第17巻 通巻189号)36頁~39頁