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1000字提言

ゆとりのメッセージ

─あるがままに─

加賀美幸子

 それ以前も漠然とはそうであったが、自然であること、あるがままが、何よりほっとする自らの在り所であり、唯一の拠り所と心の深くにとどめたのは10代の後半であったように思う。その後放送という仕事の長い旅を一つひとつ重ねながら、今に至っているが、「あるがまま」を心に据えて、ささやかな歩みを続けているのは、以前と変わらない。いや、そうだったからこそ続けて来られたといってもよいような気もする。
 「あるがまま」は、ただ身を任せていればいいという消極的なものでは決してない。何事が起きても、何があっても、あるがままの自分を見つめながらすべて出し切って、強く謙虚に生き続けることかもしれない。
 自然であること、あるがままであることはナレーションひとつをとっても、挨拶ひとつをとってもいかに難しいことか常に思い知らされる。日常生活上の限りないさまざまな問題の一つひとつに、あるがまま自然に対することは何と困難なことだろうか。でも最近、歳をとるに従って、「あるがままにしたい」と思い続けるそのことが、何だかそのまま大事に思えるようになり、同時にさまざまな物事に以前より自然になれる自分が感じられ、少しほっとしている。…そんなある日、中村久子さんの壮絶な生の道のりからの鮮やかなメッセージが胸に飛び込んできた。
 両手両足のない中村久子さんの幼いころからの苦節の道と、境遇を乗り超えた光の道は、その著書などで広く知られているが、私が捉えた中村さんのメッセージは、障害のあるなしにかかわらず、すべてに通じるものであった。「何で自分だけがこうなのか。どうしたら抜け出せるか」…そう考えたらそれは混沌の坩堝に陥るだけで苦しいばかり。悔やんだり恨んだりではなお苦しいばかり。しかし苦しみや悲しみの坩堝も、あるがまま捉え腹をくくってしまえば坩堝は坩堝でなくなる。どうにかしたいと抜け出る努力する苦しみと、努力できる、努力させてもらえることの有り難さを思っての対し方とでは喜びの大きさが全く違う。ここまで努力してきた、頑張ったという意識より、ここまでやってこられ、頑張れる魂をもらっていることの幸せを思うこと。…想像を絶するほど厳しく壮絶な中村久子さんの人生だが、そこから聞こえてきたのは、「あるがまま」を命かけて生きた人の、豊かで鮮やかな「ゆとりのメッセージ」であった。

(かがみさちこ NHKエグゼクティブ・アナウンサー)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年9月号(第17巻 通巻194号)36頁