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特集/これからの障害者運動

これからの障害者運動に一言

人間の尊厳を求める運動の展開

八代英太

 私自身、脊椎損傷になったときは絶望のどん底でした。しかし、悲嘆に暮れてばかりいられないのでリハビリテーションに励み、また何を成すべきかを考えました。そんな折、多くの仲間からの後押しもあって「車いすを国会に!」と福祉面から政治に参加することになったのです。と一口に言っても、事態は簡単ではありませんでした。多くの人から励まされたばかりではなく、障害者に対する偏見もあったり批判もうけたりの歩みでした。
 さて時の日本は、高度経済成長期にやや陰りが見えてきた頃でしたが、当時は生産性に寄与できるかどうかが人間の評価尺度であり、そうしたなかでは病気や障害をもった人は十分な処遇がなされないものですから文字通り、私はあの施設、この町、この人の代弁者になりながら、手当たり次第福祉の洗い直しに着手し、一つひとつを積み重ねる毎日でした。それは、時には過激なまでの行動もしましたし、行政への叱責も厳しくあたってきました。
 思い返せば、アメリカのCIL運動に刺激されていた青い芝の会等の運動が活発だったのもこの頃でした。彼らの活動は、当時はラジカルな活動と言われていましたが、今では当たり前になったのです。
 国連の決議の下、障害者の「完全参加と平等」を目指した国際障害者年以降、さらに多くの病気や障害をもった人が運動に参加してきました。日本社会も成熟してきましたし、豊かにもなってきました。障害種別を超えて運動は展開されてきましたが、一方ではそれだけに運動にハングリーさや焦点が欠けてきました。物は豊かになり世の中も平穏になったということでしょうか。しかし、それは見かけだけのことです。あるいはいつまた引っくり返るかもしれません。
 人間は如何に生きるかが常に試されているのです。人生はチャレンジだと思います。何もない人生より何事かの意義を求める人生のほうが豊かなのです。多くの障害者は不屈の思いで人間の生きる意味や証を追い求めているのです。「QOL」を充実するべく、今後とも偏見や差別と闘う姿勢がなくてはならないと自覚しています。障害者運動は自分のためにやるのではなく、人間の尊厳を求める人間共通な事象として、共に歩む道づくりにならなくてはいけないと思うのです。
 そうした見地から見ると、今後の障害者運動は常なる、しかも内なる緊張をもって人権意識に対して積極的に活動し続けることが大切だと思います。人間の生きる原点と共に障害者の生きるバネが再確認されなくてはならないのです。私は衆議院議員法務委員長になって「人間擁護施策推進法」に取り組んだのも、まさにそのためでした。
 具体的には、広い視野と見聞と経験をもって活動することが重要です。そのためには海外を含めて日本全国の幅広い情報をもつことです。情報こそ私たちの運動のコヤシでもあります。まだまだ日本には病気や障害・貧困故に差別や偏見の下に苦しんでいる人が少なくありません。自分たちが少し豊かになったからといって安心してはいけないのです。障害者運動は、宮沢賢治のように「西に困っている人がいたら水を持っていってやり、東に病人がいれば看病してやり」といった細心さと行動性をもった生き方をしてほしいものです。
 障害者団体にしても同様です。自国のこと(自分の団体)や自分のイデオロギー(思想や価値観)ばかりではなく、人間全体のことを考えて欲しいものです。そのためにはカテゴリーを超えた連帯が必要でしょう。その上でもっと主張をして欲しいと思いますし、万人のための21世紀に向けて自分たちの子孫に、またこれから病気や障害をもつかもしれない人々に恥ずかしくない運動を展開していって欲しいものです。

(やしろえいた 「障害者プラン推進議員連盟」事務局長)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年10月号(第17巻 通巻195号)22・23頁