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文学にみる障害者像

シェイクスピア著『リア王』

塚田高行

 岩石と、そして草1本生えていない土くれだけの荒野。索漠とした内面風景を想わせる白い舞台。どこで見つけたのか、折れ曲がりささくれだった木の枝を杖の代わりとし、老いたリアがよろめきつつ歩いている。身なりはといえば、頭には、枯草を結い縄でつないだものをかぶりものとし、裾の破れたよれよれの灰褐色のほとんど衣服とは言えないような服を身にまとい、裸足でさえある。時に立ち止まり、暗黒の空を見上げ、腕で威嚇し、天に呪いの言葉を吐く。「火よ、柏の大木をまっぷたつに突ん裂く雷のさきぶれよ、わしの白髪を焼きこがせ!」

 イギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)の4大悲劇の1つ『リア王』。前述したのは、その第3幕〔荒野〕の場面、わたしが数年前に観た劇団民藝公演の『リア王』(米倉斎加年演出)を思い起こして書いたものです。権力も富も付き従う騎士も失い、怨言に突き動かされ、荒野を杖をつき徘徊する老王リアは、もはやかつての強壮さはなく、その舞台上の挙動からみて、障害者である、と言ってよいでしょう。
 自分を裏切った娘たちを罵倒し、天と地の全てを呪い、風よ吹け、雨よ降れ、と叫ぶ老王リア。演出とともに自らリアを演じた米倉は、シェイクスピアが戯曲の中で悲壮な人物として設定した、正気を失い激昂している老王を、悲劇の主人公として完璧に演じる、つまり、そうした老王の悲劇的な役柄になりきり、その悲劇性に役者である自分を没するというふうには演じませんでした。そうではなくて、彼の俳優としての特性もはたらいてか、リアを、時として冷ややかに、むしろ突き放して演じていました。

 さて、ここで、シェイクスピアの4大悲劇の中でももっとも壮大と言われている『リア王』のあらすじを、リアにかんする部分に限ってだけ簡略に記しましょう。

【第1幕】 ブリテン王リアは80歳になったので領地を3人の娘に分配しようとする。上2人は、へつらいの言葉をならべて王をよろこばせる。末娘コーディーリアは、控えめな誓いだったため、王に勘当される。
【第2幕】 上2人は誓いを守らず、悪だくみをして王を虐待する。
【第3幕】 たまりかねたリアはついに荒野に出て、暴風雨とたたかう。
【第4幕】 フランス国王に嫁いでいたコーディーリアが軍をひきいてリア救済のためブリテン国に来る。
【第5幕】 フランス軍は敗れ、コーディーリアは絞殺される。リアはそのショックのため視力を失い、やがて絶命する。

 このあらすじからも分かるように、リアは、権力者から迫害を受ける者へ、富める者から貧しく蔑まれる者へ、玉座にすわる強壮な非障害者から杖をつく老いた障害者へ、人物設定を移行させられています。そして、第2幕までで、そうしたリアの人物設定の移行はほぼ完了しました。娘たちに裏切られ、騎士をもぎとられたリアは、悲惨そのものです。
 しかし、状況の悲惨さだけでは悲劇は成立しません。登場人物の悲惨さを訴えるだけでは舞台は卑小なものとなってしまいます。舞台が、悲劇としての荘厳さを獲得するためには、J・アクセルラ等が「(悲劇の主人公は)『位高き』人物、不幸になる高位の人という観念だけでは、しかし十分ではない。(中略)真の悲劇が描き出すものは、本質的に闘う人物である」と言うように主人公の、その悲惨な状況に対する抵抗の姿勢が見られなければなりません。娘たちの裏切りと既得権の剥奪だけでは、リアを悲劇の主人公とするのにはまだ十全な条件とは言えません。
 悲劇の成立する条件、すなわち主人公の抵抗する姿勢がなければならないこと、この条件からいって、『リア王』を悲劇とするためにはリア自身が動かなければならないのです。だからシェイクスピアは、第3幕、わたしがこの小論の冒頭に掲げた〔荒野〕の場面を設定したのです。
 この〔荒野〕の場面で、リアは、与えられた状況に対して抵抗します。裏切った娘たちを呪い、天と地を糾弾します。いや、そればかりか、老いていく自分、権力を失っていく自分、障害者になっていく自分に対して激しく抵抗する言葉も吐かれます。怨言は自分自身に対しても向けられるのです。
 しかし、米倉は、そうした糾弾の場面においてさえ、つまり悲劇が悲劇としての要素をもっとも満たそうとする瞬間においてさえ、主人公を客体化し、或る距離をもって冷ややかに演じようとしていました。
 何故でしょうか。何故米倉は、悲劇であるのにもかかわらず、そうした演じ方をしたのでしょうか。
 それは、現代においては、降りかかってくる悪意な状況に対して主人公が抵抗する、そのことだけを悲愴に演じ示し見せるだけでは観客が悲劇を悲劇として受け取らない、むしろ滑稽なものとして茶化してしまう、そうした観客の、つまりは現代人の精神状況を米倉が熟知していたからでしょう。
 悲劇的な状況におかれていて、しかもその状況に対して激しく抵抗する、その自己(この場合はリア=米倉)を、自己自身が客体化して演じる、しかも客体化して演じている表情が或る瞬間観客にも分かる、そのことによってのみ現代の悲劇は成立するのです。

(つかだたかゆき 「しののめ」同人)

〈引用・参考文献〉

1 『リア王』小田島雄志訳、白水社、1983・10
2 『シェイクスピアとエリザベス朝演劇』J・アクセルラ他、白水社、1964・11
3 『リア王』斎藤勇訳、岩波文庫、1948・6
※「あらすじ」は、3の岩波文庫の解説を抜粋、簡略化したものです。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年10月号(第17巻 通巻195号)64頁・65頁