音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

特集/21世紀の施設像

「やどかりの里」を通して考える施設のあり方

谷中輝雄

はじめに

 障害者施設のあり方が見直される時代になった。ここでは精神障害者の社会復帰施設を通して「施設」の役割機能についてふれることにする。具体的な例として「やどかりの里」(埼玉県・大宮市)の社会復帰施設についてとりあげることにする。

地域に開かれた施設をめざして

 「やどかりの里」が社会復帰施設(援護寮・通所授産)を開設したのは平成2年であった。精神保健法施行の平成元年より社会復帰施設が認可されたが、土地の確保等のために1年遅れで発足したのである。
 「施設」を建設するためには資金調達だけでなく、そのあり方をめぐって会員(社団法人、法人会員約300名)の間で合意をとりつけることが大変であった。一部の会員から在宅支援体制(約70名の精神障害者を支援)をとってきたやどかりの里が、施設をもつことは時代に逆行するのではないか、という指摘があった。これらの意見は社会福祉施設に働く方々からの声であった。職員間でもかなりの議論がなされた。仲間づくり、仲間の支え合いを中心として、それぞれが地域の中で暮らし、必要によって支えていかれれば「施設」はなくとも生活支援は可能ではないかという意見であった。実際、地域の中にいこいの家(当時はそう呼んでいた、今日の生活支援センターとしての機能)があり、24時間の電話相談、緊急時の宿泊、仲間のたまり場、相談、グループ活動、必要によっては訪問等の支援を行ってきた。施設をもたなくてもやっていたわけである。利用していたメンバー70名にとっては、施設などなくてもやっているではないかという声もあがった。
 「施設」建設は、職員側からの要請で踏み切った。すなわち、施設運営にあたることで補助金を確保し、必要な職員の配置とやどかりの里の存続を願ってのものであった。ここでは理念ではなく、運営のことが優先されたのであった。とはいえ、さまざまな意見の中で「施設」を建設するのであるから、「施設」の役割を明確なものにしなければならなかったのである。
 そこで、「地域に開かれた施設」として構想し、建築のうえでも工夫がなされた。まず、援護寮(定員20名)は在宅者のためのショートステイ方式とし、試験外泊、休息宿泊、緊急宿泊の3つの形態で出発した。長期入院者の受け入れは試験外泊中にアパートを探し、退院後はアパートに住むこととし、必要によって援護寮を利用することとした(図1)。しかし、現実は約3か月から6か月は援護寮中心の生活となっていった。そこで、援護寮では一人生活を可能にするためのプログラムが必要になった。すなわち、食事づくり、買物指導、金銭管理、仲間づくりなどである。

図1 病院から施設へ そして地域へ

図1 病院から施設へ そして地域へ

 施設の構造も食堂を喫茶室と兼用とし、地域住民の方々にも利用できるようにと工夫した。しかし、実際は利用者で一杯で、地域住民にはサロンコンサートなどイベントで参加していただくぐらいとなった。施設の一部に作った売店も実際には活用されず、後に地域の中に作業所として分離していった。
 地域に開かれた施設とは、地域住民との自由な交流を目標にしたものであったが、結局、施設は施設であって、住民の方々はイベント等の声かけがあって、初めて施設内に入る形であった。
 施設といっても宿泊部門20名、通所授産20名といった小型なものである。しかし、施設のもつ問題性がみえてきた。職員約10名が常駐して活動にあたっていたためもあってか、利用者の職員への依存が高まってきた。さらに、職員も施設利用者の要請で手一杯で、在宅者のケアまで手がまわらなくなっていった。加えて、生活訓練のプログラムが中心になると、施設利用が長期化し、アパート生活への重要なステップとして、1つの路線ができあがってしまった。病院から退院して、地域生活を送るための養成所としての役割が生じてきたのであった。もともと社会復帰施設は、このような中間施設としての機能が求められているのである。そこで、生活訓練プログラムが必要とされるのであるが、やどかりの里ではこれら施設の役割をぬきにして在宅支援をしようと試みたのであった。しかし、施設をもつということは、収容施設という形態ではなくても、施設の役割期待に応えようとする運営側がもつ問題性もみえてきたのであった。

地域に拠点づくり

 在宅者支援の要として「施設」に期待し、地域住民との交流の場として位置づけたものの「施設」は「中間施設」としての役割を担っていった。現行の精神障害者社会復帰施設としてはこれでよいのであるが、通過していく期間(2~3年)が長くなると施設化のまずい面も強調されるのでこれを改善することにした。
 グループホーム、作業所を地域の中に計画的に配置し、生活支援センターをこれらの活動の中心に置いた。職員約2~3名を生活支援センターに配置し、それぞれ在宅支援、グループホームや作業所への支援にあたるようにした(図2)。やどかりの里の周辺部に4か所のブロックを設けた。ブロック別にしたために本部的な機能が必要になった。各ブロックを調整したり、地域にグループホームや作業所を開発していくこと、生活支援を必要とする人の相談窓口を本部が担うことにした。現在は本部と各ブロックのチームとが協力をして援助計画を立てているが、近いうちに各ブロックごとで責任圏域として担当することにしている。

図2 やどかりの里活動分布図

図2 やどかりの里活動分布図

 これで「施設」のあり方は変わった。日常生活支援は各ブロックごとで行われるようになった。各資源が選択肢としていくつも選べるようになり、各自は自分の居住区以外の活動の場も選択でき、生活が安定してきた。「施設」は休息の場としての利用が中心になってきた。時に緊急のかけこみの宿として利用される。まさに、在宅支援体制の後方基地としての機能として存在感をもってきた。
 長期入院者の受け入れに際しても、試験外泊中に住む場所を確保し、退院後すぐにアパート生活を開始することになった。疲れた時や危ない時には援護寮に泊まることで、なんとか切りぬけている。大きな違いは職員と利用者との間で作成された「援助プラン」によって「施設」を必要に応じた利用をしていることであろう。人によっては、生活訓練プログラムの利用を希望する人もあるであろうが、今のところその必要はないようだ。例えば食事は配食サービス、買物は仲間の支援といったように、各生活支援センターの生活支援でほとんどのことがまかなわれるようになった。
 従来の指導、訓練の機能が生活支援に変わり、「施設」が担っていた役割は小さくなり、それに代わって地域に暮らす人たちへの福祉サービスのメニューが多様化していったのである。そこで「施設」は在宅者にとっての安心の場として、休息や緊急時の一時利用としての役割を担うことになった。

今後のこととして

 いま、ふりかえってみると、当初「施設」を在宅支援のための要として考えたのであったが、「施設」としての機能と在宅者支援の機能とは別々であって、時にかみあわないこともあった。生活支援センターを窓口にすることによって、それぞれの使い分けが可能になったといえよう。
 援助プランに基づいて、各資源の利用というように、「施設」も一資源として利用される。選択されることを通して、利用者にとって役に立つ存在へと変わってくるものであろう(図3)。

図3 地域生活継続のための緊急一時避難所として

図3 地域生活継続のための緊急一時避難所として

 精神障害者にとって社会復帰施設は、まだ精神病院から地域社会への中間的な役割を期待されているのではあるが、今後は在宅者を支えるための場として逆転することも期待される。そのためには、地域の中に生活支援体制づくりがなされて、「施設」としての役割が変わるのであろう。その日はまだ遠いようだが、これからは地域生活支援を軸にして「施設」のあり方を検討する時代になったといえよう。

(やなかてるお 「やどかりの里」理事長)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年2月号(第18巻 通巻199号)19頁~22頁