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特集/21世紀の施設像

当事者参加をより明確に

太田修平

ホワイトサタン

 もう25年も前のことか、私が中学生の頃、『お菓子放浪記』というテレビドラマをやっていました。主人公が少年院で“ホワイトサタン”と呼ばれる指導員からさんざんいじめられ、リンチを受けるのです。私はそれを見て、おそらく障害者の施設にも、“ホワイトサタン”がいっぱいいて、障害者はいじめられているに違いないと思ったものでした。
 最近、知的障害者の施設や精神病院内における、職員による利用者への暴行事件が次々と明るみになっています。やはり、施設には“ホワイトサタン”が存在していることを実感させられる今日この頃です。

閉鎖された社会

 今回の特集のテーマは、「施設体系の見直し」ですが、私は「重い障害をもつ者にとって施設(生活の場としての施設という意味において)という存在が、本当に必要なのだろうか」という自問自答を繰り返しながら、施設のあり方について考えるようにしています。私自身、12年間、身体障害者療護施設で生活をしました。そこは東京の施設であったので、他の大多数の施設に比べて、職員は圧倒的に多く配置され、また、個室化が進められるなど、療護施設のなかでは障害者にとって住みやすい環境の施設でした。介助者には困らないなど、施設にはメリットもありますが、障害をもつ者が、50人、あるいは100人という単位の集団で生活する不都合もかなり多くありました。
 “地域にひらかれた社会”ということを多くの人々がスローガンのように言います。それはとても大事なことですが、施設という集団が一度出来上がってしまうと、なかなか外にひらいていくことは容易なことではありません。どうしても集団の閉鎖性が強く働いてしまい、その施設・集団としての独自の価値観あるいは常識のようなものが作り上げられていくのです。地域の人々の側からすれば、施設というある意味では特別な集団とかかわりをもつことは、心理的抵抗感が強く作用し、なかなか困難といえます。
 この施設の閉鎖性によって、“ホワイトサタン”が数多くつくられ、その横暴を許してしまう結果となってしまうのです。施設体系の見直し、あるいは施設改革をしていくうえで最も重要な視点は、利用者の人権が守られるようなシステムであり、“ホワイトサタン”の存在を許さないものでありましょう。

他の施策との関連の中で

 さらに、障害の重い者の生活の場である身体障害者療護施設にしぼって考えていきたいと思います。
 15年前、いくつかの療護施設を訪問しました。その時、東京ならば入所しているはずもない、ADLの面ではほぼ自立している障害の状況の人を何人か見受けました。たとえADLが自立をしていても、アパートを貸してくれるところがなく、しかたなく施設で生活しているというのです。もし住宅施策がきちんとしていれば、このようなことは起こらないわけです。これと同じような発想にたち、住宅や介助など、地域の中で障害の重い者たちが生活できるような施策が進んでいくならば、現在身体障害者療護施設で暮らしている大部分の人々は、施設ではなく、地域社会の中で暮らすことが可能となってくると思います。住宅や介助という施策の中には、もちろんグループホームも含まれるでしょう。
 障害者プランでも指摘され、また多くの関係者からもよくいわれることの中に、“施設の絶対数の不足”や“施設待機者”の解消ということがあります。しかし、そのことを言う前に、地域社会で生活できる環境や条件の整備が先行して行われなければなりません。今の時代、生命維持と最低限の生活の保障のみが社会福祉の役割とはだれも思っていません。施設で生活している人たちの話を聞くと、「自分の家では生活できなくなったので、しょうがなく施設に入った」と答える人たちがほとんどです。施設を最終的手段として位置づけていき、施設の改革を他の施策の充実と関連づけて考えていくことが必要です。

運営参加の保障を

 措置体系を見直し、施設を契約型に替えることによって、そこで暮らす人たちの権利がより守られていくという考え方もあります。しかし、ここで私たちが注意しなければならないことは、措置体系の見直しをいう人の多くの狙いは、財政的な問題にあることです。措置という行政処分が利用者の権利を侵すことにつながっているとしたら、その措置の内容の検討、つまり、いかにしたら利用者の権利侵害にならないか、を考えていくことが必要です。
 施設の大きな問題点として、そこで生活している障害者にとって、自分の生活でありながら、施設や施設の職員など、他人が決めた生活を強いられる、ということをあげることができます。だから措置がなくなれば解決されると考えるのはとても短絡的です。そのことを考える前に、利用者の施設運営参加への保障をまず考えるべきです。まだまだほとんどの施設では、施設管理者や施設職員のみで、運営方針や毎日のプログラムが決められています。自らの施設であっても、措置費がどのように使われているかを知らされることはほとんどありません。さらに施設を運営する法人に利用者代表が理事や評議員として入っているという話も全くといっていいほど耳にしません。法人や施設の職員は、障害をもっている人に何かを「してあげる」存在であり、障害をもつ人たちは「してもらう」存在であるという、古い福祉観をこわしていかなければなりません。障害者自身を含めて、人々の意識や価値観が変わらなければ、いきなり措置体系を見直しても、本質的な問題を温存させてしまうだけです。
 生活施設で暮らす人たちに対して、自分たちの施設の運営に参加する権利、さらに利用者の代表として、法人に参加する権利を法律の中に位置付けさせる取り組みは重要な課題です。

改革を求める姿勢

 施設改革を当事者の視点で考えようとするとき、多くの社会福祉法人がもつ保守性が、大きな障壁となっているように思えます。社会福祉法人は設立時においては、社会福祉あるいは障害者問題に対して大きな志をもっていたとしても、何年かたつうちに経営それ自体が目的化してしまいます。そして最新の福祉の動きや理念とは程遠いところに自らの身を置いてしまいます。例えばノーマライゼーションの理念とか、障害者プランの拠ってたつ考え方にはあまり関心を示しません。もちろん自らの経営という視点において役立つところがあれば、都合よく取り入れる場合もあります。
 私は施設というものを箱としてとらえるのではなく、機能としてとらえていきたいと考えています。つまりひとつの施設が、いろいろなアパートの部屋やグループホームに分散されていてもいいのではないかということです。大きなひとつの建物にこだわるべきではないと思っています。
 問題はこのような、私の当事者からすれば当たり前のような考え方を施設を運営する法人にぶつけたとき、どの程度理解を示してくれるかということです。多くの法人は自らの建物や経営を守っていくのでやっきとなっています。
 社会福祉にとって重要なことは、固定した考え方に留まることなく、たえず改革を求め前に突き進んでいく姿勢です。この状況をつくっていくには、施設で暮らす障害者自らが、自らの要求を明らかにし、行動していくことがなによりです。与えられることに満足することなく、自らが創造していくことではないでしょうか。

(おおたしゅうへい 障害者の生活保障を要求する連絡会議事務局長)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年2月号(第18巻 通巻199号)26頁~28頁