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文学にみる障害者像

ジェフリー・ディーヴァー著 飛田野裕子訳 『静寂の叫び』

佐野正信

 3人の脱獄犯が、スクールバスに乗った聾学校の女生徒と女教師を人質にして廃屋となった食肉処理場にたてこもる。生徒8人だけでなく、教師2人のうちのひとりも聴覚障害者である。ほどなく、FBIの危機管理チームの指揮官アーサー・ポターが現場に到着。3人組の首領ルー・ハンディとの息詰まる人質解放交渉がはじまる。本書はこの人質解放交渉の知恵比べを主軸としたサスペンスである。細部の描写のリアルさは半端ではなく、二転三転のどんでん返しも用意されていて、最後まで読者を飽きさせない。人質解放交渉のドラマとしては、読みごたえ十分の娯楽作に仕上がっている。
 人質の描写は、解放交渉の描写とくらべると副次的な印象を受ける。しかし、人質一人ひとりの描写には相当の紙数が費やされており、けっしておざなりではない。興味深いのは中途失聴者メラニーの心の揺れの問題だが、これについて述べるまえに、著者が人質たちをどのように描写しているかを見ておくことにしよう。
 籠城事件という異常な情況ながら、著者は聴覚障害者を日常的な「当たり前の存在」として描写する。同時にまた、折りに触れて聴覚障害にまつわる誤解や偏見を正していく。聴覚障害者は暗い場所では話しにくいこと(人質たちは手話で話す)。聴覚障害者でも声が出せること。補聴器はさほど意思の疎通に役立たないこと…。とくに読話(読唇術)については、意思伝達手段としての不完全さが繰り返し指摘される。

 メラニーは2人の[犯人の]会話はひと言も読みとることができなかった。感情的になればなるほど、人は早口で乱暴なしゃべり方になるので、そういうときには唇を読みとるのは不可能だ。どうしても相手の言っていることを理解しなければならないときにかぎって、唇の動きがはっきりととらえられないのだ。

 これは、聴覚障害者が都合よく周囲の人間の唇を読み取ってしまう類書によくある描写とは好対照をなしている。
 本書の大きな特徴は、著者が現在アメリカを席巻しているデフ・ナショナリズム(聾者の民族主義)の影響を受けていることである。これは耳の聞こえない人間を「耳の聞こえない人間一般」を意味するdeaf(聴覚障害者)と「固有の言語(=手話)、固有の文化、固有の共同体を共有する聴覚障害者」を意味するDeaf(聾者)に分け、Deafを言語的少数民族と捉える見方である(著者自身が登場人物の口を借りてdeafとDeafの区別をあきらかにしているのだが、翻訳では訳語を統一せず、いずれにも「聴覚障害者」や「聾者」をあてているため、両者の対比が不鮮明になっている)。
 デフ・ナショナリズムは、聾者としての誇りを育んだり、聾者の歴史を再評価したりする側面をもつ一方、聾者と中途失聴者・難聴者を分離したり、聾者の手話だけが本物の手話であるとしたり、統合教育より分離教育のほうが望ましいとしたりする側面もあわせもつ。ある登場人物は次のようにいう([ ]内は引用者による翻訳の修正)。

 聴覚障害者[聾者]の世界では、同じ障害をもつ両親から生まれ、言語能力[発語能力]を一切もたない人が1番高いステイタスを得るの。健常者[健聴者]の両親から、正常な聴覚をもって生まれ、しゃべることや唇を読むことができると、同じステイタスは与えられないわ。そして障害者[聴覚障害者]でありながら、正常な聴覚をもつ人たちに受け入れられようとする人[健聴者を装う人]は、さらにステイタスがさがる―ジョスリンがそれだった

 これは見ようによってはかなり過激な見方で、なかにはとまどいを覚える読者もいるかもしれない(現在、日本の聴覚障害者の世界では、デフ・ナショナリズムは毀誉褒貶相半ばするもっともホットなテーマである)。しかし、たとえばアメリカにおける黒人のブラック・ナショナリズムなどを思い浮かべれば、一見過激と思える発言にもそれなりの根拠のあることがわかってくるだろう。それは、お仕着せではない聾者自身の声なのである。本書の著者も、ひとまずデフ・ナショナリズムを尊重する立場をとっている(注1)。
 ところが奇妙なことに、著者は2人の対照的な人質―先天性の聾者として積極的にリーダーシップをとる女生徒スーザンと聾者になろうとしてなれない中途失聴者の若い内気な女教師メラニー―のなかから、メラニーを主人公として選んでいる。聴覚障害者を肯定的に描くなら、スーザンのような前向きに生きている人物のほうが主人公としてふさわしいはずである。著者があえてスーザンではなくメラニーを主人公としたこと―そのあたりに著者の個人的嗜好が顔をのぞかせている気がして私にはおもしろかった。
 メラニーは「聾者のなかの聾者」スーザンにあこがれ、自分もスーザンのようになるべきだと思いながら、最後までスーザンにはなれない。犯人に筆談で話しかけたり脱出を試みたりするなど、途中から彼女なりに行動を起こし、土壇場では意想外の惨劇さえ引き起こすにいたるのだが、だからといって、メラニーが聾者になったわけではない。
 率直にいって、メラニーの心理描写はさほど成功しているとは思えない。メラニーの頭のなかでは、父親からの過剰な期待や兄の交通事故などの複数の問題が渦巻いており、全体の焦点がぼやけてしまっているのだ。そのため、著者が、メラニーも最終的にはスーザンのようになるべきだといっているのか、メラニーはメラニーでべつの道を行くべきだといっているのか、いまひとつ判然としない。判然としないまま、読者は最終場面のポターのように、メラニーが戻るのを待って、荒涼とした深夜の麦畑に一人たたずむばかりである。しかしいずれにせよ、私としては、著者が聾者の陰に隠れがちな中途失聴者のアイデンティティの問題にあえて光をあててくれたことをそれなりに評価しておきたいと思う。
 本書はあくまでも一般向けの娯楽書であって障害者問題の啓蒙書ではない。著者に過度の期待をかけるのはまちがいだろう。文献資料にたよりすぎたためか、独創性や新味や深みに欠けるうらみがあるが、一般向けの軽い読み物として見れば、まずまずの聴覚障害者像が提示されている。人質解放交渉を中心とした全体の構成はよくまとまっているから、本書を映画化して役者にうまく演じさせれば、ほぼそのままのプロットで1級の娯楽作品となる可能性もある(注2)。かりに文献だけにたよって本書を書いたとしても、それで著者を責めるにはあたらない。むしろ、ここで思いをいたすべきは、読むだけでここまで踏み込んだ描写を可能にする、アメリカのその種の参考文献の蓄積のすごさだろう。

(さのまさのぶ 翻訳家)

〈注〉
1 この方面の参考書として次の2冊をあげておく。『手話の世界へ』オリバー・サックス著、晶文社『現代思想 総特集=ろう文化』1996年4月号
2 本書は1997年に『デッドサイレンス』という題で聾者のアカデミー賞女優マーリー・マトリン主演でテレビ映画化された。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年2月号(第18巻 通巻199号)60頁~62頁