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1000字提言

ちょっとそこまで…

上林洋子

 例年になく暖かい穏やかな年の暮れのこと。こんな日の昼食はパンにしよう。盲導犬のシェルと散歩を兼ねて近くのパン屋さんまで出かけた。焼きたてのパンを買って、玄関に入ると電話のベルが鳴っている。
 「いる? 元気?」受話器から飾り気のない声がする。「元気よ。なにしてるの?」と私も答える。彼女との電話はいつもこんなふうにして始まる。近況を話し合っているうちに、その口調がはずんでいるのに気付いた。「いいことあるんでしょう…?」とこちらから切り出す。それを待っていたかのように、近々、北海道への家族旅行のことを話し始めた。
 もう15年近くにもなるだろうか。眼科に入院したときのことである。数回の手術の術もなく、ほとんど視力がなくなってしまった彼女と同室だった。私にとっても、両眼摘出という辛いときで、突然の失明に苦しんでいた彼女に電話番号を言って退院したのだった。
 それから、数か月後の日曜日、天気のいい日中、「もしもし…」暗い声の電話にはっとした。「天気が良くてもどこへも行けない。いっそ、雨降りならいいのに」と。「見えなくなって何の楽しみもない。ただ生きて食べているだけ」。私の電話番号を覚えていて、何度もダイヤルを間違えて、やっと通じたのだという。両眼を失ったショックからまだ立ち直っていない私の耳に、失明した彼女の苦悩が容赦なく入ってくる。彼女は言うだけ言うと口を閉じた。言いようのない沈黙で受話器が重い。そう、私だって失明当時の苦しみがあった。そして今も苦しい。沈黙を破るように今度は私が彼女と同じようなことを思い出しながら話した。最後に「天気のいい日は余計に辛いよね」という言葉が彼女と同時に出た。それが妙に親しみを感じ、互いに笑い合ってしまった。
 その後、彼女から天気の良い日によく電話がある。見えなくなった愚痴の会話から始まるが、気が付くと身の回りのことや、夕食のおかずのことなどに話がはずんでいる。
 そんな彼女が見えなくなって初めての家族旅行とのこと。「白い杖を持って行って来るね」と明るく笑っていた。
 シェルと出会って3度目のお正月を迎えた。それまでは彼女と同じように視力のあったころを懐古していることが多かった。シェル号と一緒に気軽に買いものや散歩に出かけられる楽しさは、私にとって最高の喜びなのである。

(かんばやしようこ 新潟市視覚障害者福祉協会女性部長)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年3月号(第18巻 通巻200号)24頁