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文学にみる障害者像 39

井伏鱒二著
『黒い雨』

松本昌介

終戦~『黒い雨』発表

 1945年8月6日、広島に原爆が投下されました。そして8月9日には長崎に落とされ、15日には日本は無条件降伏をすることになります。
 この時私は山梨県の母の実家に縁故疎開をしていて、天皇の玉音放送は母屋の廊下で、近所の人も集まって聞いていました。私はほとんど関心もなく、借りている部屋で遊んでいました。放送の後、伯父が敗戦を教えてくれました。
 この頃の少年はみんなそうでしたが、私も例外ではなく、模範的な小国民でした。日本の勝利を信じ、神風を期待していました。日本が負けるということは全く考えたこともありませんでした。しかし、人間は現実を受け入れるのはそんなに抵抗がないようで、そのことで私自身悲しんだ記憶はあまりありません。
 原爆の投下についても大きな報道がされなかったせいもありますが、少年たちの間では話題にはならなかったと思います。自分の問題として本格的に考えたのは高校生になってからです。占領軍に遠慮してか、原爆や空襲のことは大きな問題にはしにくかったように思います。
 井伏鱒二の『黒い雨』は1966年の作品です。原爆投下、終戦から20年も経ってからのものです。したがって原爆や戦争についての評価も、もちろんそれは一人ひとり異なるのでしょうが、ある程度できていた時期です。峠三吉の『人間をかえせ』、丸木位里、赤松俊子の『原爆の図』なども発表され、原爆の悲惨さも大勢の国民の知るところとなっていました。
 そういう時に発表された『黒い雨』は、それまでの原爆を扱った文学や体験記とは異なった視点のものであるとして高く評価されました。

作品の概要

 終戦から数年後、広島で被爆した閑間重松は、姪の矢須子の縁談に責任を感じていました。徴用を逃れるためにもということで、矢須子を手元に預かって、実の娘のように暮らしていたのですが、被爆が原因で縁談が壊れそうになり、重松は悩みます。
 重松は8月6日、広島で被爆し、この時すでに原爆症の症状が現れていたのですが、矢須子は当日は広島市から離れたところにいて被爆していない、決して原爆症ではないのだ、その疑いを晴らさなければならないと重松は考えます。
 そこで8月6日前後の矢須子の日記、自分の日記を仲人に見せて、矢須子は原爆とは無関係だと証明しようとします。重松は自分の被爆日記をていねいに清書します。日記にはその時の自分の生活、足取り、爆撃時の状況が克明に記録してあります。途中で会った人の話や病状を子細に記録し続けます。
 遠くにいて直接被爆しなかった矢須子は、重松らを探して被爆後の広島を歩き回り、途中で「黒い雨」に打たれたことも記録されています。「無実」を証明しようとして被爆の日前後の行動を克明に書くのですが、それが逆に、間接的被爆者であるということを証明してしまうことになります。矢須子はその時の行動がもとで、縁談の起こる頃には、病気は進行していました。
 この作品は、閑間重松というごく普通の人の目を通して、8月6日前後の広島と、そこに生き無惨に死んだ人々を淡々と描いたものです。
 重松は8月6日の朝、出勤途中の横川駅で被爆しました。それからなんとか会社にたどりつきます。会社の同僚は何人も死にました。死体の処理も自分たちでするしかない。火葬場も満員、死亡診断書などの手続きもできない、どこかで焼くしかないだろうということになり、工場長が重松に言います。「閑間君、ただ焼くだけではいかんよ。死者は丁重に葬らなければならない。君は坊さんの代わりになってお経を読みたまえ」。これから死者が多くなる、そのたびにお経を読まなければならない、重松は近くのお寺に行って僧に教えてもらってお経をノートに書きます。「白骨の御文章」等を覚えて、死者を葬るたびに読むことになります。
 重松にしても、淡々と事実を日記に書いていて、一見何でもないようにみえるが、戦後何年も経っているのに原爆症で苦しんでいました。髪が抜けたり、体力が弱ったりしています。知り合いの安否を尋ねて歩いたり、会社の用事で出かけたりする途中で苦しむ人々を見かけ、その様子も描いているのですが、描写がなんとも客観的です。広島に原爆が投下されたときは、戦争はまだ継続中でしたから、反戦的な言動は止められ、そういうことを考えもしなかったでしょう。運命に忠実に従っているように私には見えます。軍や、憲兵、軍医などの描き方も、庶民の戦争や軍に対する考え方も、今から見れば信じられないような淡々とした書き方です。

重松の怒り

 この作品が発表されたのはもちろん終戦後で、戦争や原爆に対する見方が戦争中とは異なっていたわけですが、当時の見方、考え方をおおげさではなく、冷静に描いているのです。読んでいて、どうしてここで怒りを感じないのだろうか、疑問をもたないのだろうかと感じることがあります。
 国民には事実は何も知らされず、何の爆弾なのか、どのくらいの犠牲者がでたのか、どうすれば治るのか、何も分からずうろうろ歩き回ったり、いろいろな治療を試みたりする。戦争はあと数日で終わる、軍も形を失っている。それでも登場人物は、このすべてが機能しなくなっている状態の中で、普通に会社の業務を行おうとしている。その姿が、ある意味では滑稽なほど真剣に描かれています。
 しかしまた、私や私の周りの人のほとんどがそうであったように、日本の勝利を信じ、敗戦などということは考えもしなかったのだとしたら、後の世から見てこの時代の人たちの言動は滑稽といってもいいのかもしれません。
 その当時の忠実な日本人、平均的な市民の目から見た原爆犠牲者たちの姿を冷静に客観的に描いているということで、この作品は優れているのです。当事者であれば、怒りや嘆きや悲しみが当然先行する、そして読者もそれを期待する、作者の訴えたい気持ちにも共感する、そういう文学作品の中で、この作品はやや異質です。
 では重松は、この現実を素直に受け入れているのでしょうか。重松は受け入れざるを得ないのだが怒りはある、その怒りをどこにもっていっていいのか分からない、だからなるべく日常的な行動を続ける努力をすることによって、私は怒っているのだぞと言っているのです。平凡な庶民が原爆によってすべてを失っても、日常生活を続けようとする、その激しさを私は感じるのです。

(まつもとしょうすけ 全国肢体障害者団体連絡協議会)