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ほんの森

石川准、長瀬修編著
障害学への招待

―社会、文化、ディスアビリティ―

〈評者〉川内美彦

 (当初の予測に反し)よく売れていてもう増刷が決定したという。
 障害学とは長瀬によると、「障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動で(中略)障害独自の視点の確立を思考し、文化としての障害、障害者として生きる価値に着目する」「障害の経験の肯定的側面に目を向けることである。障害者が持つ独自の価値文化を探る視点を確立することである」。この説明によれば、木村・市田の「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」という「ろう文化宣言」は、まさに障害学が目指すものの具体的表明だと言えるだろう。
 著者の多くは過去に障害をもつ人がどのように扱われてきたかについて述べていて、たとえば花田は古くから障害をもつ人を排除しない文化があったと指摘している。それらは障害をもつ当事者ではない「外」の社会がつくってきた障害者観についての言及である。 
 疑問がわく。「ろう文化宣言」はろう者の「内」に固有の文化があることを宣言し、このような「外」からの勝手な評価や分類を拒否したものではないのか。一体「外」と対比しうる、ろう文化と比肩しうる固有の文化がろう者以外の障害をもつ当事者の「内」にあるのだろうか。それがあるのかないのか、本書を読む限りでは明らかでない。
 「従来の歴史が非障害者の視点から見た歴史であったことをあらわにする取り組み」と長瀬が言うように、過去や「外」からの価値観の分析は必要な作業であろう。「外」を明らかにしていくことで「内」が鮮明になることも確かだ。しかし障害をもつ当事者によるこれまでの活動の多くは、ある種の思想に基づいて社会に働きかける運動を意識したものであり、「ろう文化宣言」のような、そのコミュニティがもつ特性を再定義したものと同一視はできないと私は思う。その点で私は「内」の存在が明らかでないことに落ち着かないものを感じる。それに対する答えも含めて障害学への期待は大きい。
 ともかく、本書によって石は投げ込まれたのだ。「外」の価値観に振り回され続けてきた者たちが自らが拠って立つ場所を得ようという動きが始まったのだ。これはこれまでの価値観の大きな変換を意味する。そしてその変換の可能性こそ、「障害学」が単なる分析的な学問にとどまらないであろうという大きな期待を抱かせるものなのである。

(かわうちよしひこ アクセスプロジェクト)