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講座・高次脳機能障害

最終回
動き出した当事者活動
「脳外傷友の会・ナナ」

東川悦子

息子の交通事故

 1993年10月、当時25歳だった私どもの息子が交通事故に遇いました。
 意識不明50日という状態から回復、約半年間神奈川県総合リハビリテーションセンターの病院にて、PT・OT・言語・心理・体育等の訓練を受けました。
 右側頭部脳挫傷、脳幹部出血という急性期の重篤状況からは考えられない程の目ざましい回復ぶりを見せてはくれたものの、体幹機能障害、右片マヒ、構音障害等の後遺症が残り、受傷以前の職業であったテニスコーチに復帰することはできるはずもなく、失職しました。記銘力も落ち、情動も不安定でした。
 転職のため、職安通いを始めたものの、何の技能もなく、世間は不況の最中、障害者となった者に世間の風は甘くはありませんでした。一時は自暴自棄になり、昼夜逆転の生活を続けていたこともあります。

リハセンターの先生の応援を受けて

 退院後の経過報告がてら定期的に神奈川リハセンターに通っていましたので、主治医の大橋正洋先生やソーシャルワーカーの生方先生に、「他の障害者の団体はたくさんあるのに、どうして今までに頭部外傷者の患者会のようなものがないのですか?」とお聞きしました。
 「我々も必要性は感じているのですが、だれか旗を振らないと…。東川さん、やってくださいよ」とおっしゃられましたが、1人で旗を振るわけにもいかないまま、日々を過ごしていました。
 この間に、1994年頃、神奈川リハセンター内にある七沢更生ホームを利用した家族の方々が「ボンバーズ」という会をつくって、交流会活動を開始されていたようです。
 その中のお一人の大塚由美子氏が神奈川県児童医療財団発行の機関誌「かざぐるま」に、「高次脳機能障害となった子どもたちは今-親の会設立をめざして-」という標題の名文を書いておられるのを教えていただき、96年9月、大塚氏との初顔合わせが行われました。その夜、大橋先生はじめ、多くの先生方が集まって応援してくださることが分かり、後へは引けない、何とかしなくてはとの思いで、大塚氏共々、発起人を引き受けました。
 何度も会合がもたれ、脳外傷のみの会とするのか、高次脳機能障害者の会として、脳血管障害等の病気で障害を負った人も範疇とするのか議論がなされましたが、交通事故や労災という社会現況とより密接な関係として捉えられる脳外傷の会にすべきである、と私は主張しました。
 97年春、過去5年間に神奈川リハセンターを利用した243人にアンケートを実施しました。回答があった123人のうち、93%の方々が家族会の設立を望んでいることが分かりました。
 この年の4月、名古屋で一足早く、「脳外傷友の会・みずほ」が結成されました。

「脳外傷友の会・ナナ」の設立

 私どもも6月、設立準備交流会を開き、脳外傷者本人、家族など計120人にのぼる方々が参加しました。経過報告、講演に耳を傾け、グループ交流で悩みを語り合いました。準備委員を募ると23人もの方々が自発的に挙手して、やる気を示されました。
 私どもは早速、名古屋リハセンターに赴き、みずほの会の役員で顧問の阿部順子先生から会設立のためのノウハウを伺い、将来全国的なネットワーク結成が必須だから、同一名称を使い、互いに情報交換し、協力し合うことを約束しました。
 そして、神奈川リハセンターが厚木市七沢にあることから「脳外傷友の会・ナナ」通称「ナナの会」と名のることにしました。
 10月18日。神奈川リハセンターの体育館で設立総会が開かれ、私が会長、大塚由美子氏と板野遵三郎氏のお2人が副会長に選任されました。
 交流会では、当会への期待が次々と語られ「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」を掲げて活動する意義と必要性がいっそう強く感じられました。
 この日の模様は、地元神奈川新聞の他、介護保険がらみの記事とともに朝日新聞にも載りました。

脳外傷交流シンポジウムの開催

 1998年2月、当会が主体となり、横浜ラポールにおいて、全国で初めての脳外傷交流シンポジウムが開催されました。400人にのぼった参加者の多くは、各地の患者、家族の他、病院、福祉関係者、保険会社等々多彩な面々でした。
 午前は、当会と脳外傷友の会・みずほ、それに2年前に結成された大阪の若者と家族の会の三つの会の代表が報告を行い、午後は、医療、法律、福祉制度、就労、福祉施設の専門家からの問題提起、それに対する会場からの質疑応答と、充実した内容が論じられました。特に現行手帳制度の不備、社会の無理解、介護保険制度からの脱落、若年痴呆と呼ばれることの非人間性などが語られました。
 そして、何よりも全国に脳外傷者が何人ぐらいいるのかも定かでないという現況を明らかにしなくてはと、三つの会が合同審議した共同アピールが発表され、会場から大きな支持を得ました。この日、多くのマスコミが取材につめかけ、中でも読売新聞はその後「医療ルネサンス」という特集記事で、脳外傷を長期間熱心に取材してくれました。

動き出したナナの会

 5月、私どもは、共同アピールの趣旨を直接伝えるため厚生省に出向きました。
 何回も電話やFAXで面会を申し込んだ結果、ようやく精神保健課の課長補佐中村健二氏に会うことができました。議員の紹介もなく、一介のオバサンに中央の役人がどんな対応をするのかと思いましたが、読売新聞の記者の同行もあり、真摯に話を聞いてくれました。
 その後まもなく、厚生省科学研究班「若年痴呆研究担当」の群馬大学宮永和夫教授を中心とした方々のヒアリングにも再度招かれ、大橋先生や生方先生にも参加していただき、家族のこと、患者会の現況、要求をお話しすることができました。
 この時期、NHKの取材を受けて、「首都圏特集」という番組で「高次脳機能障害」が放映されました。各地から入会の申し込みや問い合わせがあり、東京では都立墨東病院を中心に「高次脳機能障害家族の会」ができました。また、今年2月には札幌に、「脳外傷友の会・コロボックル」が結成されました。すでに、遷延性意識障害者の家族会として山梨の「木の芽の会」、茨城の「希望の会」が結成されていましたが、東京にも「わかばの会」が発足しました。

全国ネットワークの結成に向けて

 東京都は今年度、実態調査に乗り出すことになりました。またこの6月には、公明党厚生部会でのヒアリングがあり、各地の会から要望書が提出されました。当会では、共同アピールの他に、無年金障害者の救済、障害の種別にとらわれない、必要な人に必要なサービスを受けられる総合的手帳制度への改善、専門機関の整備、専門家養成、就労援助システム、障害者雇用の拡大等々の要望書を提出しました。
 地元平塚市議会でも、障害認定を受けられない脳外傷者のデイケア施設利用枠の拡大等について取り上げられました。
 さらにこのたび、私は各地の会の代表と共に、専門家を交えた20人でアメリカ脳外傷事情視察旅行に参加してきました。各地の研究所、大学の研究体制を見学し、脳外傷法という特別な法律で裏付けされたアメリカの進んだ家族会活動、援助付き雇用の実情を見学してきました。それを活かし、今後さらに充実した活動を展開し、互いに情報を交換しつつ、全国ネットワークが結成されるよう期待しています。
 なお、来年2月には、名古屋で第2回の脳外傷シンポジウムが開かれる予定です。

(ひがしかわえつこ 脳外傷友の会・ナナ会長)