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ケアについての一考察 新連載

障害をもつ人のためのケアを考える
~“Rethinking Care”セミナーに参加して~

奥平真砂子

 去る5月12日(水)、タイの首都バンコクにおいて、第17回RICAP会議(ESCAP〈国連アジア太平洋経済社会委員会〉の地域委員会)の特別セミナーが開催された。これは、WHOの委員会のひとつである“障害とリハビリテーション・チーム”の委員長であるポポリン(Pupulin)博士の要請により開かれたものである。会議では、“Rethinking Care”、いわゆる“ケア”という概念を再考するために、世界のいろいろなところで論議を起こし、意見を取り入れていきたいという目的があった。
 セミナーの参加者数は約40人で、ILO(国際労働機関)やUNESCO(国際教育科学文化機関)、UNICEF(国連児童基金)、DPI(障害者インターナショナル)、RI(リハビリテーション・インターナショナル)などESCAPに加盟する各機関の代表に加え、マレーシアから今年の11月に開催されるRNNキャンペーン会議の実行委員長などが出席していた。
 ポポリン博士は、「WHOはヨーロッパのNGOとは密接な協力関係にあるが、残念ながらアジアとはまだそのような関係づくりができていない。しかし、アジアは世界の人口の半分以上を占めており、多くの障害者がいる重要な地域であり、提供できるものが多くあると思うので、これを機会にアジアのNGOと協力関係を築いていきたい。ESCAPがこの機会をつくってくれて、大変感謝している」と述べた。そして、今回この“ケア再考”を提起したのは、「“Consumer-controlled(利用者主体)”が叫ばれている今の時代の流れを考え、医者や研究者も、障害当事者やNGOなどと密接にかかわっていくべきである。そのためには、リハ関係や医学部のカリキュラムの内容を再検討していく必要があると考えたからだ」と言う。しかし、このプロジェクトを実のあるものにするためには、障害当事者の団体と連携を取って話し合いをしていくべきであるが、接点が十分でないので、このセミナーに参加しているNGOを通して、ケアに対する意見をいろいろ聞きたいということであった。

障害者自身からみた“ケア”のあり方について

 ここからは、私自身、障害をもつ身であるので、障害者の立場から“ケアのあり方”について私見を述べてみたい。
 「ケアについて考え直す」というポポリン氏の話を聞いて、最初に私が抱いた感想は、「機会均等や自立生活を促すことは、障害者のリーダーたちの間では20年以上も前から叫ばれていたことなのに、今ごろ何を言っているのだろう」ということであった。
 “ケア”という言葉の意味を調べてみると、私の持っている英和中辞典では、“心配”“苦労”“気がかり”から始まり、“注意”“配慮”ときて、“看護”“保護”“監督”という意味が書かれている。この“看護”“保護”“監督”の意味は、どうも医療的意味や「上から与えられるもの」という感じを受ける。
 しかし、ポポリン氏自身も講演の中で繰り返し言っていたことであるが、障害者の多くは“医療的ケア”を必要としていない。まして、成人の障害者は、保護も監督も必要ない。現に、私も障害をもつ身であるが、日常的には“看護”してもらう必要はないし、“保護”や“監督”をされたら反発しか感じないだろう。とにかく、障害をもっていることと病気にかかっていることは異なるということである。病気の人にはケアが必要かもしれないが、障害者はケアでなく、単にサポートを必要としているだけである。
 これまで使われてきた“ケア”という言葉は、医者や看護婦、施設職員など専門家といわれる立場の人からのものであったと思う。特に、医療的ケアとリハビリ的ケアに多くの焦点が当てられ、「治療する」「直す」「回復させる」「面倒をみる」という意味で使われることがほとんどである。そしてそれは、保護的で一点集中型、隔離型であることが多かった。要するに、ケアを受ける側や利用する側からではなく、与える側、提供する側からのみ考えられていた。ここで重要なことは、ほとんどの障害者はそのような保護的ケアでなく、地域で自分の生活をつくり上げるために必要な支援サービスとしてのケアを求めているということである。
 ここで、24時間介助を受けながら地域で暮らしている人を例にとり、障害者が必要としている“ケア”のあり方を考えてみる。
 私の知り合いに24時間ベンチレーターを使用して、自立生活を送っている人がいる。彼女は座位がとれないので、寝台式の車いすに乗り、ベンチレーターを使ってショッピングに行ったり映画を見に行ったりと、日々の生活を楽しんでいる。ベンチレーターは意識不明の危篤状態のような人が付ける「生命維持装置」だと思われがちだが、彼女にとって、それは毎日の生活に欠かせない道具に過ぎない。しかし、「入院生活を送っていた頃は、ベンチレーターは私を病院につなげておく鎖のようなものだった」と、彼女は言っている。
 気管切開をしてベンチレーターを付けている人にとって、日常生活で欠かせないケアの一つは、カニューレから出る痰を吸引器で取ることである。この「痰を取る」という行為が“医療的ケア”と呼ばれており、このケアが、今、ベンチレーターを使って生活している人たちの間で大きな問題となっている。この吸引が“医療行為”として捉えられているために、医者や看護婦しか行ってはいけないという考え方が根強くあり、ベンチレーターを使いながら自立生活を送る人たちの壁になっている。吸引は医師や看護婦から指導を受ければ、だれでもできる。要するに、介助者やホームヘルパーが方法を取得すればよい。彼女は病院を出てから7~8年になり、自分で選んだヘルパーの派遣を受けて吸引を含めた介助を受けて暮らしているが、問題が起きたことは一度もないそうだ。今は鎖から解き放たれて、週末にドライブやショッピングを楽しむなど、自立生活を心から楽しんでいる。
 このように、障害をもつ人たちは病院や施設での安全な、しかし自由のない、生きているだけの生活ではない、主体性を尊重した自己の選択と決定による生活を求めている。そこには、社会や自分の行動に対する責任も存在し、失敗や危険を冒す権利もある。楽しいことも辛いことも経験する、障害のない人々と同じ、普通の生活を望んでいる。これは1970年代初めにアメリカで生まれ、今、世界中に広がろうとしている自立生活運動の理念である。
 自立生活運動の“自立”という言葉にはいろいろな意味が含まれていると、アメリカの自立生活運動のリーダーであるジュディ・ヒューマン氏は次のように言っている。
 第1に、それは“Equality(平等)”を表している。そして、「それは、どこの国に住んでいてもだれもが求めていることである」とも言っている。次に、“Respect(尊敬、尊厳)”の意味ももち、「自分が自分を尊敬する“Self-Respect”」と「何人も尊敬されるべき存在である」という二つの意味がある。また、それは“Responsible(責任)”という意味も含んでいる。社会や家族に対する責任はもちろんのこと、自分自身に対する責任(自分の行動に対する結果)も果たさなければならない。また、自立生活は“自由”を表す言葉でもある。だれもが、自分の選択と決定において行動する自由をもっている。ただし、それは人間として責任をもつ存在であるということが前提である。
 自立生活運動のリーダーたちが、これまでの長い社会運動の中で求め、改革を進めてきた自己の選択と決定、自己の責任において生活するという考えに反することが、今、日本で起ころうとしている。
 日本では現在、介護保険や社会福祉基礎構造改革などにみられるように、福祉サービスの改革が盛んに行われている。それらに関連して、最近“ケアマネジメント”や“ケアマネージャー”という言葉がよく聞かれる。これは、2000年から始まる介護保険の導入に伴い、必ず必要になってくる高齢者のケアの内容についての決定(アセスメント)や決定する人のことをいう。障害者に関しては、65歳以上、及び40歳以上の加齢による障害者も対象にされることが決まっており、64歳以下の障害者は2000年時点ではこの枠内に含まれず、5年後の2005年に向けた検討課題とされている。
 私たち障害者が危惧していることは、その制度にスライド式に取り込まれて、介助内容を決める際に「主体性」がなくなるのではないかという点である。また、寝たきりの高齢者を対象に策定された介護保険は、“社会参加”という、障害者が最も求めていることについて考慮されていない問題点もあげられる。この介護保険が障害者にも適用されると、コンピュータによる1次判定の後、医者や看護婦、施設の職員、その他社会福祉の専門家といわれる人たちで構成される介護認定審査会による認定を受け、そこで介護内容が決定される。専門家による判定もさることながら、コンピュータの1次判定の項目は、ADLにのみ着目した医学レベルでの介助の必要度を計るもので、外出や仕事時に必要な社会的状況の項目は含まれていない。社会的な存在としてではなく、家の中で生きていくために必要な最小限の介護量を計るものとなっている。極端に言えば、介助を必要とする人すべてにこの介護保険が適用されると、生まれつきの障害者は家の中では生きていけるが、家から一歩も外に出られないことになる。障害者のQOLはまったく無視されていると言っても過言ではない。
 結局これは、提供する側から考えられた“ケア・システム”だからである。そこには「やってあげる」という意識があり、心理的に利用者の上に立つような場合が多々生ずることになるだろう。そうなると、施設で暮らすのと変わらない。
 これからは、与えるケアでなく、利用者が使いたいと思う“サービス”をつくっていくべきである。人間一人ひとり性格も違えば、生活のリズムも異なる。たった6段階の範囲で分けられるものではない。障害者、高齢者にかかわらず、もっと融通の効くシステムにすることが必要ではないだろうか。
 とにかく、病気の治療をする医療的ケアの部分と、生活を支援するサポートの部分をはっきり分けるべきだと、私は考える。そして、医療的ケアを含めたものを、総括的な社会サービスとして考えていくべきだと思う。その社会サービスは、すべて利用者が主体となって、それぞれの選択と決定において使えるものでなければならない。何らかの障害で選択や決定ができない場合は、その利用者に一番近い支援者と共に選択していけばよい。「サービスを利用する」という視点に立つと、自ずとその意味が分かってくると思う。
 「障害と病気は違う」「障害者は、それぞれの人生において主体的に生きることを望んでいる」ことに対する、医者や看護婦、施設職員、社会福祉関係者の理解を深めていかなければならない。そのためには、大学の医学部のカリキュラムやその他福祉関係講座に、“Consumer-controlled(利用者主体)”という考え方を取り入れることを義務付け、啓発を図っていく必要がある。また、各機関の障害者部門には、ニーズの把握や利用者とのコミュニケーションのためにも、当事者スタッフの配置も重要であると考える。
 また、障害当事者たちは本当の意味での“自立生活”を獲得するために、それを実現する社会をつくるために、闘い続けるだろう。しかし、その社会変革は、障害者だけで成し遂げられるものではなく、医者や専門家といわれている人たちも巻き込んで実現していかなければならない。なぜなら、社会とは、全人のためのものであるからだ。
 WHOのDARチームがその目標とする「障害者の生活の質と機会均等を生涯にわたり向上させるよう、世界的な啓発を展開する」を達成しようとするなら、もっともっと当事者の声を聞き、“Consumer-controlled(利用者主体)”の本当の意味を医者やリハビリテーション関係者、研究者、行政関係者が理解するよう、教育していくべきだと考える。

(おくひらまさこ 全国自立生活センター協議会事務局長)


*昨年9月、WHOのリハビリテーション部会(The Rehabilitation Unit)は、障害とリハビリテーション・チーム(The Disability and Rehabilitation Team:DAR)と名称を変更した。この新しい名前は、これまでの医療的リハビリテーションに限っていたものよりも、もっと広い範囲をカバーするために付けられたものである。DARのプログラムの基本は、地域主導の支援が活発化する最近の社会の変化に合わせて、これからは「障害をもつ人たちの自立生活と完全参加を推進すること」と、「初期治療と地域主導型リハビリテーションである」としている。
 今回のセミナーでは、DARが今後2年間に推進する9項目のうち、「ケアについての再考」について討議が行われた。