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障害のある子どもたちは、いま vol.14

障害児と地域生活
―OPEN HOUSE すてっぷの実践から―

坂柳幸子

子どもが主役の時間を取り戻す

 「放課後」それは、先生にも親にも干渉されない自由で魅力的な時間です。「大人」の管理下にある「子ども」が解放される時間。だれにも秘密で冒険をしたり、仲間とゲームに熱中したり、1人で昆虫観察に没頭したり…子どもたちにとって、最もいきいきとした「生活」そのものです。遊びながら大人へと成長する子どもたちにとって、主体的な生活を送るためにはなくてはならない時間だといえます。
 しかし、何らかの障害をもつために、この貴重で楽しい「放課後」まで大人の管理下で過ごさねばならない子どもたちがたくさんいます。大ざっぱにくくれば、命を守るために必要不可欠な管理とサポートがないために仕方なく行われる管理があると思うのです。そして、後者の場合は、つい子どもの遊びにも干渉してしまいます。
 たとえば、子どもが積み木を持っていたとします。すると、多くの場合、親である監督者は、その子が積み木の色を楽しんでいるのか、形を楽しんでいるのか、ぶつけた音を楽しんでいるのか、それとも何かを形作りたいのか、といった確認をするより先に「ホラ、こうして積むのよ。ホラ、やってごらんなさい」といった声掛けをしてしまいます。その瞬間、遊び場は教育・指導の場に変わってしまいます。
 こうした時間にサポートがあったらどうでしょうか。子どもが何をしようとしているのかを的確に察知し、それをサポートしてくれるスタッフがいて、新しい遊びに誘ったりしてくれるけれども強制せずに、本人の自発性を伸ばしてくれるような場があったら…。
 「たとえ障害があったとしても、子どもの時代には管理・監督されない“放課後”があっていいはずだ」という思いと、「子どもの生活そのものである“遊び”にサポートを必要としている子どもたちがいる」という事実が、「放課後クラブ」を誕生させました。

「放課後クラブ」の発想

 1991年。2階建ての古い民家を借りて『OPEN HOUSE すてっぷ』と名付け、女性スタッフ3人で事業を始めました。「放課後クラブ」と「レスパイトサービス」と「親子クラブ」です。「親子クラブ」は未就学児の発達支援でしたが、現在は「アクティブクラブ」という青年期の余暇支援事業に代わりました。
 スタッフと利用する子どもの母親とであれこれと話し合い、いくつかのポイントを決めました。
1.「放課後クラブ」は遊び場であり、訓練や教育をしないことを明言すること。
2.スタッフは子どもたち一人ひとりが楽しめるように知恵を絞ってサポートすること。
3.障害の種別や程度を問わないこと。その代わり、一人ひとりの表情が読みとれるように少人数制とする(5、6人の子どもにスタッフ3人)。
 そして、曜日によってメンバーを固定し、1年間の契約で活動をスタートさせました。月・水・金の3コース。それぞれ5人の子どもたちが登録し、延べ15人がクラブ員でした。
 およそ3時間の活動は、養護学校へ迎えに行くことで始まり、夕方保護者の迎えで終わります。内容は、公園等での外遊びと造形やリズム、おもちゃを使った室内遊び、それと子どもたちが参加するおやつ作りでした。遊びの種類は千差万別で、一人ひとりの楽しみ方を大切にしたサポートを心がけました。おやつ作りは、月変わりでスタッフがメニューを決め、材料を用意します。材料や道具を運ぶところから始まり、こねたり、切ったり、揚げたり…家庭ではチャレンジが難しいものも、スタッフが上手にサポートします。初めて包丁を持つドキドキ感。油の中でふくらむドーナツのワクワク感。楽しみながら自分たちで作ったおやつは、大人気でした。

生活の豊かさを求めて

 クラブを始めて間もなく、保護者の1人からこんな話を聞きました。「クラブのある日は、子どもに優しくなれるんです。朝、養護学校に送ってから下校時間を気にせずに夕方5時まで1日を自由に使えると気持ちにゆとりができるし、帰ってきた子どもも機嫌がいいので…」
 私たちスタッフが一番気になることは、子ども自身が自分の力でどれだけ楽しめているか、という点でした。笑顔は大きなバロメーターですが、それ以上に迎えに行ったときの反応が手応えを感じさせてくれました。すてっぷの車を見分け、校舎の出入り口から前のめりに走ってくる子どもたちにどれだけ励まされたかしれません。
 こうして、親は親の生活、子どもは子どもらしいはじけるような生活の中で、より豊かな暮らしを求められるようになりました。

“あったらいいな”を仕組みにする

 クラブの需要は年々増え続けました。週3日の開設日はすぐに5日となり、9年目の今年度まで、常に25~28人が登録していました。年度途中でクラブの存在を知り、空き待ちをする方もでてきました。県内外からの見学者も多くなり、少しずつ「放課後」への関心も高くなったように感じました。見学に来たお母さんたちは、一様に「こんな所があったらいいな」と言われましたが、どうすることもできません。
 せめて、県内くらい、どの町でもこんな遊び場ができないだろうか、と考えましたが、運営費を全面的に利用者負担に頼っている限り、この事業が拡がるのは困難でした。
 その頃、県内で障害をもつ子どもたちの放課後活動を始めたグループがいくつかできていたので、そのグループとこれから始めたいと思っているグループに声をかけ、連絡会を作ることにしました。みんなで情報を共有し、公的な補助を求めて、子どもたちの放課後をさらに充実させるためです。1995年に6団体で発足した「障害児放課後対策連絡会」の初仕事は、群馬県議会への陳情でした。1996年に放課後対策を福祉施策とすることを陳情し、1997年には、群馬県単独事業として「心身障害児集団活動・訓練補助事業」が設立されました。
 それまで、就学前と卒業後しかなかった福祉施策が、やっと学童期に届いたのです。目的の一つに「余暇活動の助長」とあったのには感動しました。どんな形でも子どもたちの「余暇」に手が差し伸べられることになり、ゼロが1になったように感じました。
 実施主体は市町村ですが、委託団体に法人格等の制限はありません。現在、4市1村で実施されています。「障害児放課後対策連絡会」の加盟も13団体と増え、毎年、実践発表会という形で、放課後はもっと楽しくなる! とアピールしています。
 ようやく“道”ができた「放課後」ですが、課題は山積みです。サポートスタッフの身分保障・経済保障、理解のない市町村への働きかけ、活動内容の充実、中・高生の余暇支援…。何しろ余暇支援には決まったノウハウがありません。“何でもあり”の世界です。だからこそ、情報交換をしながら柔軟な支援ができたら、と考えています。
 また、母親の就労支援のための「学童保育」を求める声も高まっており、次の課題としてとらえています。

(さかやなぎゆきこ OPEN HOUSE すてっぷ)