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聴覚障害者の情報保障について考える
情報保障としての手話と字幕

小野康二

 「手話通訳者は、あまりがんばらないでほしい」
 テレビ番組に手話を付加するとき、私の職場では、手話通訳者にこのようなお願いをします。手話通訳による頸肩腕障害の予防のためではありません。手話通訳者が「がんばる」ことによって、情報保障のレベルが低下することがある、と考えているからなのです。

 私の勤務している熊本県聴覚障害者情報提供センターでは、聴覚障害者向けビデオの制作に力を入れており、毎年、自主制作ビデオ、一般の番組に字幕や手話を付加したもの、教材ビデオなど、100タイトル以上のビデオを制作しています。
 制作されたビデオは、ビデオライブラリーで貸し出していますが、ライブラリーの利用者に、こんな意地悪な質問をすることがあります。
 「情報保障としては、手話と字幕のどっちがいい?」
 返ってくる答えの多くは「ろう者には手話、難聴者に字幕」というものです。皮切りにこのことから、考えてみます。
 ご承知のように番組は、画(映像)の情報と音の情報で構成されています。音にはセリフ、ナレーション、モノローグ、回想の声、笑い声、泣き声、そして効果音(風の音、動物の鳴き声、ドアのノック音、電話、足音…)、音楽などがあげられます。
 さらに、音のあり様も問題になります。大きい―小さい、高い―低い、はっきり―あいまい、明るい―暗い、早口―ゆっくり、澄んだ声―だみ声などです。
 これらの音情報すべてが、字幕や手話の対象になっています。ちなみに、洋画の字幕では、音の種類や音のあり様はまったく問題になりません。
 この音情報を、果たして字幕や手話でどこまで保障できる、またはできているのでしょうか(ここでは視覚的な保障だけを取り上げます)。

番組理解と通訳者の「がんばり」

 講演会などの情報保障では、手話通訳と共に要約筆記が付くのが普通になってきていますが、手書きの要約筆記では、書くスピードは人の話すスピードになかなか追いつけないので、要約を余儀なくされます。しかし、手話通訳では、音情報をすべてもらさずに伝えようとします。これはテレビ番組へ手話を付加する場合に顕著に表れます。私の周りの手話通訳者も「がんばりやさん」が多く、少しでも多くの音情報を提供しようと「がんばり」ます。
 一般に、テレビ番組へ手話を付加するときの問題は、その方式、クロマキーかワイプか、ワイプであれば、その形や大きさ、また通訳者の衣服の色、柄、背景色などについての論議がよくなされているようです。しかし、それらの問題もさることながら、もうひとつの大切なポイントにも注意を払ってもらいたいと思っています。それが、通訳者の「がんばり」です。
 というのは、手話通訳者の「がんばり」が、そのまま番組理解に反映するどころか、逆に「がんばり」ゆえに、番組の理解が困難になる恐れもあると考えているからです。それは、手話そのものの性質の問題、そして、番組が画と音とで構成されていることによるものです。
 たとえば、情報保障の方法である字幕と手話で比較して考えてみますと、字幕には提示時間というのがあり、数秒ですが、字幕が静止します。それに比べて手話は、絶え間なく動いていて、どんどん情報が出され、そして瞬時に消えていきます。
 視線の動きを追うアイカメラを使った実験では、手話付加番組は手話に目が集中し、画のほうにはあまり動きませんが、字幕付加番組では、字幕を確認し、画を見、さらに字幕に戻る動きが多くみられ、画を見る時間が手話に比べると長いことが分かっています。
 ただ、手話を見ていても、画もその視野の中に入りますので、単純には言えませんが、手話付加番組では、相対的に画を見ることが不利になることは否めません。
 ところが、番組は画と音で構成されていますから、このとき手話通訳者が、「がんばればがんばるほど」、視線は手話に固定され、その分画を見ることができなくなる、結果として番組理解を困難にするということが出てきます。
 このことは、逆に言えば、画の情報が少ないもの、たとえば政見放送などは、手話を付加することによって十分に対応できるということになるでしょう。
 手話は、登場人物が多いドラマなどでは不向きです。複数の登場人物の言葉を手話で使い分けることは不可能に近いですし、セリフとナレーションの区別も難しいものです。このような場合はやはり字幕にならざるをえません。
 やはり、ろう者だから手話、難聴だから字幕と固定的に即断するのではなく、番組内容によって手話・字幕を使い分ける必要があるでしょう。

要約字幕、要約手話の提案

 聴覚障害者用字幕は、全文字幕か要約字幕か、とよく論議されています。ただ、全文字幕といってもセリフやナレーションの全文であって、その他の音情報はほとんど削られています。もし、すべての音情報を文字化すると、画面いっぱいに文字がのり、画が隠されてしまいます。
 当センターの字幕は、要約字幕です。全文字幕も読めないことはありませんが、長時間になると目の疲労が増大していきますし、字幕を読むことに集中するため、画の情報がほとんど入らないことになります。そこで、画を見る余裕をつくるためにも、適宜要約した字幕が必要になってきます。
 構造としては、基本的に字幕も手話も同じと考えています。ただ、手話通訳者に「がんばるな」とお願いするというのは、いかにも消極的です。そこで積極的な課題として「要約手話」というものを提案しています。「要約手話」とは、画情報を大切にし、かつ、それを効果的に使いながら、音情報を適宜要約して手話表現するということです。
 手話付加番組での手話通訳者の役割は、音情報だけを取り出して、その手話化を考えるのでなく、番組丸ごとの情報保障(画も音も)をすることだと思います。「木を見て森を見ない」という言葉がありますが、「木」(手話通訳対象の音)と共に、「森」(番組全体)をどう伝えていくかが情報保障の課題でしょう。
 当センターでは、「要約手話」について不定期ながら「手話番組検討会」を開き、検討を重ねているところです。

よりよい情報保障のために

 もう少し「森」について考えてみます。
 手話や字幕を付加する番組を制作していて、いつも考えることは、聴覚障害者が番組を理解したり楽しんだりするために、字幕や手話を付加すればそれで済むのか、ということです。
 言うまでもないこと、しかし、確実に押さえておかなければならないことは、もともとほとんどの番組は、健聴者のために作られている、ということです。番組は、見て・聞いて、分かる・楽しめる構成になっている、言い換えれば視覚と聴覚に障害がないことを前提にして番組が構成されている、ということです。そこに、聴覚障害者の情報保障のためにと、字幕・手話を付加するわけですが、それでどの程度の情報保障ができているのか、制作しながらよく不安になります。
 少し単純化しすぎかもしれませんが、たとえば、番組での画の情報量が100、音の情報量が100あるとします。健聴者は、視覚と聴覚によって音の情報を100受容しているとします。それを脳で再構成し、100+100=200(+α)として情報を得ているわけです。
 聴覚障害者の場合は、この200の情報量を、視覚だけで受容しなければなりません。健聴者に比べると過重な負担になることは容易に想像がつきます。
 これまでの情報保障の取り組みは、番組の構成は聖域として手を触れることなく、その情報保障の方法について汲々としてきたような気がします。もちろん「要約手話」を含めて、方法について検討していくことは大切なことだと思います。
 しかし、これからは番組の構成、情報保障をしようとする対象の構造そのものを問題にしていかなければならないと考えています。そして、単にテレビ番組の構造だけとしてでなく、この社会の構造をも同様に見据えていきたいと思います。

「文化の制限」から「文化の拡充・創造」へ

 ここ数年、「ろう文化」という言葉がよく聞かれるようになりました。「文化」というのは、その集団に属する人々が心地よい方法、流儀、習慣のことですから、その意味で考えると、番組(健聴者のための番組と言ってしまいましょう)、これは健聴者文化そのものです。そうすると、問題は健聴者文化、聴覚と視覚をフルに使うことによって快適な情報環境をつくっている、そういう構造の中で、聴覚障害者への情報提供をするために手話や字幕を付加することに、そもそも限界があるということも、頭のどこかに刻み込んでおかなければなりません。そして、よりよい情報保障をめざそうとするとき、その構造を壊していく作業も必要になるでしょう。
 たとえば、健聴者が多い会議の中にろう者が参加していたとします。もちろん、ベテランの手話通訳が付いています。最初は議長がコントロールしている会議も、論議が白熱するにつれ、ひとつの意見に対し、間髪を入れずに次の意見、そのうちアチコチから意見が飛び交うことになります。手話通訳者は、同時に出るいくつかの意見のどれを選択し通訳しようかと迷い、これが話の主流になると選んだ意見がまったく話題にならなかったり、ろう者がそれについて話をしようとすると、話題としてはすでに終わっていた、こういう光景はよく見うけられます。
 ろう者にとって参加しにくい会議、しかし、健聴者にはこの方式こそが会議をスムーズに進行させる合理的な方法になっています。聴覚の特性を使った会議運営、まさに健聴者文化です。この構造をそのままに、通訳者だけが奮闘しながら手話を付加しているというのが現状でしょう。やはり構造を問題にすべきです。
 構造を変えようとするのは容易ではありません。それは、これまで健聴者が慣れ親しんできた方法を変えてしまうこと、「健聴者文化の制限」だからです。
 聴覚障害者用の字幕や手話の付加を前提にした撮影を、放送カメラマンにお願いすると、それは大変やりにくい作業だと言われます。一般にカメラマンは、画面の隅々まで使うことを前提にした画づくりに徹しているからです。最初からデッドスペースを考えて撮影するという「文化の制限」は、カメラマンにとって一種の苦痛です。
 これは特別なことではなく、たとえば私は、手書きの要約筆記に合わせてゆっくり話していくと、思っていることの半分も言えない、自分の思考回路がどこかにスッ飛んでいってしまいます。「文化の制限」は、私にとっても痛みです。痛みを伴いながらも、聴覚障害者のペースを考えていくことが、手話通訳や要約筆記による情報保障を本当に生かすことになるでしょう。
 なにやらノーマライゼーションという言葉は、みんながうまくいくという幻想を与えているように感じます。しかし、それぞれの人は、それぞれの「文化」をもっているわけですから、その「文化」の見直しなしには、ノーマルな社会はやってこないでしょう。
 そしてノーマルな社会というのは、お互いに「文化の制限」をし、痛み分けをする社会のことではないでしょうか。
 ただ、「文化の制限」の向こうには、それを越えた「文化の拡充」や「文化の創造」があるはずです。それらの取り組みが、聴覚障害者の世界でいくつか始められています。それは別の機会にご紹介することにします。

(おのこうじ 熊本県聴覚障害者情報提供センター)