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文学にみる障害者像 43

松本清張著
『菊枕-ぬい女略歴-』

花田春兆

 昭和21年、北九州のある精神病院で、一時期一世を風靡したとも言える1人の著名な女流俳人が、ひっそりと死んだ。
 看護日誌には、連日「独言独笑」の記入が残されていた。一人言を言っては1人で笑っているというのだから、精神病といっても人に危害を加えるなどとはとても考えられない、極めて穏やかな症状だったと思われる。
 入院前の状況としては、
 ――梅堂(俳句の師)に頻りに出す便りが前後二百数十通を越え、終りになるほど常態を失っていた。文体は前後の意味が分からなくなり、一通一通、哀訴したり、憤慨したり、電報で前便を取り消したり、また以前にかえったり、支離滅裂であった。如意輪観音がどうの、観自在菩薩がどうの、…… 次第に健康人でなくなる状態が知られた――
 と『菊枕』に記されている程度だ。

 ―ぬい女略歴―と付記した『菊枕』が、主人公の精神異常に触れているのは、結末の極めてわずかの部分に過ぎない。
 だからこの作品を、精神障害をテーマにした作品とするには、いま一つ納得がいかないとの意見も出されるであろう。
 しかし、この作品のすべてはその結末に至るための伏線、つまり、勝ち気で才能にも恵まれた女性が、その溢れる自信と表裏をなす被害者意識の強さゆえに、周囲との軋轢を招き、精神の錯乱状態に落ちこんでいく過程の解明、といってもよいのだから、全編が錯乱に陥らざるを得なくなった主人公の精神構造と、そこに追い込んでいった周囲の精神環境の叙述なのだから、立派に精神障害にかかわる作品といえるだろう。

 三岡ぬいは女学校時代文学を志し、校内で1、2を争う存在だった。
 器量もよかったが、顔も体も大柄なのが、彼女を一層目立たせていた。
 その彼女が家も貧しく、すべてに見劣りする圭助との結婚を承諾したのは、冴えない中学の教師でも、美術学校出の彼に、画家としての芸術面での成功に夢を託したからだった。
 だが、美術学校で得られるものは技術と知識であって、才能は別ものであることを知っていて、自分にそれが無いことも知っている彼は、結婚当初こそ妻の話に適当に合わせていたが、次第に避けるようになり、口にもしなくなる。
 長女が生まれ次女にも恵まれ、地方では尊敬される中学校の教師の妻として、世間的には幸福そうに見えながら、彼女の胸には満たされぬものが、蓄えられていったのだった。
 やり場の無い不満に、時には爆発的に当たり散らす妻。妻が荒れるのもつまりは自分のふがい無さからだと、自責の念に駆られて声も荒げられない夫。
 冷えきった泥沼の生活。
(註、ぬいの実在のモデルとして疑いようもない俳人杉田久女の代表作に
 足袋つぐやノラともならず教師妻
という句が知られている。
 当時、文化の先端の新劇で話題を浚っていた『人形の家』のノラ。夫の人形でいる甘い生活を捨てて、真の自分を求めて家出をしたノラ。そうしたノラヘ魅かれながらも、踏み切れずに夫の足袋を繕うような貧しい生活を続けている自分への、いらだたしいような、哀れみ慰めてもやりたいような、そんな複雑な心情が感じ取れる句だが、ぬいの当時の心境がまさにこれなのだ。
 現在のように、簡単に離婚が許される社会ではなかった)

 そんなある晩、学校から帰って教材の準備をしている圭助に、ぬいは
「あなたと毎日、口争いばかりしていても詰まりませんから、少し趣味を持とうと思います」
と宣言するように言い、俳句だと告げ
「俳句か。小説ではなかったのか」
と念を押す夫を
「あなたは何もご存じありません。とにかく俳句をやります」
と強い目付きで撥ね返して、ともかく夫の承諾を得る形を整えたのである。
 俳句を勧めたのは実家の縁者だったが、すでに福岡から出ている俳句雑誌には投稿し始めていた。
 俳句に熱中し始めてから、それまでのように些事で癇癪を起こすことは無くなったが、家事を疎かにする風が見えるようになった。
 圭助が勤めから帰っても食事の支度もできていず、2児は腹を空かして泣いているのに、本人は机の前に座って凝然として動かない。それを咎めるとまたどのような騒動になるか……と、圭助が台所に下りるという具合。
 子どもの世話、家の掃除、洗濯、夫の身の周りの始末など、すべてが粗略になっていった。昼は家を外にして彷徨し、夜は家内の寝静まる2時、3時に好んで起きていることが頻りになっていた。
 俳句仲間との交流も始まり、知らない客も増えていたがそんな時、圭助は顔を合わさぬようにし、ぬいも引き合わそうとはしなかった。圭助は陰気な人嫌いという評判を受けていた。

 初めて九州を訪れた瀬川楓声を、福岡の俳人たちはこぞって歓迎したが、ぬいは滞在の3日間、朝から晩まで傍らに詰めて離れず、ただごとではないと言われるほどだった。
 これを契機に、ぬいは当代随一の俳人宮萩梅堂の『コスモス』への投句を開始する。俳句といえば文句無く、この人、この雑誌に決まっていたような時代である。楓声が梅堂の逸足だったからの縁に違いないが、ぬいにとっては初めて自分の力で自分の夢に立ち向かえるチャンスを与えられたことになるのだ。
 初入選の一句を、ぬいは短冊に書いて床の間に飾り、お神酒を供えて祝った。
 (ぬいが特に大袈裟だったのではない。初入選すると赤飯を炊き、俳友を招いて祝宴を張る慣習があったという)
 それほど厳選で権威を誇っていた雑詠欄に、ぬいはほとんど毎月入選し、三句、四句入選の好成績の月も多かった。鮮やかな見事なデビューであった。

 半年後、楓声は再び九州を訪れる。
 ぬいは新調の春着をねだって夫との間に一悶着起こし、楓声と2人の姿を郊外の温泉地で見かけたという風評さえ流される始末だった。
 目立つ美人だけに成績のよさを結びつけて、色仕掛けで迫っていると噂したのだ。もちろん妬み半分である。
 だが、ぬいの心はすでに楓声を越えて、第一人者の梅堂に向いていた。俳人としての彼の大きさに賭けたのだ。梅堂はぬいの太陽になっていた。

 ぬいは梅堂の教えである花鳥諷詠を実践しようと、毎日野山を歩き英彦山にもたびたび登って作句に努めた。
 だが、その句は奔放華麗と評され、豊かな詩心を感じさせ、注目を浴びた。
 ぬいは工面した金で上京、片瀬海岸の梅堂の家を訪ねた。直接梅堂と対面して語れたのは、一生忘れられない感激だった。梅堂への信奉はますます篤くなった。
 その分、梅堂からも認められねば気が納まらなかった。毎月の成績に一喜一憂した。ライバルの女流俳人がそれぞれに、地位・権勢・学歴をもっているのが癪に触った。自分より彼女たちが厚遇されるのは、俳句そのものよりもそれらが作用しているからだ、と思えたからだ。
 梅堂に脳溢血の経験があるのを知って、ぬいは何日も掛けて菊の花を摘んで、それを芯にした枕を縫い上げた。陶淵明の詩にもある長寿を願う菊枕である。それを持って再び片瀬を訪れたぬいだが、掛けてきた期待は見事に裏切られる。
 梅堂は素っ気なく冷ややかだった。知人の取りなしでやっと得た一言に上気したぬいを、またも色仕掛けという中傷が取り巻いた。
 梅堂は悪くない。悪いのは周囲の弟子どもだ、とする彼女の言説が余計に事態を悪化させた。梅堂宛の手紙が頻繁になるのもこの頃からであり、英彦山で作句中の彼女に会った人が、憑き物が付いているような顔の恐ろしさに、思わず逃げ帰ったという話も伝わっている。
 欧州へ向かう梅堂一行の船を、ぬいは門司で迎えた。だが、梅堂は一切取り合おうとはしなかった。
 そして『コスモス』からの除名通告。ぬいの俳句生命は完全に断たれるのだ。

 松本清張の『菊枕』が『文藝春秋』に発表されたのは、昭和28年8月。長女・石昌子の尽力で『杉田久女句集』が出版された翌年である。
 『菊枕』のぬいが杉田久女であり、『コスモス』が『ホトトギス』、宮萩梅堂が高浜虚子その人であることは、あまりにも明々白々の事実だ。
 この作品は清張が芥川賞受賞直後に書かれた原稿用紙30枚、つまり初期の短編である。
 朝日新聞勤務で北九州にいた清張だから、地元の異色俳人久女については熟知していただろう。
 前後して書かれた『ある「小倉日記」伝』。こちらは明らかに肢体障害者が主人公だが、豊かな才能をもちながら不遇の生涯を生き、空しさの中で死んで行く点で共通している。
 しかも、硬質な著者のペンは情の潤いを排して、冷酷に念を押すのだ。
 ぬいが病院で夫に作った(菊枕)の芯の、萎んだ朝顔の花の残骸まで、白日の下に曝して見せるのである。

 それにしても、ぬいは精神病院に入らねばならぬほどの、精神障害だったのだろうか。
 肢体障害の場合、社会生活の中に張り巡らされるバリアが、不自由さを助長するところから、障害者は社会によってつくられる、とも言われている。
 ぬいもまた、夫、隣人、俳句にかかわる人々によって障害者につくられていったのだ、と言えなくもない気がしてくる。
 そして最後になったが、この作品、俳人を主人公にしながら、俳句作品を一句も示していない。妙と言えば妙である。
 作品を引用することで、作中人物のぬいと、実在の俳人久女の完全合体するのを避けねばならなかったのだろうが、ここでは参考に久女の句を少し挙げておく。

 ちなみ縫ふ陶淵明の菊枕
 谺して山ほととぎすほしいまま
 花衣脱ぐやまつはる紐いろいろ
 風に落つ楊貴妃桜房のまま
 わが傘の影の中濃き野菊かな
 平凡の長寿願はずまむし酒

(はなだしゅんちょう 俳人)