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ほんの森

ピーター・コーリッジ著、中西由起子訳
アジア・アフリカの障害者とエンパワメント

〈評者〉本田徹

 2年前に「障害者の社会開発―CBRの概念とアジアを中心とした実践―」(明石書店)を久野研二さんとの共著で出された中西由起子さんが、このたび上記の本を翻訳・上梓された。NGOの立場からアジアでの保健協力に携わってきた者として、大きな啓発を前著から受けてきた私は、今回の著作からは別の意味で深い感銘を与えられた。CBR(地域に根差したリハビリテーション)の理論的な背景や枠組みを幅広い視野で丁寧に叙述したのが前著とすれば、本書はCBRをそれぞれの国や地域で実践し、具体的な成果を勝ちとってきた、勇気と創意にあふれる障害者と彼らの運動の、「成長の記録」として読むことができる。CBRを、個人の願いや苦悩、息づかいやぬくもりまで含めた、パーソナル・タッチをもった物語として追体験できるところにこの本の魅力の一部は帰せられる。
 しかし、一方でCBRに対する著者コーリッジ氏自身の態度は極めてアンビヴァレント(両面価値的)なものだ。それはなぜか? CBRが、リハビリテーションの「脱施設化、脱神秘化、脱専門化」という歴史的な過程で果たしてきた役割の重要性を認めつつ、それが、現実の地域社会活動の中で生み出してきた誤解や混乱にも彼は鋭い批判を加える。たとえばCBRはアウトリーチ・プログラムとよく混同され、施設から派遣されたCBRワーカーによる子どもへの在宅リハビリテーション以上には何も起こらない結果となる。このような疑似的CBRが、「公的な領域から障害を事実上除去(隠蔽)することになる」危険性を彼は指摘する。「予防、機会均等、福祉機器の支給、アクセス、学校教育の統合、一般の意識向上に対処する統合された方法」としてコーリッジ氏は、CBRだけで十分だろうかという真率な疑問を呈している。CBRのより豊かな発展のために働く人々にとっても傾聴すべき意見なのであろう。
 本書はタイトルが示すとおり、主として途上国での障害者のエンパワメント運動を伝えるものだが、彼らが自らの権利に目覚め、多くの困難を乗り越え、たくましいプロシューマ(トフラーのいう「生産=消費者」)として成長していく姿は、日本の障害者や高齢者を鼓舞するとともに、「健常」とされる者に、自らの無知に気付かせ、人間の尊厳や勇気が、障害の有無や時代や地域の差を越えた普遍的なものであることへの認識に導く。

(ほんだとおる SHARE=国際保健協力市民の会)