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障害を越えてネットワークをつくる
―「欠格条項の廃止」を求めて―

加藤眞規子

対処方針

 総理府は「必要性の薄い」欠格条項を廃止するとしたうえで、三つの「対処方針」を示した。
(1)能力などについて判断基準を明確にする。
(2)「絶対的欠格事由」を「相対的欠格事由」に改め、補助手段を考慮する。
(3)欠格事由が止んだときの資格・免許の回復規定を設ける。

障害者に係る欠格条項

 「障害者に係る欠格条項」は、制限の種類として、主に以下の三つに分類できる。
(1)資格取得時と資格取得後に障害の状態となったときの資格制限(医師免許、運転免許等)。
(2)火薬などの危険性を伴う物品の取り扱いで一定の就業を禁止するといった取得、従事などの行動制限。
(3)公営住宅をはじめとする公的な施設等の利用制限。
 見直しの対象となっている欠格条項は63である。

国際障害者年の理念

 「欠格条項」は、障害者に可能性をチャレンジさせる法律ではなく、門前払いにする法律である。個性である「障害」を、個人の「能力」としてとらえている。「できない」理由を障害者の「障害」のせいにしている。個人の力だけでは「できない」ことがあっても補助する道具、支えてくれる人間関係があれば、私たちに「できる」ことはたくさんある。国際障害者年の行動計画に謳われた「ある一部の人(障害者などのこと)を閉め出す社会は弱くてもろい」という言葉を、私たちとしては、もう一度、政府の人々に思い出してほしい。

私たちの障害

 私たち精神障害者が仕事や住居を求めるとき、「危ない」「自制心に欠ける」という理由で採用されなかったり、住居を貸してもらえないことがあまりに多かった。そのため、私たちは病や障害を伏せて、それらを求めざるを得なかった。しかし、よく考えて欲しい。社会の人々は、私たちと実際に交流して、「危ない」「自制心に欠ける」と判断せざるを得なかったのだろうか。私たち精神障害者の「障害」の主なものは、以下の四つであると痛感するのだが。
(1)安心して治療を受けることのできる環境がいまだ整備されていない。
(2)高齢者や他障害の人々に比べて、著しく所得保障・福祉的支援が立ち遅れている。
(3)社会の人々が、私たちと交流することなく、「危ない」と考えてしまうことが多く、偏見と誤解は根強いものがある。
(4)法体系が、私たちを「主体者」としては位置付けておらず、「隔離」し、「保護」すべき存在として位置付けている。
 本来、憲法や法律は「人を守り、人を活かす」ためにあるもの。その意味で、「欠格条項」は憲法に違反し、「人間らしい」「人が人と助け合い、支え合い、お互いを活かす」という「人間性」を裏切った法律であると言い切っても、過言ではない。
 可能性にチャレンジしようとする私たちを、「応援しよう」という「心意気」を新しい21世紀の法律はもってほしい。

「医療モデル」から「自立モデル」へ

 各省庁との交渉から感じとったことは、一言で言うと「万が一ということがあるので、欠格条項は必要である。しかし絶対的欠格条項が問題であるならば、相対的欠格条項に変更すればよい」という、総理府の対処方針への抵抗であった。「能力」という言葉の意味も、彼らと私たちの間には大きな隔たりを感じざるを得ない。私たちが使う「能力」という意味は、「支えてくれる人間関係」や「補助具」など、「環境」の影響で「変化」するものである。だからこそ、病名や障害名で「できない」と決めつける「欠格条項」は廃止できると考えるのだ。
 国際的にも障害者をその個人と社会環境との関係でとらえ、「できないことは何か、どんな支援が必要か」という観点で医療モデルから自立生活モデルへの転換が潮流となっている。

権利擁護とは

 欠格条項を「廃止」して、資格を取ろうとするとき、また職業に就こうとするとき、ある行動をとろうとするとき、そのことに本当に必要な能力が私たちに「今あるか」、どのような「支援があれば」それは可能になるのか、私たち障害者を「主体」として、一人ひとり一事例を大切にして見てほしい。それが「権利擁護」の大原則であるはずだ。
 見直しは2002年までに行われるとある。見直しの後に、「本当に障害者の社会参加が前進する」こと、私たちの言い分を聞いてくれるシステムができ、「権利を回復することができる規定ができる」こと。この2点が私たちの願いである。「対処方針」がでた「現在」を「検証」すると、道は険しい。

(かとうまきこ 全国精神障害者団体連合会事務局長)