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文学にみる障害者像 54

高村光太郎著『智恵子抄』

花田春兆

 ウオーミングアップ不足のピンチヒッターである。しかもバットは傷だらけの半分しかない代物だ。これでは同じアナを開けるにしても、試合放棄したほうが、醜態をさらけ出さずに済む点で、プレイヤーとして観客への礼儀であるうとは思う。しかし、すでに審判にコールしてしまった以上、打席に立たないわけにはいかないのだ。
 というのは、事実上この欄の企画を担当している私が他事にかまけていて、気が付いた時にはしかるべき人に依頼するだけの時間的余裕を失っていた。
 で、「私が何とかしましょう」と安請合いしたのが悪かった。     

* * *

 詩集『智恵子抄』なら若き日の愛読書だったのだし、どこの図書館にもあるだろうし、参考文献も豊富なはず、とたかを括ったのが間違いのもと。
 いよいよ切羽詰まって駆け付けた近くの図書館のパソコン画面にはあるのだが、「盗まれたのでしょうね。現物は見つかりません」との係員の答え。
 やむなく春秋社版の『高村光太郎選集』の一冊を借り出してきたのだが、ここでまたミスとハプニングによる不運を重ねてしまった。
 その一冊には『智恵子抄』の後半が収録されているだけだったし、しかも信じられないことに解説文のその智恵子に関する数ページが、ものの見事に切り取られていたのだ。
 だがそれは逆から見れば、文庫本の紛失も、解説文の切り取りも、出版後六十年になろうとしているこの詩集が、今なお熱烈な読者を持つことの証明に違いないのだし、智恵子に精神障害が現れたのは死に至る数年間のことだから、障害者としての智恵子を見るだけならば、『智恵子抄』は後半だけで十分ということにもなる。
 もちろんそれだけでは余りにも哀しく、詩集としての価値・内容の厚みも幅も激減してしまうのだが・・・。

* * *

 そう、この詩集はその人の死後三年を経て、夫・光太郎が亡き妻・智恵子に捧げた、二人の出会いから高揚した新婚生活を経て、智恵子の精神病の発病、そして止めようもない悪化の一途をたどっての死、荒涼たる遺された者の生活の中に生き続ける面影に至るまでの、まさに深く純粋な愛の軌跡の結晶なのだ。
 〈樹下の二人〉に高らかに歌い上げられているように、智恵子はみちのくの山河に育てられた自然の申し子だったのだ。〈あどけない話〉で有名な〝東京には空が無い〟のセリフも、その大自然から引き離された者の嘆きだ。
 そうした生命の根から遠ざけられてしまった嘆きのうえに、今でいうストレスは大きく重なり合うのだった。
 村でも屈指の裕福な家庭に何不自由なく育った彼女が、いきなり定収入の無いくせに、意外な出費の多い芸術家の貧困な家庭を背負わなければならなくなったのだ。詩人・彫刻家・美術評論家、そして何より芸術家である夫を、第一の理解者として支えながら、しかも自分自身でも一個の芸術観を持って、実作に励む一人の作家でもあり続けようとしたのだ。
 二人を結びつけた洋画(光太郎も一時期洋画に熱中していた)は、家事(家計?)との関係で断念せざるを得なくなったのだが、その後も彼女は糸を自ら染めて織物を試みたり、病状が進んで入院生活になってからも、色紙を重ね合わせての切り絵によって、自分の美的感覚を形として示し続けて止まなかったのだ。
 そしてその切り絵こそ、変わらぬ愛を注ぎ続ける夫へ応える愛の言葉であり、彼女からの愛の詩だった。

* * *

 芸術と実生活、高揚と貧困、夫への支持と自己の充実、それらのせめぎ合いの狭間の中で、彼女の精神は止めどなく一つの方向へ進んで行くよりなかったのだ。
 自分を、〝精神の頽廃〟から救ってくれたその人。その人が確実な足取りで〝狂って〟いくのを、手の施しようもなく見守るしかない夫。耐えるにはあまりに酷しいが、耐えなければならない煉獄。しかも、詩人は詩によって現実を昇華し、煉獄の詩を歌い上げねばならなかった。宿命なのだろうか。
 〈風にのる智恵子〉〈千鳥と遊ぶ智恵子〉などは絶唱と呼ぶに相応しい。

尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることを
やめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は
絶好の散歩場
智恵子飛ぶ
       (風にのる智恵子)
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ
ちい、ちい、ちい、ちい、ちいー
人間商売さらりとやめて
もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽くす。
      (千鳥と遊ぶ智恵子)

 千葉県九十九里浜に転地療養して、人間界のしがらみを解き放って、大自然の中に還ってしまおうとしている智恵子。それを人間界に留まって見守り見送るしかない光太郎。しかも意識のある時は訪れる光太郎をひたすら待ち焦がれる智恵子なのだ。
 二人の愛の証は、今も詩碑となって九十九里の砂浜に語り継がれている。
 それは、狂い行く妻のうしろ姿を見守っていた夫のそれのように、いつまでも立ち尽くすのだ。

* * *

 海に臨んだ大自然の中での療養生活は、半年あまりで幕を閉じる。
 症状が進み医療の必要性が増して、東京に戻らざるを得なくなったのだろうが、智恵子自身が離れ住むことへの不安・不満を、強く訴えた結果だとも想像できよう。
 家事と看病を引き受けての自宅療養。それも、感情の起伏の波はますます強く激しく、時に凶暴性さえ示しはじめて目が離せなくなった人との生活である。さすがの光太郎も、仕事どころでなくなった苦悩を漏らしている。詩作も激減せざるを得なかった。
 ついに智恵子は病院に入院する。
 そして憧れ続けた自宅へは戻れずに瞑目する。夫の言を借りれば〝あまりに純粋過ぎたゆえの狂気〟に倒れたのである。
 死後、その病室から千数百枚に及ぶ切り絵が、自宅の台所からは醇成された梅酒が発見された。
 いずれも夫・光太郎への贈り物だった。

(はなだしゅんちょう 俳人)