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ケアについての一考寮 第13回

心のケアを求めて

加藤みどり

 暑い夏が過ぎ、車いすで外を歩けば金木犀が秋の香りを運んでいます。
 私の障害者生活も二十七年の月日が過ぎ、十七歳の時、植物人間同然の日々を過ごしたことが昨日のことのように思い出されます。
 原因不明の病から、突然全盲と車いすの障害者となりました。家庭的に恵まれなかったことから施設入所となり、その生活を三年半送りました。施設で送った苦い、辛い経験は、地域の中で生きていかなければならないと固く決意させたのです。
 施設は、地域との交流もなく、「手を借りなければ生きていけないのだから」ということを押しつけられ、自分の意志で決定し行動することはできませんでした。外出することもほとんどなく、女子の入浴に男子の職員が公然と介助に入る等々・・・。思い余る場面がたくさんありました。このような状況は、私を「健常者と共に地域の中で生きたい」と決意させるに十分で、施設を出たのです。
 その当時の、地方の福祉施策は全くと言っていいほど整っていませんでした。私の地域自立の壁はアパートを探すことから始まり、介護保障の問題はとても大きな壁でした。車いすの障害者が人っ子一人通らない街の中でボランティアを集め、介護保障を求めながら生きるということは、とても辛いことでした。しかし辛さの中にも、それをクリアしながら介助者の手を借りて、地域の中で生きることは、社会の一員として認められているという実感につながりました。
 障害者の自立保障を求め、行政に対し働きかけを続けていましたが、仲間がいないということもあり、大きな前進を望むことはできませんでした。
 私は二十三歳の時に結婚し、二十四歳で女児を一人出産しています。娘は今年二十歳になりました。
どういう因果関係か、仕事はヘルパーです。
 介護保障も少なく、家族に頼らなければならない生活は悲惨でした。ある友人に、東京に出てきて一緒に頑張らないかと声をかけられたことがきっかけになり、さらに「米沢で生活するのにも限界があるんじゃない」と言った娘の言葉に決意させられ、六年前、東京に転居しました。
 東京での生活は、介護保障が十分とは言えないまでも、ボランティアを探すことなく、何とか二十四時間介助を受けることができます。なぜ、同じ日本に住みながら、こんなにも地域で介護保障や制度が違うのか、介護保障の問題だけで住むところを選択できないなんて誤まった社会だ、と気づかずにはいられません。現在は介護保障がある分だけ精神的な負担から解放され、もっと自分のことに目を向けて生きていこうと思っています。
 山形で地域自立をめざし、十八年間福祉行政と闘った日々は、決して無駄なことではありませんでした。
 二〇〇〇年四月から介護保険が施行され、数多くの意見や批判を聞くたびに、私の脳裏に疑問がよぎります。本当に利用者の求める介護なのだろうか?ただやっているという形だけの介護保険なのではないだろうか? 私自身、介護とは事務的に仕事をやりこなしてもらうことではなく、人間対人間という関係の中で、心と心のつながりを大切にするべきものだと思います。なぜなら、私のような全盲と車いすの障害では、私生活に深く介助者が入り込まなければ、私が求めるケアは期待できないからです。
 介護は一人ひとり違います。そこで、介護保険で行っているようなヘルパー二級の資格が、どこまで必要なのでしょうか?私にとっての介助は、資格があるなしの問題にかかわらず、加藤みどりがどのような人間性であるか、どのような介助を必要としているかを深く知り、経験を積んでもらうことしかないだろうと思っています。
 二〇〇三年をめどに、障害者の介護保障も介護保険に組み込まれるという動きがあります。現在でも不十分な介護保険の中に、障害者の介護保障が組み入れられることになれば、障害者が地域の中で生きていくことは不可能になると考えられます。
 社会の中では地域格差がまだまだあり、障害者が生きていくうえで十分な制度とは言えません。今後大事なこととして、障害者一人ひとりが歩み寄り、大きな力をつくりあげ、自分自身の求めるケアを訴えることが必要でしょう。

(かとうみどり 在宅障害者の保障を考える会副会長)