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文学にみる障害者像

シーラという子
─虐待されたある少女の物語─

トリイ・L・ヘイデン著

麓正博

 “虐待”という文字が報道を騒がせて久しいが、障害児者に対する暴力や人権侵害も、一般社会の喧噪や権利意識の一定の高揚とは裏腹に、相変わらず後を絶たない状況にある。
 今から6年前の話になるが、私が異動で赴任した新設の知的障害者入所更生施設のケース検討会議で、記録の中に“情緒障害”と記載された入所者が多いことに驚かされたことがあった。「奇声をあげ暴れる」「独言多く突発的興奮が」「時には放尿や便こねも」「問題行動が多々あり集団行動が困難」等々の文言のあとに、この“情緒障害”という断定的文字が障害の程度判定(そこは重度の人が多く、視力や聴力、身体のマヒなどのダブル障害の人も多かった)とともに併記されていた。
 何かがおかしいと思い、前施設などから送られきた基礎資料を調べてみると、それらがある特定の施設から入所してきた人たちに多いことが分かった。そこで簡単な調査をしてみると、どうもその施設での処遇に問題があるらしいということが浮かびあがってきた。訓練や躾という美名のもとで、一部の中核的な職員によって根拠のない“力の指導”が半ば公然と行われていたという。また、さらに調べてみると、そうした施設の「指導」を一部の親御さんたちが支持していたともいう。この国ではよくある話かもしれないが、やはり愕然とさせられたと同時に、この問題の根の深さと複雑さに改めて思いを巡らされたのである。
 私は、それまで長く自閉症の人たちとかかわってきていたので、かつての自閉症と情緒障害、精神障害等の概念が混同して使われていたケースに多く出会ってもいた。実践過程の中で、情緒障害と判定されていた人がどんどんと変化を見せ、たとえ言葉のない障害の重い人でも数週、数か月と付き合うと、非言語的な情動的なコミュニケーションが生まれていった。そうした成果を体験的に知っていたので、あいまいな障害の文言が安易に使われていることへの少なからぬ疑問を感じていたのである。
 そんな疑問が膨らみつつあったある時期に、ある研究会で知人からこの『シーラという子』を紹介された。日々の実践で、施設や家庭での虐待(身体的暴力や威圧、心理的虐待、ネグレクト等)による後遺症ともいえる障害と向き合わされてきた者からすると、記録文学とも言えるこの本は何と新鮮に確信的に思えたことか。今でも、著者トリイ・L・ヘイデンとその教室に集まった9人の「心を病む子どもたち」とのやりとりに、あのヘレン・ケラーとサリバン先生とのそれに似た深い感動を覚えずにはいられない。
 まずお断りしておかなければならないのは、私がこの本を単なる実践記録ではなく、記録“文学”だと考えるのは、著者が子どもたちの様子を一方的に書いているのではなく、一人ひとりの子どもの内面を丁寧に探りながら、同時に自分自身の内面をも記述し、その両者の絡みや相互の変化や成長を、社会との関係の中で、専門用語を使用することもなく丹念に描写している点にある。私は、著者のこうした一貫した姿勢が、ここに登場する子どもたちに「特殊な子」という印象を与えさせない大事な素地をつくっているのではないかと感ずるのである。
 著者ヘイデンはプロローグの中で次のように言っている。
 「この子たちもふつうの子どもたちなのだ。ときにはいらいらさせられることもあるけれども、それはどんな子どもたちにもあることだ。それどころか彼らは非常に情けが深く、驚くほどの洞察力を持っていたりもする。狂気がかえって真実をありのままに見ることを可能にするかのように」そして、ここに登場する“シーラ”を「…私たちみんなと同じように、彼女もまた苦難を生き延びた者なのである」として、理解を求めている。
 ここに書かれている子どもたちを中心とする人間模様を理解するには、まずそんな著者の意図を念頭に置いておく必要があるのではないかと思った次第である。

 それは、障害児を普通学級に組み込む努力が始まる前年のこと、1970年代のアメリカ、アイオワ州の地方都市での出来事である。その年の11月、まだ6歳半に満たないある女の子が、3歳の男の子を近所の植林地に連れ出し火をつけるという事件が起きた。女の子は身柄を拘束され、州立の精神病院への入院措置が決まる。が、そこの小児病棟に空きがなく、暫定措置としてトリイ・L・ヘイデンの特別教室に送られてくることになる。トリイの教室には、他の障害児教室からさえ見放された強迫神経症や小児分裂病の子ども、身体的および性的虐待にあった子どもや自閉症児など、すでに8名の「問題のある児童」が在籍していた。
 その女の子の名前は、シーラ。彼女のプロフィールを本文から拾ってみると、おおよそ次のようになる。
 「シーラは季節労働者用キャンプの一部屋だけの小屋で、父親と2人で暮らしていた。家には暖房も水道も電気もなかった。母親は2年前に彼女を捨て、下の息子だけを連れて家を出ていた。…シーラが生まれた時、父親は30歳だったが、母親はまだ14歳で、無理やり結婚させられた2カ月後にシーラを産んだのだった。…父親はシーラが小さい頃のほとんどを暴行のかどで刑務所で過ごしていた。2年半前に出所してからも、アルコールと薬物の依存症のために州立病院に何回か入院している。シーラは主に母方の親戚や友人の間をたらいまわしされたあげくに、ついに路上に捨てられたのだった。発見された時、彼女は高速道路の路線を隔てる金網にしがみついていたという。当時4歳だったシーラは児童保護センターに収容されたが、すべて虐待の跡とみられる多数の擦過傷と骨折の跡がみつかった。彼女は父親の保護の元に置かれることになり、児童保護ワーカーがこのケースを担当することになった。」
 資料ファイルには、郡の顧問精神科医からさえ“慢性的幼児期不適応”という診断が下された書類も入っていた。著者ヘイデンは、この査定に対して「なんともずるい結論」だと笑いとばし、こう述べている。「シーラの過ごしてきたような幼児期に対する唯一正常な反応といえば、慢性的な不適応しかないではないか。こんなめちゃくちゃな人生にもし適応できたとしたら、それこそその子が精神異常であることの証拠ではないか」と。著者の実践は一貫してこの視点を失わず、シーラの反応の特異性に目を向けつつも、シーラの正常性に常に信頼を置いた取り組みを展開していく。
 正常性に目を向けるということは、つまりはその子どもの可能性を信じるということであろう。しかし、その実践は大変な仕事である。実際、シーラは毎晩おねしょをし、異臭を放ち、何かをやらせようとすると叫び声をあげ、自分のすることを反対されたり抑えられたりすると暴れ狂い、周囲のものを何でも壊してしまう。怒られても叩かれても決して泣かないばかりか、父親に対してもだれに対しても敵愾心をみせる。そのうえ、幼児に大火傷(やけど)をさせた事件以外にも放火や便のなすりつけなどで三度も警察の厄介になっていた。要するに、シーラは「かわいくないことばかり」していたのである。ヘイデン自身も、この子を愛するのも教えるのも容易ではないと直感する。 
 ヘイデンは、この教室にあるたった二つの規則「ここではだれも傷つけてはいけないこと」「いつも一生懸命するってこと」を示し、自らもどんなことがあっても叩いたり傷つけたりしないという約束をする。そして、いろいろな事件と煩悶や失敗を重ね、また絶妙のやりとりがあって、徐々にシーラの心が開かれ、両者の間に愛情が生まれていく。さらに、あることをきっかけとしてシーラの高い知能が見出されていく。それは、天才とも言うべき生まれながらの才能の発見であった。しかし、彼女の才能の発見は、実践の域を越える、よりいっそう厳しい戦いを招くことになる。
 シーラとヘイデンは、2人で『星の王子さま』を何度も読んだ。それは、シーラが子どもとして経験すべきことを経験していなかったために、理解できないことがいっぱいあったからだ。ある部分では大人なみの理解力を示しながらも、とりわけシーラには人の感情や思いやることの機微などが理解できなかった。2人は本を読みながら、いろいろな話をする。そして、王子さまとキツネのやりとりにある「あんたが、おれを飼いならすと、おれたちは、もう、おたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ…」という関係を理解していくようになる。しかし、2人の間に深い愛情が生まれ、シーラの変化が確実なものとなった時、州立病院に収容するという裁判所の命令が執行されようとする。
 ヘイデンは、恋人の弁護士チャドの力を借りながら、収容命令と闘う方法を探す。シーラの進歩と彼女のずばぬけた知能の高さを示しながら、校長や教育長や父親に対して、州立病院はシーラを収容する場所として最適ではないことを説得していく。そして、裁判所の審問。チャドが告げる勝利の知らせ。
 この勝利の喜びの中で、シーラは「トリイがお母さんで、チャドがあたしのお父さんだったらいいのに」と告白する。3人で家族の真似ごとをし、シーラは瞬間の幸福を味わう。だが、この勝利の喜びの後に、再び大変残虐な事件が起こってしまう。シーラが、優しいと思っていた叔父ジェリーから性的虐待を受けてしまうのだ。チャドは激怒するが、ヘイデンは胸の痛みを感じながらも「シーラの中に見いだした心の傷が、おそらくジェリーの中にもあるのだ」と、複雑な思いに沈んでいく。
 この後、この特別教室の閉鎖が決まり、子どもたちとの解散するまでのせつない過程が描かれていく。2人の別れが近づいた時、ヘイデンは「すべてのことには終わりがあるのよ…あなたはすごく変わったし、私も変わったわ。2人一緒に成長したのよ。いま、どんなにすばらしく成長したかを見る時がきたのよ」と、シーラに言って説得する。シーラは涙を流しながら抵抗を示すが、再び「飼いならされたのなら、泣くことは覚悟しなきゃいけない」という『星の王子さま』の言葉にしがみつきながら、やがて愛することの痛みも理解し、別れを受け入れていく。

(ふもとまさひろ 障害者施設職員)