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北米における権利擁護とサービスの質に関するシステム 連載24

日本における「障害のある人に対する差別を禁止する法律(JDA)」の制定に向けて
―障害者の諸権利と権利擁護システムの全体像を踏まえて―

その1

北野誠一

1 はじめに

 前回まで4回にわたって、2003年度に予定されている支援費支給制度と北米および北欧の支援費の動向について考察してきた。
 今回から、これまでの連載を踏まえて、北米を中心とする諸外国の障害者の諸権利と権利擁護システムの全体像を整理し、日本における「障害のある人に対する差別を禁止する法律(JDA)」の制定の方向と可能性について考察してみたいと思う。

2 本人中心の地域生活(支援)とその権利(擁護)の全体像

 まず[図1]を使って、これまで考えてきたことの全体像を整理しておきたいと思う。
 [図1-1]を見れば分かるように、その全体像は四つの理念と、それに基づくシステムと法理から成り立っている。その対概念も踏まえれば、以下のとおりである。
A.本人中心の自立生活〔対概念は専門家(支援者)中心の保護的生活〕
B.地域生活支援〔対概念は施設生活支援〕
C.権利擁護〔対概念は権利侵害〕
D.支援費支給制度〔対概念は措置費制度〕
 私たちがこれまでの連載で一貫して追及してきたのは、本人中心の地域での自立生活を可能ならしめる諸権利と、その諸権利に基づく権利擁護システムの全体像を獲得することであった。次にそれぞれについて見てみよう。

[図1-1]障害者の諸権利(法)の獲得・形成の方向性とその諸権利を活用して権利救済を行うシステムの全体像(概略図)

拡大図
[図1-1]障害者の諸権利(法)の獲得・形成の方向性とその諸権利を活用して権利救済を行うシステムの全体像(概略図)

[図1-2]障害者の諸権利(法)の獲得・形成の方向性とその諸権利を活用して権利救済を行うシステムの全体像(詳細図)

拡大図
[図1-2]障害者の諸権利(法)の獲得・形成の方向性とその諸権利を活用して権利救済を行うシステムの全体像(詳細図)

3 本人中心の自立生活(A)

  [図1]のAは自立生活者Kさんが、学校教育・住宅・行政・商品等売買・医療・移動交通・家族近隣・仕事職場等の社会的諸関係の中で、さまざまな支援を活用しながら、主体的に生きるあり方を表現したものである。
 これまでの図は、ともすれば学校教育・行政・医療等関係システムや支援システムが強調されることによって、支援する側にウエイトが置かれがちであった。しかしAのように支援する側ではなく、本人中心のイメージを展開することによって初めて、さまざまな支援を活用しながら主体的に自立生活をする障害者像を描くことが可能となる。さらには、そのような本人を中心とした社会的諸関係との間での日常生活を表現することによって初めて、その日常生活関係上の諸問題(人権侵害等)が想定できるのである。支援する専門家主導の図を想定すれば、本人の生き方と矛盾するような苦情や人権侵害を想定しようもないからである。つまりはそのように決められているのだから、それに従って生きることを当然とされてしまうのである。
 Aの本人中心の自立生活という障害者像がなければ、そこには恐るべき人間的な権利の圧殺が待っているだけである。

4 地域生活支援(B)

 Aの本人中心の自立生活を支えるものは、Bの地域生活支援システムである。このAの本人中心の自立生活とBの地域生活支援システムを結びつける法理は、サービス(支援)受給権[法理1](Entitlement)とサービス(支援)参画・選択権[法理2](Consumer-Control)である。
 [法理1]のサービス(支援)受給権は、実際には前回のスウェーデンの例でも見たように、サービス受給権に見合ったサービス提供主体(自治体等)の責務のあり方と関係している。サービス受給権が存在したとしても、次の二つのパターンの問題が起こりうる。
1.日本の介護保険や医療保険のように、一定の条件の下でサービス受給権は保障されたとしても、サービスを提供する義務が保険者にはないために、サービスを発見できない場合が存在する。
2.カリフォルニア州の知的障害者サービスのように、サービス受給権が法や裁判上保障されたとしても、これが自治体の予算の範囲という免責を持つために、サービスを購入できない場合が存在する。
 [法理2]のサービス(支援)参画・選択権はいくつかの権利の総合ビジョンである。
 第1にサービス(支援)参画・選択権は一般的な自己決定・選択権を超えたコンシューマーコントロール(当事者主導)概念である。そのために1.当事者(コンシューマー)として関係する法・制度・計画・サービス等の作成から実行、そしてモニタリングに至るすべてのプロセスに参画する権利が、そこには含まれる。たとえばアメリカでは行政手続法において、すべての法律の施行規則に対して当事者の参画権が保障されている。
 次に必要なものは、2.選択に必要な情報を得る権利と自分自身の情報とプライバシーを守る権利である。必要な信頼できる複数の理解可能な情報を得る権利がなければ、サービス(支援)の選択権は絵に描いた餅である。それがいかに得にくいかは、たとえば建前は選択可能な医療や高等教育の場合を考えれば分かりやすい。
 ではこの[法理1]と[法理2]によってその権利を保障された地域生活支援システムとは、どのようなものなのであろう。
 それを一言で言えば、免責(Undue Hardship)なき合理的支援〔Reasonable Accomodation (Support)〕と名付けることができよう。これはたとえばADAで使用されている合理的配慮(Reasonable Accomodation)と近い概念である。
 たとえばADA第1章の雇用における合理的配慮のひとつに、職場の物理的環境を障害者に使いやすくすることがあげられている。そこには二つの合理的配慮が考えられる。ひとつはユニバーサルデザインに基づく普遍的なバリアフリーの配慮である。ADAはその第2章、第3章で工場やオフィスに一定水準のバリアフリーを求めているわけだが、このユニバーサルデザインを踏まえたバリアフリー環境のレベルは、どんどんレベルアップしていくに違いない。またリハビリテーション508条は「電子・情報技術アクセシビリティ基準」を2001年6月に実施し、連邦政府が購入する情報機器やソフトウエアに視覚障害者や聴覚障害者を含めた障害者が利用可能な基準を満たすことが義務づけられた。つまり、そのような形でのユニバーサルデザインに基づく普遍的バリアフリーが普遍的支援システム(Universal Accomodation)である。
 一方、そのように普遍的支援システムのレベルを上げたとしても、それだけでは障害者個々人のニーズを満たし得ない場合が存在しうる。それは二つの場合がある。1.そのことを想定して、それを普遍的支援システムに組み込むことが非常に大きな社会的コストを招く一方、それによって恩恵をこうむる人が非常に少ない場合。2.そもそも普遍的システムが想定したり組み込むことが不可能、あるいは困難な場合。
 そのような支援を個別的支援システム(Individual Accomodation)と名付ける。その多くは、より個別性を確保しやすい人的支援であるが、一部は機器やデバイスによる個別的対応に基づく。さらにこれもADA第1章の雇用における合理的配慮として、朗読や手話通訳等の人的援助システムを活用することが挙げられているが、これらは基本的に個別的支援システムに属することになる。もちろん拡大システムや自動朗読システムや点訳システム、あるいは文字表示システムのレベルが向上するにつれて人的対応ではなく、それらの機器やデバイスによる個別的支援システムとなる可能性があるし、それらがより技術革新と大量生産による低コスト化の中で普遍的なシステムに組み込まれて、普遍的支援システムとなることもあり得る。
 つまりは普遍的支援システムと個別的支援システムの関係は固定的なものではなく、絶えず普遍的システムの展開の中で個別的支援は見直されることとなる。ここで権利性の問題を考えれば、一般に普遍的支援システムとして位置づけられるほうが権利性もまた普遍化しやすいことは見やすい道理である。
 逆に個別的支援システムには、ADAにもある過剰な負担(Undue Hardship)の免責が起こりやすいと言える。実際にはこの問題は[法理1]と[法理2]の二つだけでは解けない問題である。
 問題はいくつか考えられる。ひとつはそれをLisaとMatthewのように市民権モデル(Civil Rights Model)と社会福祉モデル(Social Welfare Model)の問題として捉えることである(注1)。つまり障害者を一般的市民生活が困難な人として捉え、そのために必要な介助等のサービスを個別的支援システムとして捉え、一方、市民としての権利性に基づく普遍的サービスを普遍的支援システムとして捉える視点である。このような見方は確かに障害者支援の歴史の中で一定の真実を含むが、一方で、北欧を中心とする1960年代からのノーマライゼーション運動と北米を中心とする1970年代からの自立生活運動の中で、そのような固定的な社会福祉モデルも市民権モデルもまた大きく変容を遂げている。
 つまり市民権モデルは、黒人や女性運動による一般的な差別を禁止するあり方から、合理的配慮を拡大する方向に展開し、一方で社会福祉モデルは、次に見る「法の下での平等」[法理3]と「地域であたりまえに暮らす権利」[法理4]を活用することによって、隔離されたサービスではなく、普通の市民生活を享受するために個別的支援を活用する方向に向かうことになる。
 もちろん、この二つのモデルがぶつかる場面も見られる。たとえばそれは1999年のアメリカにおける最高裁判決(Cleaveland vs Policy Management Systems Corp.)で見られる(注2)。発作等の理由で仕事を失ったクリーブランドが、一方で障害者年金を申請し、もう一方でADA違反でPolicy Management Systems社を訴えたケースである。一方で仕事ができないということで障害者年金を申請受給し、もう一方で仕事ができるのに解雇したことを不当としてADA違反で訴えたのは、禁反言(エストッペル)にあたるかどうかが問題となった。Breyer判事の判決理由によれば、これまで多くの判決において事業主のADA違反を却下させる理由となったこのような事例は、矛盾しているとは言えないとした。つまり判事は、1.障害者年金は合理的配慮を前提としていないが、ADAはそれを前提としており、合理的配慮(クリーブランドは必要なトレーニングと仕事を遂行するために必要な時間の追加を要求した)があれば、職務遂行が可能な場合があり得る、2.障害者年金が一般的に想定する障害者のリストは極めて単純化されたものであって、ある特定の仕事に対する個別の能力の細部にまで考慮しているとは言えない等を挙げて、この件を控訴裁判所に差し戻している。
 この判例は、古典的な市民権モデルと社会福祉モデルの矛盾を見事に表現していると言える。
 一方で、社会福祉モデルにおいては、障害者は労働市場から排除されて働くことができないというスティグマを得ることによって障害者年金を得るが、市民権モデルでは各種の合理的配慮や支援を活用することによって、労働市場の中で自分自身がその職場のポジションに必須な職務(essential functions)を遂行できることを証明しなければならない(ADA裁判においては遂行できることを証明する立証責任は障害者にある)。
 これは社会福祉モデルが働くことができない障害者という烙印(スティグマ)を強調することによって、できる限りその受給者数をコントロールしようとしたことが関係している。
 つまり私が[図1]のBで示したように、本人の障害ゆえに必要な支援は、基本的に普遍的支援システムと個別的支援システムでなされるべきであり、それらの支援を活用することによって働くことが可能な人は生活費を賃金等で稼ぐであろうし、それが困難な人は高齢者や病者と同様に、一般的な健康で文化的な最低限度の生活費の支援を必要とするというに過ぎない。この合理的支援システムと生活費支援を切り離すことが、社会福祉モデルと市民権モデルの矛盾を超えるためにまずは必要である。
 日米の自立生活運動は、重度の障害者イコール働くことのできない人イコール自立生活のできない人という固定的な障害者像と闘ってきた。その結果、重度の障害者もまた合理的支援を活用して、それぞれの人生をそれぞれの決定と選択によって自立して生活することが可能であるとともに、さまざまな就労形態にチャレンジすることも可能であることが明らかとなった。

5 権利擁護システム(C)

 普遍的支援システムや個別的支援システムにおけるサービスを選択するとともに活用しながら主体的に生きる本人中心の日常生活は、それでもさまざまな困難や問題を生み出す可能性がある。それは、ひとつには一般的な障害者に対する差別・偏見のゆえである。もうひとつは個別の関係、たとえば医療との関係が、本人に長期にわたる入所(院)や不必要な手術等を要求するために、他の豊かな関係が損なわれる場合である(注3)。その場合、二つの法理が存在する。
 まず[法理3]は、他の市民と同じ市民権によってその平等権が保障されることである。ここには他の市民によるステレオタイプな障害者像や差別や偏見から解放される権利が含まれる。次に[法理4]は、最も統合された環境で普通の市民生活を享受する権利、アメリカでいう最も統合された環境でサービスを受ける権利(The Most Integrated Settings)である。
 この二つの法理が獲得されることによって、社会福祉モデルの諸権利は市民的権利のモデルに組み込まれていくことが可能となる。つまり、普通の市民生活の中で支援を受けながら、一般的な市民生活としての教育・就労・遊びを享受するとともに遂行することが可能となるのである。
 その際、障害者に対する一般的な差別・偏見や障害者に対する隔離や特別な対応と闘うとともに、さまざまな人権侵害と闘うために、Cの各種の権利擁護システムは存在する。
 それについては、連載19の[図1]公共・民間サービスから受けた権利侵害(差別)からの救済に向けたプロセスで詳しく説明したとおりである。

(きたのせいいち 桃山学院大学)


(注1) Lisa Waddington and Matthew Diller “Tensions and Coherence in Disability Policy : The Uneasy Relationship Between Social Welfare and Civil Rights Models of Disability in American, European and International Employment Law (DREDF 2000)
(注2) Cleaveland v. Policy Management Systems Corp. Supreme Court of U.S. No.97-1008 (1999)
(注3) このようなさまざまな人権侵害の豊富な事例については、障害者の人権白書づくり実行委員会編「障害者の人権白書」(1998)を参照されたい。