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ワールド・ナウ

タイ聾教育にかかわって

矢ヶ崎百合子

聾学校と指導者の不足

 「サッワディーカ、サワッサディーカップ」(おはようございます)
 聾学校の生徒たちのあいさつで毎朝、気持ちのよい1日を迎えます。聴覚に障害をもつ生徒だけに発音が明瞭という訳にはいきませんが、それぞれ手話など自分の言葉を使い、精一杯の笑顔での表現。私が青年海外協力隊として派遣された学校は、このような笑顔のあふれたタイ、バンコクにある王立セーサチアン聾学校でした。
 タイ全土に公立の聾学校は16校、聴覚障害児学級を持つ特別学校が14校、その他私立の学校が6校(幼稚部だけなどの単独学部のみの機関を含む)あり、およそ7000人近くの幼児児童生徒が教育を受けています。しかし、タイにおける教育を必要とされる聴覚障害者の数は1万4417人と言いますから、半数以上が何らかの理由で就学をしていないことになります。これは貧富の格差、医療事情、障害に対する認識・情報不足など発展途上国特有の事情によるものと考えられます。ここ数年にわたり、特殊教育センターが各県に1機関ずつ計76か所に設けられていますが、実際に機能しているところは少なく、これはタイ全土の障害者学校やセンターで抱える深刻な指導者人材不足問題とかかわっていると伺いました。

幼稚部を担当

 このような背景のもと、私が配属になった聾学校は、バンコクに2校あるうちの1校で、タイで最初に設立され、今年で50周年を迎えます。近くには現国王のお住まいになっている宮殿をはじめ各省庁などもあり、政治文化の中心地で、治安や交通面からも大変恵まれた環境です。生徒数は幼稚部から高等部まで約340人、そのうち校内の寮に80人の女子生徒が生活しています。スタッフは全部で75人おり、その中で公務員である正規教員は58人、聴覚障害者の補助教員11人が教育に携わっています。私はこの学校で、幼稚部を中心として1998年からおよそ3年間、聴覚障害児の成長にかかわらせていただきました。
 赴任当初、物資が豊富であることに驚き、美しい服に身を包んだ先生方にホスピタリティーあふれる笑顔で温かく迎えられた私は、そこに“豊かさ”を感じ、協力隊できた私にとって正直 “場違いな所”という印象がありました。やがてその感覚は大人中心の豊かさであって、子どもへ向けられた豊かさではないことに気付くと同時に、なぜ私がここにきているのかの意味もだんだんわかってきました。そして早期発見、早期教育設立と聴覚補償機器の活用、そして子どもへのかかわり方に関しての具体的な協力課題が見出されてきました。
 補聴器や発声発語訓練器に人数分のパソコン、そして補聴器特性検査器など先進国並みに機材はそろっていましたが、補聴器は棚の中で眠っているか、生徒がつけていてもそれが必要だと思える環境や指導がなされていないため役に立っておらず、発声発語訓練器などはコミュニケーション素地もできていない段階で使用されていました。さらに補聴器特性検査器は埃をかぶっていました。ほとんどの子どもにはたくさんの耳垢があり、耳栓状態になっている子や、炎症を起こし、明らかに病気になっていると思われる子どももたくさんいました。また聾学校の幼稚部だというのに、1クラス26人もいるので発達に応じた個別的な援助が難しく、子どもの可能性を引き出しにくい環境でした。さらに年齢相応の学年対応になっていないため、地方の聾学校では19歳の子が小学部1年にいたりと、それはもう驚きでした。

指導上のむずかしさ

 指導面では、学校全体の印象として知識を伝えることに重点がおかれ、子どもにとって魅力ある授業があまり展開されていないことも気になりました。このような授業でありながら、「できない、理解できないのは教員のせいではなく子どものせいだ」という先生も少なくありませんでした。もっと子どもの心に近づき、指導法というより子どもと一緒に感動し、感激し、そして共感することで子どもの心がフッと見えてくる―このようなことに少しでも多くの先生が気付いてくださればと願うのですが、実際のところ、この国では教員と生徒の距離は遠く、厳しい師弟関係のようなものがあるので、子どもと目線を合わせてとか子どもの内面を理解しようとかはなかなか難しいように感じられました(数年前はおしおき棒というのが存在していたことも理解できました)。
 このような状況にあって、しかも限られた期間ということもあり、私が協力できそうなことはとにかくやってみることにしました。もちろん校長やカウンタパートといわれる通称技術移転対象者である同僚(以下CP)を巻き込んで、それは大変な試みでした。活動上大切なのは「人材育成」ということでしたので、私がいなくなってもできるような“何か”を同僚と共に見出して残していくことが前提となるため、そこには言語や文化の数々の大きな障害を否でも応うでも乗り越えていかねばなりませんでした。
 いざ活動をと思った時、子どもたちの耳の中があまりにも悲惨な状態であることにショックを受けました。耳の状態が聴覚活用の妨げになっている一因でもあったので理解ある耳鼻科医を探し、学校に来ていただき、補聴器の活用と共に保護者会での啓もうにいそしみました。耳が清潔になったところで耳型を取り直し補聴器をして、それが効果的に使用できるような遊びを心がけ、環境設定を行っていきました。

集団遊びから子どものやる気を引き出す

 私は日本では弱点となっている、人数が少ないと難しい集団遊びがここでは可能であることを最大限に利用しようと思いました。音を使ったゲームや劇遊び、ごっこ遊びがバラエティに富んでできますし、活動自体が盛り上がります。子どもたちは友達とのふれあいや交流を毎日楽しんでいました。ぶつかる相手が多い分、そこから我慢することや相手の気持ちを理解することができます。また気のあった子とかかわりあいたい、相手に伝えたいそして話したい、というコミュニケーション意欲も生まれます。生きた言葉の素地を形成するには、これはとても大切な要素だと思っています。今まで「お勉強」的要素の強かった保育では活躍する場がほとんどなかった重複の子どもも参加できる機会が増えました。音や音声を楽しい遊びの中に取り入れることによって音への世界を広げ、補聴器が必要だと思える環境作りを心がけました。しかし、しばらくは大人中心、そして「見える学力」に焦点があてられた教育のなかでは、このような活動は受け入れられにくかったようです。
 それは活動後半年ぐらいして、初のタイの全ろう学校の教員を対象にした授業研究会を行ったときのことでした。私はここで行う授業で、今抱えている問題―すなわち1クラス26人の指導をどうしたら効果的にできるかをみんなに考えてもらいたい、どの子も楽しく活動できるにはどのような工夫が必要か、そのための授業に、26人の子どもをすべて参加させたい―という私の考えに対し、上からの命令は、決められた6人を選ぶようにとのことでした。
 ここでの目的は授業の方法を見せること。先生方は効果のある技法を求めているので、スムーズな授業を見せることであるという上の考えに対し、私は「すぐに効果が出る手法など私は知らないし、それでは今抱えている課題の解決にはならない、どの子も楽しく活動できるにはどんな工夫が必要か、みんなに考えてもらう機会を作りたい」ということを伝えました。年長者の意見が絶対といわれている文化に真っ向から反してしまったのです。さらには日本語でなく苦手な外国語だったので、校長先生は理解するのにさぞかし頭を悩ませたことでしょう。子ども主体の日本の考え方と違って、ホスピタリティーあふれるタイでは、あくまでもお客様主体という考えが裏目に出てしまったようです。
 しかし後のCPの「私は今まで間違っていた。確かに私のクラスでは重複の子の表情が生き生きし始めている、ごめんなさい」という言葉から状況が変化し始め、ついには校長先生も研究授業が終わった後の交換日記に「I’m grad that Vachiraphon (CPの名前) gained a lot of confidence!She is and will always be our good teacher thanks to you」と書いてくださいました。

一刻も早い障害の発見、そしてケアをめざして

 活動上もう1つ、任期延長の直接の理由となった早期発見教室の設立という大きなプロジェクトへのかかわりがありました。
 幼稚部に在籍する8・9歳の子どもたちは、適切な時期に適切なケアを受けなかったため、望ましい心身とそれに伴う言語発達に支障を来していました。早期発見教育のための相談機関が公立学校になく、病院や補聴器会社に主に言語療法という形で存在していた、いわゆる難聴児早期ケアシステムの値段は、30分で日本円にして約1500円という、公務員の初任給がおよそ2万円ほどのこの国ではよほどの金持ちでない限り受けられない、なんとも悲しいものでした。この現状を踏まえ、長年の学校の願いであった学校内早期発見教室(日本では就学前乳幼児相談室)の実現化が試みられることとなり、私もそのプロジェクトの一員として、案内書作りから関連機関との連携・協力の要請と同時に実際の指導実践、さらにカリキュラム作りまで携わることになりました。
 教室設備等で設備面は草の根無償資金援助を申請し、細かい備品はなるべく学校や財団のほうから資金援助をいただくように努めました。なぜならタイは「援助慣れし始めている」ということをあちこちで耳にしており、専門家や協力隊はお金だと勘違いしている施設もあると聞いていたので、その考えが助長されぬよう資金面での援助は特に神経を使い、慎重にしました。
 その後も一筋縄でいくことはなく、茨の道が続きました。重責感にさいなまれながら辞書を引き引き作った案内書の原案、「聾学校は信用していない」と言われ、門前払い同然のこともあった病院への協力要請活動、一時は昼食の時間さえ取れなくなった幼稚部1年と早期発見教室の掛け持ち指導など、忙しい日々が過ぎました。しかもことばのハンディは大きく、意図していることがなかなか伝わらず、しまいには言葉の代わりに涙が出てくることさえありました。しかし、ここでのコミュニケーション障害の経験は、聾学校教員である私にとって難聴児の気持ちに少しでも近づけるという点で大きな武器にもなりましたし、心のバリアフリーを考える良いきっかけになりました。すなわち、相手を思いやる気持ちとほんの少しの工夫が「心のバリアフリー」を可能にすることを、身をもって体験しました。

始まった就学前教育

 そうこうしているうちに、すべてにおいて完璧とは程遠いものの、何とか就学前乳幼児教室が動いていきました。「この教室のおかげで親子心中を思いとどめた」と涙を流し話していた親、「この子がピアノの音を聴いてはじめて笑った」と満面の笑顔で喜んでいる親を目の当たりにすると、この計画に携わらせていただき本当によかったと思いました。今まで重要視されていなかった子どもを取り巻く親や先生などの人的環境を尊重し、共に育っていける教室が私たちの目標だということを、先生方としっかり確認した出来事でもありました。それと同時に、文化や言語の違いはあっても、子どもの親を思う気持ちに国境はないということ、それゆえ指導する立場である教員にも国境があってはならないと思いました。そう考えるようになった頃、私の任期は終了間近となっていました。

協力隊活動を通して分かったこと

 途上国への協力ということでは、さまざまな参加形態があると思います。その中で協力隊は、ボランティアとして現地の人と同じ生活をすることによって同じ目線で物事を見ていくので、そこには今まで見えなかったもの、見方や考え方がふと見えてくるときがあります。そうはいっても、同じ生活で同じ目線でといくら自分に言い聞かせても、結局日本で生まれ育った私たちには理解する限度がありました。しかしそれだからこそ、さまざまな葛藤を含んだ心と心の真のふれあいがあったように思います。そこには相手国への尊敬の念と柔軟で謙虚な心と共に、強い信念も持ち合わせていなくてはならないという、難しいバランス調整が必要ということを学びました。また異国での協力活動は、言葉に頼れないからこそ、相手の目や表情や動きに敏感にさせ、それがお互いの内面の結びつきを強くしたような気がします。
 ボランティアの身分ではあっても、現地の子どもたちにとってはボランティアも現地職員も「教員」であることには変わりません。現地の職員と同じ責任感を持ってやっていくことが子どもたちへの、さらには相手国への礼儀であるという考えで活動してきました。
 タイの学校事情は子どもにとって課題がかなりありますが、そのような状況にありながらも、子どもたちは素直で礼儀正しく、現在日本で大きく取り上げられている学級崩壊やいじめの問題はほとんど耳にしませんでした。これは文化・宗教観からくる、教員や年長者は敬われるべきものという思想が徹底しているからでしょう。そして細かいことにこだわらず、楽しく楽なことを追求する姿勢は根気を必要とする障害児教育の発展を難しいものにしていることも確かですが、タイの方々のこのような寛容性は、忙しい日本では失われつつあるものではないかとうらやましくも感じています。日本の教育現場では忙しすぎて、逆に心の余裕がなくなり、それが子どもに影響しているということもあるような気がします。
 またタイの方は、老若男女にかかわらず、人をもてなし楽しませることを心得ています。このようなホスピタリティー精神が強いあまり、子どもが見えなくなることもあるのでしょうが、よく考えてみれば、私も活動に必死になるあまり、タイの文化や風習が見えなくなったことと同じことかもしれません。このように、多方面から物事を感じるようになってきたのも、異国の地で障害者の協力活動に参加させていただいたからと感謝しています。いつの日かタイの聾教育が、子どもに焦点を当てたものになるよう心から願ってやみません。

(やがさきゆりこ 元青年海外協力隊、現都立ろう学校教諭)