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機関誌は貴重な文化財

花田春兆

 正倉院は、貴重な重要文化財の宝庫として知られている。
 などと、途方もない枕を振る(前置きを置く)ことから始めよう。
 鏡・脇息・水差しなど芸術味豊かな装飾品に混じって、木簡というのか、細長い板に文字を書いて束ねたものが残っている。今でも書簡という文字などに残っている。“簡”で、紙と同様に使われているものらしい。
 残っているのはもちろん公のもので、さしずめ役所の書類のファイルで、書かれているのは―国立の診療所でシナモンが不足しているから、国庫に有るのを少し回してくれ―との依頼状。
 性質からして用が済めば、捨てられるか削って新たに書き替えられて、消滅させられていても当然なのだ。
 だが、残されていたおかげで、当時の筆記用具から筆記形態まで、そして、当時の医療の現状、現代風に言えば庶民に開かれていた医療保障制度、つまりは社会福祉政策まで、垣間見程度ではあっても、窺(うかが)い知ることができるのだ。
 だから、まさに断簡遺墨であっても、生活の臭いを感じさせるものであれば、たとえわずかな文章でもそこから、実際の生活ぶりから社会環境に至るまで、血の通った人間としてのものを受け取れるのだ。それはリアルタイムに刻まれた記録であり、時を経て読まれれば貴重な生きた歴史でもあるのだ。
 ここで、本題の障害者団体が個々に発行している草の根的機関誌が登場する。
 もちろん、全国的な大組織のものもあるのだが、ここでは、よりいっそう身近なものとしてのサークル的な、あまり拡がり過ぎていない組織の機関誌のほうをイメージしながら、進めたい。
 そうした機関誌にこそ、障害者の実生活の中から湧くさまざまな思いが、障害者自身の声で綴られているのだ。
 仲間同士の呼び掛けはもちろん、社会への訴えにしても、普段着のなまの声で語られている。障害者自身を知るには、まさにまたとない絶好な第一次資料であり、リアルタイムに綴られていく生きた歴史でもあるはずなのだ。

 ここで一つの例をあげよう。
 正倉院の木簡が医療関係だったから、こちらの機関誌も医療関係のものにする。
 ただし、あまり良い例とは言い兼ねるし、深入りする余裕もない。
『東友』という東京ヘモフィリア友の会の機関誌がある(あった?)。このカタカナの正確な訳がどうなのかは知らないが、内容からして血友病関係のものであることは明らかだ。
 その53号(1992年6月)は、HIV訴訟の証言特集と銘打たれている。エイズに感染させられたことへの、責任の保障を製薬会社側に求めた、友の会副会長の証言記録なのである。
 ところが、その8年ほど前の30号(84年3月)には、帝京大学の安部英教授の、血友病自己注射法に関する一文が掲載されている。
 これに限らず同教授は、“お話”を含めてたびたび紙面に登場し、会員の集会にも出席しているのだから、密接な関係にあったことは確かなのだ。
 が、非加熱製剤を巡る問題で、教授は反対側の被告席に回ることになる。
 この事実に対する解釈と評価は、人によって分かれるだろうが、教授が血友病の人々に、絶対的とも言える影響力を持っていたであろうことは疑えない。その事実を『東友』の紙面は克明に伝えてくれる。
 血友病で、そしてエイズに関心を持つ者にとって、これほどの確かな貴重な資料がまたとあろうか。しかも誰れ彼れの研究家の解釈によって色付けされていない第一次資料なのだ。広い意味での障害者福祉の、また医療面から見ても価値ある文化財と言えるであろう。
 しかし、その『東友』を知ろうとしてインターネットで検索したが出て来なかった、という人がいた。改題しているのではないかとも考えられるが、ともかく発行所も不明では入手はもちろん、どこで読めるかを問い合わせる術もないことになる。
 私がそれを知ったのは偶然、東京の港区にある都立障害者福祉会館の図書資料室で、整理に当たっていた人から聞かされたので、いささか“猫に小判”なのだが、関係者にとってはまさに“咽喉(のど)から手が出る”シロモノに違いない。
 しかも、あまり知られていない、残されてもいない(と思われる)資料がふんだんに眠っているのだから、これはもう、こんなうまい話はないことになる。

 もちろん、障害者関係の機関誌だからといって、医療面に限られるはずはない。むしろ、障害に絡む生活や人生に対しての悩みを語り合うとなれば、どちらかと言えば文学面のほうに近づいていく、という傾向が見られそうでもある。
 そうして文学的水準という点になれば、総体的に見て、質量ともに散文よりも詩歌作品のほうに目を引かれるものの多いのは、否みようのない事実のようだ。
 体力とか社会的経験とか、散文で大成するには不利な条件が作用しているのは確かだが、日本人特有の感性の良さが、詩歌、特に短歌・俳句などの短詩形文学に親近感を抱かせての、相乗作用の影響も見逃せまい。
 そこに“療養文芸”としての一つのジャンルを形成するような作品群が生まれる。愛好者は即作者でもある、という裾野の広い文学である。その主要な一翼をなしているのが、ハンセン病の人々であるのは、俳句関係者の間ではあまりにも広く知られている。
 俳壇の最高峰にまで登りつめた人もいるが、多くは裾野を豊かに彩っている人々なのである。それらの人々の作品発表の場となっているのが、それぞれの療養所で発行している機関誌なのだ。
 療養所の広報誌的な意味も含まれていて、厳密には障害者団体の機関誌とは少し違うかもしれないが、障害者自身の声を響かせ、障害者同士の心の交流の場となっている点では、使命を同じゅうしていると見てよいだろう。
 前述した都立障害者福祉会館には、全国の療養所からの機関誌(?)が送られてきている。賑やかさを感じるほどだ。
 はなはだ勝手な読者である私は、その詩歌欄にだけ目を通す。もちろん同好者としての興味が優先するからだが、そこを読めば全体の動きや状況も、自ずと感じとれてしまうようなそんな気がするのだ。
 そこで目についた人には、本誌の巻頭の扉の『うたの森』に登場願うことにもなる。今月号もそうなっているのだ。
 それだけで言うのではないが、機関誌が社会に向かって開かれた窓である、という意義は大きい。私にしてもその窓を通さなければ、ハンセン病に触れることなどとても考えられないのだ。

 ここで少し手前味噌を披露することを許していただこう。
 私たち、脳性マヒを主体にした身体障害者の文学愛好者グループの〈しののめ〉は、創刊50年を数年前に迎えた。
 創刊といっても最初は手書きの回覧誌だったから、ほとんど残っていない。印刷になってからも、鉄筆のガリ版、タイプ印刷と時間をかけて移っていったし、初期のものは現在の再生紙どころではない戦後の粗悪な紙だったから、今残っているものも触れば崩れそうな状態。わずかに残っている回覧誌とともに、まさに現代の木簡である。
 形態だけでも博物館もの、文化財(?) だろうと誇示したくなるほどだが、内容もそれ相応に備えているはずなのだ。
 出発は、“療養文芸”はなにも結核やハンセン病の専売特許じゃないんだぞ、くらいの意気込みを秘めてのものだったが、次第に障害者問題への発言がウエイトを増してゆく。文学という表現の立脚点を守りながら、一時期は障害者運動をリードする勢いであった。
 『しののめ』誌上は主張を展開する場であるとともに、行動をリアルタイムに記録する場ともなっていったのだ。

 ともあれ、ここに挙げたのは特に個性の強さで目を引くものと言えそうだが、他の多くの機関誌にもそれぞれに、生命の重さとでも言いたいほどに、それぞれの存在価値を持っているはずなのだ。作っている人は情熱を傾けているのだ。
 都立障害者福祉会館の図書室には、500種類を超えようかとも見える、そうした障害者団体機関誌が、壁際に据えられた書棚を埋め尽くしている。これだけのものをそろえて、閲覧に供しているところなど、他のどこにもあるわけがない。ましてや、開館以来20数年間の整理・保有の蓄積が加わる、となればなおさらである。
 そう、整理・保存となると、想像をはるかに越えた大問題になってしまうのだ。本格的事務所を持てるような大規模組織や療養所ならいざ知らず、個人宅を発行所にしているような大部分の草の根団体では、自分の所のバックナンバーの保管だけでも難事業になっていると思われる。現に『東友』は前述した通りだし、『しののめ』にしても都立障害者福祉会館の図書室を頼りにしているのが現状なのだ。
 しかし、その図書室自体すでにスペース的に限界が見えてきてしまっている。それに会館の図書室に過ぎないのだから、会館を所管する福祉局の人事次第で、図書・機関誌を重視する人材が配置されるという保証はどこにもない。それに都立という枠を厳密に当てはめれば、対象とする地域もおのずから限定されてしまう。
 となれば、ここでもう、国レベルの障害者情報センターの事業の一環として、障害者自身が発信した文字情報の収集・保管のために、相応のスペースの確保がなされないものか…と願うばかりだ。

(はなだしゅんちょう 俳人・「しののめ」主宰)