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プロ選手室塚一也の挑戦

北沢一利

 昨年の事であるが、障害者スポーツの現場を肌で感じようと、釧路湿原全国車椅子マラソン大会に出かけてみた。ハーフマラソンのスタートラインに並んだ選手の中には、「ケンタウロス」の異名を持つ“96年アトランタ・パラリンピック銀メダリスト”室塚一也選手(36歳)もいた。
 車輪をつかむ彼の腕は、日に焼けて真っ黒になっている。しかも私のふとももを上回る太さだ。この腕は、時速50km強を生み出す。50kmといえば、私が自転車で猛ダッシュした早さよりも、まだ早い。まっすぐな下り坂で、ギアをトップにいれて、お尻をサドルから離し、左右にフリフリしてこいだら、ようやく追いつくくらいの早さである。普通の人が一般道をこんな速さで走ったら命はない。目にはほこりや虫が山のように入ってくる速さだ。
 室塚選手のこの腕は、彼の生活を支えている。彼は身体に障害を負いながら、その身体で生計を成り立たせている数少ないプロ選手の1人である。室塚選手は1994年に国内初のプロ選手となった。
 室塚選手はもともと自動車整備士だったが、1986年21歳の時、通勤途中で交通事故に遭い脊髄を損傷。下半身の自由を失ってしまう。約7か月入院した後に、美唄市の北海道立リハビリテーションセンターに入所。1988年、京都で開催の全国身体障害者スポーツ大会で車椅子駅伝に感動し、翌年からランナーとして競技を始めることになる。
 彼は各方面の取材に対して「事故に遭っていなかったら今の自分はなかった」と笑顔で答える。まるで「きのう階段で転び、ひざをすりむいちゃったんだ」と話すような調子だ。そんな彼を車椅子メーカーがサポートするようになり、彼のプロ選手生活が始まったのである。
 当日、大会の参加者は167人。ハーフマラソンには男女合わせて61人が参加した。選手の年齢は17歳から63歳まで幅広い。鳥取、熊本、広島など全国各地から、夏でも涼しい釧路で行われるこの大会で、力を試すために集まったのだ。家族連れも多い。みなそれぞれ自分の目標を持っている。
 室塚選手はその先頭を切ってゴールした。2位に大差をつけてのゴールだった。彼の目標はただ一つ。シドニー・パラリンピックで金メダルをとることである。しかし、その後行われた本番では7位に終わり、惜しくも入賞はできなかった。世界はなかなか手強いぞ。第2、第3の室塚選手が育つことを期待したい。
 次は2004年、アテネである。

(きたざわかずとし 北海道教育大学)