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1000字提言

書道の先生から教えられたこと

助川征雄

 飲み会の疲れでうたた寝をしていたらある老人の夢を見た。「だれだったのかな」とぼんやり考えていたら、それが精神保健福祉センターで老人性痴呆疾患デイケアをやっていた頃のメンバーの1人であることに気づいた。アルツハイマーの67歳の人であった。彼は50数枚のはがきに同じあて名を書いてしまい、老人性★痴呆→認知症★と診断され、当時は在宅療養をしていた。当然のことながら、彼はデイケアでは習字のプログラムが苦手であった。習字の時間になると部屋に入りたがらなかったし、そのために休んでしまったこともあった。
 そんなある日、会社の寮母さんがボランティアで習字を教えてくれることになった。その先生の教え方はユニークで、「墨で遊ぼう」というものであった。手本を見て字をなぞっても絵を描いてもよかったのである。ある日、先生が「梅の花」という題を出したところ、彼は五弁の花を紙一面に描き、「見事な花ね」と褒められた。気持ちが17、8歳の女学生に戻っている70数歳の女性は、半紙の片隅にぽつりと小さく「梅」と書いた。先生は「初々しい梅ね」と言った。彼女は、少女のようにうれしそうにはにかんだ。
 人間は不思議なものである。翌年、彼は2メートルもある書き初めをさらさらとやってのけたのである。一瞬、時間がとまり、それから皆で見事な出来栄えに歓声を上げた。私はあまりうれしかったので、その書き初めを皆が集まる部屋に長い間貼っておいた。
 それからしばらくして転勤し、1年後に再び彼に会いに行ったところ彼は私を覚えておらず、ていねいに初対面のようなあいさつをした。彼はそれから間もなく亡くなったそうである。彼の力作はそれからも長く部屋に貼ってあった。
 あとで、残された奥さんにお話をうかがう機会があった。「ある日、主人が、さっきここに来ていた女の人、感じが悪かったねと、ぽつりと言ったんです。ボケて何も分からないと思ったら、私ががみがみ怒ったことをちゃんと感じとっていたんですよ」。それから奥さんは感情的にならないように努力したそうである。このようにして、★痴呆→認知症★を抱えた老人たちは、多くの人たちにかけがいのない思い出を残して旅立っていったのである。

(すけがわゆきお 神奈川県精神保健福祉センター)