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ほんの森

日本文学のなかの障害者像
―近・現代篇―

花田春兆 編著

評者 小野隆

 「しののめ」同人たちの「障害者」に関する文学作品の書評をまとめ、花田氏が「補充されるべきノート」を加えて解説している。
 作品の中で障害者がどのように描き出されているか、このテーマを「障害をもつ人」たち自身が語る。わが国の近代文学史上の著名な文学者たちが、作品に「障害者」を登場させていることは、花田氏も指摘するように「障害を負うことが(中略)誰でもが一度は目を向けても不思議ではない」大きなテーマだ。有名作家たちがいろいろな観点から多彩に「障害者」を取り上げていることには驚く。
 文学の役割のひとつは「地獄」を描くことであろう。言い換えれば「思い通りにいかぬ」これをいろいろなテーマを通して披瀝し続け、読み手に影響を与えていくものだ。「障害」をもつゆえに「思い通りにいかぬ」ことは多い。まさに「四苦八苦」こそ人間の永遠のテーマに違いない。ただこのテーマを扱い、どれだけ普遍性を持って読者に訴えかけ、共感を生み出すか、これが作品の価値を決めるのではなかろうか。
 この著の難点は、いろいろな「書評」がさまざまな論点から書かれていて、テーマの取り上げ方に一貫性に欠けていることだろう。だが、これはこの著の面白さであるとも言える。まさに精粗取り混ぜて、の観と関心の置き方の多彩なことを知らされるからである。 
 「障害」をもつ著者が作品で自分の「地獄」を語ることは、自らの存在証明にかかわることだろうが、場合によれば、ある種のル・サンチマンの表出に陥る可能性もありえよう。そこを乗り越える作品でないと文学としての価値は低いものにならざるを得まい。また、敢(あ)えて誤解を承知で言うなら、「障害」をもたない作者(この証明は難しい)が「障害者」をテーマにする場合、作者の意図を推し量る努力が必要となる。ただ壮絶な努力の人生を描くとか、悲劇に収束する事柄を描くとか、それだけではあまり意味はない。「障害」を人間の問題として普遍化することに作品の成否がある。
 この著は「補充されるべきノート」が読ませてくれる。願わくば、ひとりの著者がこの著の書評で取り上げた作品を読んで、どう料理するか、これを期待したい。その動機を与えてくれるなら、この著の試みは新しい「障害者関連の文学」に目を向ける格好の機会を提供してくれる好著であると言える。巻末の作品年表は、その資料として大きな価値がある。

(おのたかし 本誌企画委員)