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文学に見る障害者像

セルバンテスの『ドン・キホーテ』
―銀月の騎士との決闘―

高橋正雄

 1615年に刊行された『ドン・キホーテ』続編1)の終末近くには、ドン・キホーテが銀月の騎士と戦って敗れるという場面がある。銀月の騎士は、自分の願いは、ただドン・キホーテが冒険の旅を止めて帰村し、1年間静かに暮らすことだけだとして、自分と戦って、負けた時にはおとなしく郷里の村に帰るという条件で、ドン・キホーテに戦いを挑むのである。
 実はこの銀月の騎士というのは、ドン・キホーテの故郷の村の得業士サンソン・カラスコだった。カラスコは後にドン・アントニオなる人物に自らの正体を明かして、「ドン・キホーテの友人たるわたしどもはみな、あの狂態を残念に思っております。わたしも一ばん気のどくがっておるものの一人なのでして、あの人の病気には、静養が何よりでして、村に帰って家にいてくれたらと思い、家に帰らせる手だてを考えました」と、その意図を説明する。そのうえで彼は、「あの人と一騎討ちをして傷をつけないように打ち倒し、その条件として、負けた者が勝った者の言いなりになるということにいたしました」「あの人は騎士道の掟てだけは厳重に守ってくれますから、かならず、つがえた約束も守り、わたしの言ったとおりにしてくれるものと思っております」と、自分と約束して敗れた以上、ドン・キホーテはおとなしく故郷に帰るはずだと語るのである。「わたしの善意の企みが功を奏して、ひとりの人が、根はいたってりっぱな考えの方なんですがね、正気に戻り、かたがた騎士道などというたわけごとをやめてもらいたいのでございます」。
 ところが、こうした銀月の騎士の説明を聞いたドン・アントニオは、「世に二人とない面白おかしい気ちがいさんを正気に返して、世間の蒙る損失を、神さまはお見遁しくださいましょうか」と、次のような反対意見を述べる。「ドン・キホーテどのの正気が世にもたらす利益は、あの狂気で世に与える喜びに比べますと、物の数ではありません」「慈悲の心に背きますようなものの、ドン・キホーテどのには直らないでいただきたいものですよ。直りましたら、あの人ご自身のおもしろさだけでなく、ひいて従士のサンチョ・パンサどののお愛嬌も見られなくなります」。すなわち、ドン・アントニオは、「ドン・キホーテの引退で、彼の狂態を知る人々がみんな、それを眺める楽しみを失う」として、ドン・キホーテがその狂気から回復するのを望まないという意見を述べるのである。

 この場面には、ドン・キホーテの狂気に対する二つの対照的な意見が描かれている。一つは銀月の騎士なるサンソン・カラスコの意見で、負けたら故郷に戻るという条件で決闘してドン・キホーテを故郷に戻し、静養させるという考えであり、もう一つは、ドン・キホーテを慰み物にするために、その狂気は直らぬまま放置しておくというドン・アントニオの意見である。
 このように二つの意見を並べると、当然のことながら銀月の騎士のほうが治療的で人道的な態度のように見える。特に17世紀初頭の精神病に対する治療法も確立していなかった当時、ドン・キホーテを病院に閉じ込めるわけでも厄介払いするわけでもなく、わざわざ故郷の村に連れて帰って静養させるという方針は、精神病を神や悪魔のような超越的な存在と結び付けて考える迷信的・呪術的な考えを脱却した極めて合理的な考え方である。もちろんドン・キホーテの妄想が静養だけで治るとも思えないが、それでもドン・キホーテは騎士としての誓いは守るはずだという彼の妄想の特質を上手に利用しているあたりは、すぐれた対応というべきであろう。そして実際、銀月の騎士の目論見(もくろみ)通り、ドン・キホーテは故郷に帰り、正気に戻るのだが、実はそれから程なく、ドン・キホーテは亡くなってしまうのである。
 銀月の騎士との戦いに敗れたドン・キホーテはその後すっかり落ち込み、床に伏せるようになる。公衆の面前でみじめな敗北を喫したドン・キホーテは熱病を発し、「わしの頭はいまや明晰じゃ」と、自らの狂気を悟り、自らの妄想を否定した後に、亡くなるのである。その意味では、『ドン・キホーテ』全編の結末は、文字通り病気は治ったが患者は死ぬという、皮肉な結果になったとみることもできる。
 そしてこのような結末を見ると、ドン・キホーテの狂気を治そうとした銀月の騎士の意図と善意はわかるにしても、果たして彼のしたことに問題はなかったのかという気にもなってくる。実際、誇り高いドン・キホーテを公衆の面前で恥をかかせ、故郷に返すという所業は、いわばドン・キホーテの騎士としてのアイデンティティーを危機にさらし、彼の生きがいや人生の目標を奪うことになったのではあるまいか? ドン・キホーテにとって妄想が持つ内的な意味も考えず、強引に正気に戻すという治療は、必ずしもドン・キホーテに幸福をもたらしてはいないのである。
 そしてそのような観点から、もう一方のドン・アントニオの態度を見てみると、秋元波留夫氏2)が指摘するような病者をからかうという姿勢は論外にしても、しかしそこに、ドン・キホーテの常軌を逸した言動を忌避せず、ユーモアや心慰められるものを見いだすという姿勢を見て取るならば、むしろ介護者として望ましい部分もあるのではないか? まして実際には周囲の人々は、ドン・キホーテを慰みものにするという当初の意図に反して、ドン・キホーテの言動にこのうえない賢明さや高貴さを見いだして感動しているのだから、ドン・キホーテは「聖なる道化」としての役割を果たしているということもできる。ドン・アントニオの態度は、それ自体としては彼自身も認める通り無慈悲なものであるには違いないが、ドン・キホーテの行動の自由を制限せず、彼の言動に狂気を越える価値を見いだして健常者以上の存在意義を認めているという点では、人道的な部分があるという逆説も成り立つのである。もっともそれは、ドン・キホーテの症状が、典型的な★精神分裂病→統合失調症★の幻覚や妄想とは異なり、症状自体が患者を苦しめたり悩ませたりする要素に乏しいという前提があって初めて成り立つ論理ではあるのだが、そこに本人のためによかれと思ってしたことがかえって徒(あだ)となり、邪悪な意思でしたことが思わぬ功徳をなすといった人生の多義性・不可知性を認めることもできるであろう。
 いずれにしても、ドン・キホーテの狂気なるがゆえの勇敢で純粋な行動を見ていると、人は本来、幻覚を見ながら生きている存在であるとともに、妄想なしでは生きていけない存在ではないかとも思えてくる。あるいは、ドン・キホーテはもともと気高く高貴な人間だったからこそ、狂気によってもその美質が失われなかったというべきであろうか?

(たかはしまさお 筑波大学心身障害学系)


1)セルバンテス(高橋正武訳):『ドン・キホーテ続編(3)』岩波書店、1977
2)秋元波留夫:ドン・キホーテの病跡学・病跡誌35:2~19、1988